第1話 4

 火星でも一日は二十四時間。一年は三百六十五日と定められている。もちろんうるう年もあるが、残念ながらオリンピックの開催地になったことは一度もない。

 別に改める必要もないし、火星時間など作っても混乱するだけだし、一日を三十時間にしたところで人間の活動時間が増えるわけでもなし。もちろん季節だってありゃしない。だったら地球と同じでいいじゃん、というのがその理由。ただし、火星には都市間の時差がないので、移動は地球より便利になっている。

 火星標準時を決めるに当たって、国連で三年近い議論があった。グリニッジ天文台の世界標準時を採用すると決まったのは、もう誰も覚えていない昔の話だ。

 裏には政治的な駆け引きがあったのだが、そんなこととは一切関係なく、人々は火星に生まれ、毎日を暮らしている。

 ただ一つの問題として、カレンダーを改めなかったばかりに、祝祭日が偏った時期が、やはり存在することが挙げられる。休日分散政策も進められてはいるが、人類は今も「休日は交代で休む日のことじゃなく、みんなで遊ぶ日のことだ」と思っている。

 ともあれ。

 年末年始は全世界的な休業と決まっている。

 久しぶりに戻った実家での正月。慧一は仏壇に――宇宙時代になっても変わらないものはいくらでもある――手を合わせた。

 遺影には精悍な顔つきの男。

 何か話そうかと思ったけれど、言葉はすぐには出なかった。

 半年前に亡くなった父、将臣は、GDの整備士だった。

 慧一がパイロットになったのは父の影響だ。

 一旦シーズンが始まれば、年末まで帰ってこない父だったが、慧一は寂しく思ったことはない。テレビをつければそこに、父が整備した機体が映っていた。時にピットの様子が映り、堂々とした居住まいの父の姿も確認できた。

 高校を卒業してすぐ、慧一はパイロット訓練校に入学した。もちろん、父も母も賛成した。二年間の訓練過程を終え、地元の出資が一番多いという理由で〈来島モータース〉の門を叩いた。父のいるチームからもテストパイロットの話が来たが断った。縁故で席をもらうのは嫌だったし、親父と戦うのだと、そう思っていた。

 デビュー戦は快勝。二戦目でも着に絡み、三戦目で初のクラッシュを経験。さすがに新人に何度も勝たせてはくれないな、と感じ、さらなるレベルアップを模索し始めた頃、事故は起きた。

 将臣の所属していたチームのパイロットが、ピットアウトでミスをしたのだ。勝利に焦り、急いでコースに戻ろうとして、スタッフの退避が完了する前にスラスターを吹かしてしまった。将臣はそれに吹き飛ばされ、作業アームに激突して死んだ。即死だった。競技中の事故ということでパイロットは刑事責任に問われなかったが、しばらくの休業を挟んで、逃げるように月リーグに移籍した。

 追いかける背中を失った慧一は、急激に成績を落としていった。オーナーの不祥事が露見して、チーム運営が怪しくなったことも災いしただろう。

 正直に言って、慧一は銀河最速を目指していなかった。出るからにはいい成績を残したいとは思っていたが、世界一を考えるのはずっと先のことだと思っていた。何よりもまず、父に認められる男になりたかった。だが、認めてくれる男はもういない。

(……止めてもいいかな?)

 心の中で、そう尋ねる。遺影は答えてくれなかった。

 契約は切れたが、パイロット登録自体はまだそのままになっている。今のところ、他チームからの引き合いはない。引退するならGD協会にその旨申請しなければならないのだが、まだ決心がつかない。いや、やめても他にできる仕事がない。

 プログラムも打てないし、船外作業免許もない。自動車の免許はあるが、そんなものは技能とは言わない。訓練校に入ったときには、やめるときのことなど考えもしなかった。「つぶしがきかないから」と言って他の資格を取りながら訓練を受けている同期生を軽蔑すらしていた。

 慧一は仏壇から離れ、居間に戻った。正月だというのに、主のいない家は静かだった。

 母親の美沙子がぼんやりと窓を見ている。

 父が死んでから、母は時々こうなる。

 父とは職場結婚だったそうだ。美沙子もまた、レースに関わっていた。プログラマだった。実力のほどは息子にもよくわからない。子供の頃は説明されても理解できなかったし、理解できるようになってからは、慧一は一人暮らしをしていた上、違うチームに所属していた関係で、たまに顔を合わせることがあっても仕事の話はできなかった。

