楽しい朗読

川島健一

 

 晶子は大学を出てから、すぐには就職せずにいた。就職活動には体力がいる。綿密にその会社のことを調べて予習する。面接に備えて、様々な質問に対する答えも用意しないといけない。周りの友人達が就職活動に情熱を燃やしているのを傍から見ていて晶子の感想は「大変そうだな」だ。そこまでの情熱を持てなかったのである。恋愛に関してもそういう態度だ。高校時代、周りが熱心に好きな男の話しや人の恋愛話をしていても胸がときめくこともなく覚めた目で見ていた。

 晶子が中学2年生の時、父親が女と駆け落ちした。駆け落ちと言っても、そう遠くには行ってしまったわけではない。隣町だ。目と鼻の先にいることはわかっている。住んでいる場所も見当は付いている。それならば連れ戻せばいいものを母親はなぜか放置したままだった。そのことを母親に問いただしてみても要領を得ない。中学生の当時は自分がまだ幼いから理解できないのかと思った。恋愛をしたことのない晶子には理解できないのだろうと自分で言い聞かせてもみた。だが、そういう事を考えるのが馬鹿らしく思うようになり悩むのをやめた。晶子自身、そのうち理解できるだろうと思ったからだ。しかし、23歳になった今も理解できていない。父親に関してはどうでもよかった。

 晶子が大学を卒業して就職もせずに、安閑としていられるのは母親が自宅で喫茶店を経営しているからだ。もともとは父親が古本屋をしていた。そこを改装して喫茶店にしたのだった。喫茶店の経営は料理研究家である母親のお陰で安定してる。美味しいランチが出すお店として一定の人気を確保していた。特にロールキャベツは絶品で晶子も大好きなメニューである。雑誌にも紹介されて評判になったカニクリームコロッケ。チキンソテーも人気があった。値段は周辺から考えても高いほうかもしれない。母親の喫茶店を経営する基本の考えは簡単だ。“美味しいのものを食べてもらう”だ。お客さんに喜んでもらうために美味しい料理を作る。それだけだった。高級とまではいかないが、良い食材を使用している。母親は安い食材を使って値段を下げるということは考えもしなかった。


 7月の上旬頃、母親の知人である量子から連絡があった。量子は鎌倉でカフェを経営している。そのカフェの朗読会で、晶子に朗読者を務めてほしいとのことだった。木曜日の朝9時半から11時半まで三回だけの予定だ。午前中には終わる。晶子と合わせて毎回三人で行うということだった。量子は以前から、喫茶店に来て料理などを母親から教えてもらっていた。晶子とも顔見知りで5歳ほど年上だ。以前から、量子は「あきちゃんは良い声してるね」と褒めてくれていた。

 この朗読会は年に数回催しているそうだ。朗読者は以前から担当してくれていた三人がいたのだが、一人どうしても会社を休めないとのことで出てもらえなくなったのだ。急遽、探していたのだがどうしても見つからない。そこで、晶子のことを思い出し連絡をしてきたのだった。

 晶子も木曜日の午前中なら喫茶店も忙しくないし、母親の勧めもあって受けることにした。

「量子さん。あの、朗読とかやったことないのだけど、大丈夫ですか?」

 量子のカフェはそれほど広くないことは知っていて、集まる人も片手くらいだろうとは思っていたが朗読者なんて全くやったことがないので不安はあった。

「大丈夫。気楽にやってちょうだい。題材の本は前の週に渡すから、一通り読んで来てもらえばいいよ。間違ってもそこだけ読み直せばいいから」

 量子の明るい声で、なんとなく気が楽になった。

「それに順番は最後にするから。最後のほうが聞いている方も集中力がおちてくるから楽よ」

 晶子は、要するに本当に誰でも良かったのかと思った。

「あきちゃん、声が良いからわたしも楽しみにしてるわ」

 と晶子の心を読んだ如く、量子がフォローしてきた。


 7月の下旬だというので、子ども達向けだと思っていたが全く違っていた。集まってきたのは、高校生か大学生と思われる男の子たち、年配の男性、サラリーマンであろうスーツを着た男性、若い女性たちだった。考えてみれば、量子のカフェのお客さんたちなので当たり前である。朗読の題材も普通の短編小説だった。

