第2話
私は、声が出ない。
数か月前のことである。
目を覚ますと、そこは病室だった。
両親と妹が付き添ってくれていたようで、仕事や家庭のこと、小さい頃の思い出を話してくれたが、私は身に覚えのないことだらけだった。
いわゆる、記憶喪失になってしまったらしい。
原因は分からない。
先生は、精神的に強いダメージを受けたために、脳がショートしたと言っていたが、私がどんな生活をしていて、どういう人間かすらも忘れているのだから、精神的ダメージを受けたことも、もちろん覚えていない。
彼がやってきたのは、目を覚ましてから数日後のこと。
私の名を呼び、優しく接する彼は、恋人だと言った。
不思議なのは、記憶を失った私に対して、彼は、両親や妹のように悲しい顔をしなかったことである。悲しむどころか、私のそばで笑うだから、本当に不思議だ。
彼のことを覚えていなくとも、わからなくても、何にもできなくても、ただ笑っていた。悲しい顔をみると、申し訳のないはがゆさを感じてしまうから、私としては気が楽ではあるが。
記憶を思い出そうと、両親が持ってきてくれたアルバムに目を通してみる。その横に、彼はいつもいてくれた。黙っていても、ただ、そばにいてくれた。
なぜだろう。彼に対しては、ゼロの私を受けいれてくれる新鮮な温もりを感じるのだ。過去を思い出すのを急かさない、のんびりとした時間が流れていく。
正直、彼が恋人なのかはわからない。
家族にも恋人がいるなんて、話していなかったようだから。
ただ、私の幼少時代の話が両親と合っているようだし、こんなに優しくしてくれるから、きっと、幼馴染の恋人なのだと勝手に悟ってみた。
ひとつだけ気になることがある。
彼が、私の前では昔の話をしようとしないことだ。
これは、精神的ダメージについて思い出させてしまうという配慮なのか、それとも私のことを知らないくせに近づいているだけなのか。
後者は、『記憶喪失になったときに注意すること』というパンフレットに書いてあった内容からである。どうやら、記憶喪失になった患者の友人等を装って、金銭や個人情報を窃取する輩がいるらしいのだ。
それに、知人が記憶喪失になったならば、ふつうは記憶を思い出させようとするものである。例えば、過去の話をしてみたり、思い入れのある場所に行ってみたり。
なんて考えていると誘われたのがこの公園だ。もしかして、思い出スポットなのかもしれない。
「寒くない?」
4月上旬の春の暖かさ。静かな風が、会話の少ない私たちを包んでいる。
噴水の向こうから、こちらをじっと見ている同世代の男が気になった。彼も気配を感じたのか、急に立ち上がった。
「あいつ」
彼がそうつぶやくのと同時に、男はいなくなった。
私は、彼のシャツの裾を引っぱった。
「大丈夫だよ」
と、彼はにっこり笑う。
そのとき、突然の風に桜が揺れ、花びらが舞い踊る。
ふわふわしたような、不思議な感覚に包まれた。
「大丈夫だよ」
頭にポンと手を置かれた。
ドキドキする。
彼がとても優しいんだもん。
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