 美沙子が退職しなかったら、慧一は自宅で正月を迎えなかっただろう。もっとも、今は別の意味で仕事の話はできなくなってしまったが。

「母さん」

 呼びかけてみたが、返事はなかった。

「ちょっと出てくる」

 行く当てはなかったが、自宅にいるのも辛かった。

 美沙子が自分を見ようとしない理由もわかっている。父に似てきたからだ。

「雪は降りそう? ……降ったらいいわね」

 美沙子が言った。

 火星に雪は降らない。美沙子は地球の――本土の北の方の出身だった。

 たまらなくなって、慧一は視線をそらした。

「……行ってきます」



 正月は全宇宙的に休みなのだ。

 無論、暦の上の休みなど建前に過ぎない。地元住民しか使わない近所のコンビニも、通常通り営業していた。

 ポケットにカードが入っていることを確認して、慧一はフロアマットを踏んだ。

 電子的に作られた雅楽の音を聞き流しながら、雑誌のコーナーに向かう。雑誌といっても、店頭にあるのは有料配信用のプロダクトキー・カードだが、しぶとく刊行を続けている紙媒体もある。ふと、それが気になった。アナクロなものへの懐古ではないだろう。

 読みやすいからだと、慧一は考えた。

 紙に印刷された文字は、比較的目が痛くならない気がする。職業柄、情報端末の画面とGDのモニタばかりを見ているのでそう思うのだろうか。

 ページをめくる動作をアクセントに、ゆったりと情報を吸収する。何とも贅沢な気分……と言うと何となく高尚な気がするが、やってることはただの立ち読みである。

 時節もあって、ラックの配置は先週と変わっていなかった。同じ漫画を二回読む気にもなれず、慧一は、まだ読んでいないものを捜して一歩進んだ。視線が週刊誌の列から、月刊誌の列に映る。『新年連続新連載第二弾!』、『バレンタイン前に必見! 初心者でも恥をかかない宇宙遊泳デート』、『無重力に負けないロングヘアテクニック五十選』……どれも自分には用のないものばかり。

 そんな中で、その見出しに目を留めてしまったのは、必然だろう。

『巻頭特集 史上初! ティア・ラングレーが二年連続で賞金王に! その秘密に迫る本誌単独インタビュー』

 月刊ラップタイム。GD専門誌の中では、比較的軽い方に属する一冊だ。そういえばそうだったな、と慧一は思った。チーム〈F・O・Rラングレー〉がトップリーグで二年連続王座を獲得したのだ。自分には全く縁のない、遠い世界の話に聞こえる。

 聞こえるだけでなく、実際に、はるかに遠い。


 GDパイロットは四段階にランク分けされている。

 慧一の属するCランクは最下層のランクであり、身も蓋もない言い方をすれば「免許さえ持っていれば誰でもなれる」地位でしかない。実際、登録したはいいが、どのチームからもお呼びがかからずに消えていくパイロットも、毎年かなりの数に及ぶ。

 運良くプロ契約を結び、それなりの成績をコンスタントに収めたパイロットはB2ランクに昇格する。Cランクのパイロットは、スタッフに名前を呼んでもらえないということが往々にしてあるのだが、B2になるとさすがにそれもなくなる。ここからが選手人生の本番だといえるだろう。

 B2の上はB1。数字が一つ変わるだけ、と思われがちだが、B1昇格のためにはより多くのポイントに加え、何らかのタイトル――大きなレースでの勝利記録――が必要になるため、外から見ている以上に昇格は厳しい。B1まで上がれれば、間違いなく一級のパイロットだ。

 だがしかし、B1選手の四人に三人は、それ以上の地位には昇れない。

 全体の十パーセント、デビュー時の人数に比べればわずか三パーセントにも満たない超エースが集うのがAランクだ。ここまで到達できれば、よほどのことがない限り、どんなチームも好待遇で迎えてくれる。獲得できる賞金額も跳ね上がり、引退後は一生遊んで暮らせること間違いなし。国民栄誉賞のおまけが付くかもしれない。