 晶子の想像と違ったのがもう一つある。朗読会に集まってくる人数だ。初日は数えると12名いた。理由はなんとなくわかった。晶子のほかの朗読者は二人とも若い女性だったのだ。黒髪のストレートで落ち着いた雰囲気が美香。華やかな笑顔でショートヘアスタイルがよく似合う英恵。ふたりともよく通る魅力的な声で整った顔をしている。朗読会に集まる男性たちはそれ目当てであるのはわかった。若い女性たちは、英恵の友人らしい。

 カフェは人でいっぱいとなり、席に座れない人もいた。しかも、皆熱心に聴いており晶子の番になっても真剣な眼差しは変わらなかった。そういうこともあり晶子はかなり緊張したが、美香たち先輩朗読者からアドバイスをもらいなんとか読み間違えることもなく無事に終えた。しかし、晶子なりに感じた課題はあった。読み間違えしないように意識しすぎたため、平坦に読んでしまっていたように感じた。もっと相手に小説の臨場感を感じてもらえるように読まないといけなかったのだろう。次回はもっと練習してから行こうと思った。


 二回目は前回よりも朗読会に人が集まった。14名を超えて入ってくるお客さんに量子は謝って引き取ってもらっていた。

「申し訳ないことしたわね」と量子が誰に言うとも無くつぶやいた。

 クーラーを全開にしたが、カフェの中は人でギュウギュウとなっていて、むせ返るほど暑かった。晶子も英恵たちも途中に水を飲んで喉を潤した。そうしないと、声がでないのである。途中、朗読会に集まったお客さんたちにも外に出て休憩をとってもらった。室温は34度を超えていたが、途中で帰る者は誰もいなかった。晶子は膝の上にハンカチをおいて、汗を拭いながらなんとか朗読を終えた。

「前回より全然良くなったね、あきちゃん」

「ほんとほんと、凄くよかったよ」

 先輩朗読者の美香と英恵から褒められた。晶子は嬉しくなり、「ありがとうございます」と深々とお辞儀して答えていた。晶子は人に褒められることなど滅多にないのだ。

 来週で最後だった。晶子に渡された本は、芥川龍之介の『芋粥』だ。朗読の題材である。晶子の好きな作品だった。

「最後の朗読はこれって決めてたの」と晶子に本を渡しながら、量子は言った。

「わぁ、あきちゃんがトリね」と英恵にからかわれた。

 トリ。先輩たちを差し置いてわたしでいいのだろうか? と晶子は思った。

 美香たちからランチに誘われたのだが、帰ってすぐにでも練習したかったので断った。

「あきちゃん、喉乾いたでしょ? なんか飲んでいきなよ」と量子にも誘われたが、店内の暑さにそれも断った。

 早く帰ってシャワーを浴びて練習しよう。晶子はそう心に決めていた。

 『芋粥』は、芥川龍之介が鎌倉住んでいた時に書かれた作品だ。量子も鎌倉に縁のある小説を朗読会の題材にしたかったのだろう。晶子は段々とプレッシャーが高まっていくのを感じていた。


 朗読会の最終日は朝から気温はぐんぐん上がっていった。晶子が鎌倉駅につく頃には30度近くなっていた。

 平日だというのに量子のカフェの前には既に朗読会に集まった人たちが列をなしていた。

 量子は外に出て、列を数えていた。

「量子さん、おはようございます。凄いですね、もうこんなに集まって」

「あきちゃん、おはよー。なんか、ネットで評判になったみたいでね。大変だよー」振り向きながら、晶子が応えた。

 新たに並ぼうとした人たちに量子は言った。

「すみません。もう定員に達しました。申し訳ございません」

 晶子も並んで頭を下げた。

 彼らは残念そうに眉をしかめて帰っていった。

「近いうちにまた朗読会しないといけないわね」と独り言のように量子は言った。


 今日は芥川龍之介特集である。そして、朗読会は始まった。

 最初はユーモアあふれる『鼻』。作品にあわせた軽妙な口調で先輩朗読者の英恵が朗読し始めた。肩の力抜いてよく通る声である。時には少し甲高く、時には少し低い声でリズムよく読んでいった。あっという間に英恵の術中にはまった人たちは口元に笑みを浮かべなら聴き入っていた。晶子にも英恵のその技術が卓越しているのはわかる。カフェの室内は今週も暑かったがそれを忘れさせるほどだった。