 レースの方も、パイロットと同じように四つのランクに別れている。

 パイロットランクとレースランクの関係は、完全には対応していないので、慣れないと少しわかりにくい。各パイロットは自分のランクを越えて、上下一ランク以内のレースに出場できるのだ。

 具体的に言えば、B1パイロットはA、B1、B2の三区分のレースに出場権を持つ。逆に言うとCランク戦――これを特に一般戦という。ただし、Cランクパイロットを一般パイロットとは呼ばない――には出場できないのだが、CパイロットはB2戦に出場できるので、B1とCが戦わないとは限らない。仮に当たったとしても、Cパイロットが予選敗退するのはほぼ確定事項だが。

 公式戦で絶対にぶつからない組み合わせはAとCのみ。この事実――ルール上の制約が、Cランクを一人前のパイロットと認めない風潮を生んでいるのだが、実際問題として実力に差がありすぎるのも事実で、かえってこの制約のおかげで新人が保護されているのだと見ることもできる。

 もう辞めようかと思っているにもかかわらず、慧一は賞金女王のインタビューを全部読んでしまった。一ページ目にパイロットのアップ――それも普段着――を載せた特集記事は、どうでもいいようなものだった。レーサーとしての心構えのような質問はなく、「普段の生活は」だとか「お気に入りのブランドは」だとかいった、パイロットを馬鹿にしているかのような質問が並んでいた。

 余談になるが、GDパイロットは伝統的に女性の方が優秀である。体力的な問題は、全てが電子制御のGDではさほどのハンデにはならず、女性の方が軽いから有利なのだと思っていれば、基本的には間違いない。

 特に目星もつけず、慧一は残りのページをぱらぱらとめくった。今年の統括。来期の予想。これからの注目株……。どれもどこかで聞いたような話ばかり。

 迷っている自分と、安易な答えを求めている自分に気付いて、慧一は雑誌を閉じた。

 と、

 若い女の声が聞こえた。

 早口の英語だったのでうまく聞き取れなかったが、多分「破滅的に信じられないくそったれども」と言ったようだった。

「現地語でしか書いていない地図って一体誰が買うのよもう。それとも日本人は地元で迷うような民族なのやんなっちゃうなあ。ニューイヤーにはるばる出かけてきたこっちの身にもなって欲しいのよね」

 航空無線にならって、GDの通信も英語で行われる。パイロットになるためには英語が話せなければならないので、慧一も日常会話には不便しない。とは言え、訓練校の授業では俗語の使い方まではやらないので、正確な意味は違う可能性もあった。それでも、女の声に含まれた、やり場のない怒りは間違えようもなかった。

「道路のつながりからすると、ここは六区よね……で、」

 何となく視線をそちらに向けて、慧一は「げ」と言った。

 小さな頭をすっぽりと覆うアポロキャップ。気ままな向きに跳ねた、くすんだ金髪。コートを着ているというより、干しているように見える細っこい肩。

〈魔女〉がそこにいた。

 GDパイロット、ニキ・ボルジア。年次でいえば一期だが、プロ経験では半年の後輩。実力は間違いなく彼女の方が上だ。繰り上げ卒業ができる訓練生はそう多くない。

 直接話したことは一度もないのだが、慧一はこのパイロットが苦手だった。同じレースに出場したことが何度かあり、そのいずれでも、ニキの方が上位につけた。いや、最後のレースだけは同着といえる。――どちらも同じ周回数でリタイヤだったから。

 そのニキがなぜここに? 彼女の住まいはオポチュニティ州だったはずだ。

「学生バイトが英語を話せないってどこの非文明国よ。あんたら学校で何教わってるって言いたい。その前に、客に向かって『あっちいけ』をやる店員なんて今すぐ解雇すべき」

 ニキが独り言に夢中になっている隙に、慧一はそっと雑誌を戻した。抜き足差し足しで飲料水の棚に向かう。飲みたくもないコーラを一本手に取り、そうっっ……とレジに向かう。気付かれませんように。

「いらしゃいませ!」

 アルバイトの声のばかでかさにびびる。雑誌コーナーで誰かが動く気配。

「……オゥ?」

 気付かれた。

「ケーイチ? ケーイチ・カザマツリ!」

 ――ここであったが百年目!

 魔女の叫びが、慧一にはそう聞こえた。

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