 読み終わると拍手が湧いた。英恵は周りを見渡してその魅力的な満面の笑みを浮かべ、小さくお辞儀をした。

 休憩をとり、次は美香の番である。美香が読むのは『蜜柑』。これはやはり美香に合っている。『蜜柑』はあまり強弱をつけて読むものではない。淡々と読んでいったほうが作品に合っていると思う。いつも冷静な表情の美香にこの朗読はふさわしい。

 美香が読み始めた。作品の状況にふさわしいしっかりとした声である。一字一句はっきりと耳に入ってくる。少しだけ艶のある声は聴く人たちを魅了する。目を閉じて人もいる。情景に思いを馳せているのだろうか? この短編小説の重要なシーンでは今までの口調が変わった。蜜柑を汽車から投げるシーンからリズムを崩し、少し早口で読んだのだ。そしてその後はすぐまたはじめのリズムに戻り淡々と読み終えた。

 読み終えてしばし静寂があった。そして喝采。晶子も感動していた。

 この二人の朗読者としての力量を晶子は今日はじめて気がついた。自分の事で精一杯で先輩たちの朗読をまともに聴くことができなかったのだ。

「凄い」単純に晶子はそう思った。そして、本当にトリはわたしで良いのだろうか? この朗読会に集まった人たちをこの偉大な先輩たちのように感動させることが出来るのだろうか? 


 休憩中、今朗読を終えたばかりの美香が耳元に話しかけてきた。

「あきちゃん、これ読んできた?」

「はっはい、何回も。朗読もしてきました!!」緊張しながら晶子が答えた。『芋粥』の朗読は1時間はかかる。これを一気に読み進めるのは大変だった。

「内容はわかってるよね?」と今度は正面にまわりこみ、目を見ながら話しかけてきた。

「あの、この小説は大好きだったんです」

「そう、ならあきちゃん。楽しんでね!」

 美香はそう言って、晶子の返事を聞く前に後ろに下がっていった。

 下がった所には英恵が立っていて、あの明るい笑顔を晶子に向けていた。カフェの照明が少し落とされた。

 晶子は深呼吸をして、周りを見回した。薄暗いカフェの中でひとりひとりの表情が浮き上がってよく見えた気がする。さすがに三回目なので、頭が真っ白になるほど緊張はしない。しかし、本を持つ手に汗をかいていた。晶子にスポットライトが当たった。晶子はもう一つゆっくりと深呼吸をして椅子に座って本を開いた。


 声ははっきりと滑舌よく。

 テンポは大切だが、急ぎ過ぎない。

 そして、その小説を好きになること。

 最初の時に受けた英恵のアドバイスは素人の晶子にも分かりやすかった。


 晶子は読み始めた。

 『芋粥』の主人公はいわゆる情けない男だった。そんな主人公を周りは見下げていてネチネチとイジメていた。彼は苦笑いをしてそれらをやり過ごすのだ。彼の言葉には力がない。しかし、そのまま読んでしまうと声が奥の人まで届かない。声の表情に加減必要だった。彼の心情を表すのに、ただ単に淡々と読んでしまう訳にはいかない。落ち着いていて、どこかに哀れみを感じさせる声で聞かせたいと晶子は思っている。だが、その哀れみの表現が出すぎると悲しいだけの話しになっていく。泣いてしまうほど悲しい話ではない。主人公のなんとも情けない滑稽さを表現しないといけない。晶子はそれを充分に表現できているかわからなかったのだが、読んでいくうちに心の奥から不思議と“楽しい”という感情が沸き起こってきた。

 後半、主人公の複雑な心境を心持ち不安げな声で表現する。晶子は自分に言い聞かせた「あわてない。今までより少しだけ声の力を抜いて。自信なさげに」と。

 最後の一文に差し掛かった頃、晶子はすっかり落ち着いていた。1時間ほどかかった朗読もあと少しで終わってしまう。そう思うと晶子は寂しい気持ちすらめばえてきた。

 主人公が「くさめ」をして、朗読は終わった。

 顔をあげると、カフェの中にいる人の目が全て晶子に向かれているのを感じた。誰も何も言わないのだ。気を利かせて、美香と英恵が晶子のそばに立ち拍手をした。それにつられるようにカフェ中から拍手が聞こえてきた。晶子自身もつられて拍手をしていた。英恵の弾けるような笑顔と美香の優しい笑顔を交互に見て、晶子も二人に初めて笑顔を向けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

楽しい朗読 川島健一 @jp_q

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