禁酒狂騒曲

ゲブ

禁酒狂騒曲

「禁酒しましょう」

 唐突なる死刑宣告、まさに青天の霹靂。時刻午後十五時三十分、真昼間の診察室にて俺の眼前は真っ暗になった。

「身体が限界です、ご自分でもお気づきになりませんか」

 確かに思い当たることはある。即ち呑んだら待つのは死、だが酒のない生活なぞ俺にとっては死に等しい。

「え、えと、先生、それはアルコール類は一切ダメという事でしょうか……?」

「まぁ、そうなりますね」

 ノータイムで絶望突きつけてくる先生、しかしまだ諦められない。こちらとて酒とは短い付き合いではない、そう易々と断てやしないのだ。

「般若湯は?」

「言い方の問題ですね、もちろんダメです」

「お屠蘇は?」

「お正月限定でもダメです」

「では気狂い水は……?」

「いいと言うと思ってます?」

 思っていない。それでも俺は一縷の望みにかけたかった、先生が言い間違いでもイエスと答える可能性に。だがそれは断たれた、最早血も涙もアルコールもない。

「はぁ、なるほど。で、どれくらいの間我慢すればいいんでしょうか?」

「一生ですね、死にたくなければ」

 俺は本日二度目の死刑宣告を受けた。


 社会に出て早十一年、辛い時や悲しい時、挫けそうな時にはいつも酒を呑んで乗り越えてきた。支えてくれる恋人や妻などがいない自分にとってはまさに精神的支柱。同期が子供の笑顔や、嫁の料理に励まされてる中俺は一人酒を呑む事で耐えてきた。どんなに落ち込んでいても酔ってる間は無敵だったし、寂しさなど感じなかった。

だが病院から帰り、自宅アパートの到着した今現在、俺はひしひしと寂しさというか、虚しさを感じていた。

 時刻は午後五時過ぎ、いつもの休日であればもう呑み始めている時間だ。そんな俺の手にあるのは炭酸水、もちろんアルコールは一滴も入っていない。味のしない発泡が虚しさを加速させる。

 しゅわしゅわしゅわ……

 素面だと泡の弾ける音が思いの外うるさい、いくら飲んでも酔わないし、微妙に腹は膨れるのが不快だ。なら死を覚悟して酒を呑むかといえばそうでもない。酒のない生活は死に等しいが、実際に死ぬのとは別だ。生きていればもしかしたらまた酒が呑めるかもしれない。俺はそんな淡い希望と、実際に直面した死の恐怖に気圧されたからか、病院の帰りのスーパーでこいつを手にしていた。

「禁酒ねぇ……」

 炭酸水片手にひとりつぶやくと、意外なくらい部屋に響いた。どうやら素面だとうるさいのは、泡の弾ける音だけではなかったようだ。

 俺はなんだかそんなことがとても嫌になって、アルコールの入っていない冴えきった頭を無理やり寝かしつけて、半ば力技で禁酒一日目を終えた。

 

 それからというもの、飲みたくなったら炭酸水か寝るという戦法が功を奏したのか、意外にも禁酒はうまく進み、早くも禁酒五日目に突入していた。

 だがここで俺は重大な変化に気付いた。

「もうあと一本か……」

 喫煙量が増えていた。もともと俺は喫煙者だが、吸うペースが明らかに加速している。例えるなら、今までの喫煙ペースが各駅停車で、今現在の喫煙ペースは特別快速。普段電車に乗らない方のために、具体的に言っておこう、今までは一日1箱に届かないくらいだったのが、今では一日1箱を確実に超える。

 これは由々しき事態だ、主に経済的に。だが、酒が飲めないストレスを解消するにはこれしかない。そう俺は静かに自分を納得させ、ラスト一本に火を着ける。

「お前最近喫煙室にいること多くないか?」

 声の先に視線を向けると、同僚の山下が喫煙室に入ってきていた。

「ちょっとばかし禁酒しててな、その反動だ」

「お、なんだ?ついに医者に止められたか?」

「うるせぇよ」

「図星だな?毎日ロクに飯も食わんで酒ばっか飲んでるからだよ。美味い飯作ってくれる嫁さん捕まえろよ、俺みたいに」

「惚気はごめんだぞ、こっちはただでさえ禁酒でストレス溜まってんだからな」

 少し消すには早いが、俺はタバコの火を消し灰皿に捨てた。人の惚気を聞くくらいなら、仕事をしていた方がましだ。

「んじゃ、お先」

「あ、そうだ。聞いた話だけどな、禁酒は十日目くらいが一番きついらしいぞ」

「知りたくなかったトリビアをどうもありがとう」

 俺はそう言いながら喫煙室を出た。態度とは裏腹に山下の一言は俺の胸に不安を残した。そして、その時はその不安が、いやその不安以上のものが襲ってくるなんて夢にも思わなかった。


 禁酒九日目、俺は部屋で震えていた。これはアル中の禁断症状からくるものではない。恐怖していたのだ、自分のアルコールへの渇望具合に。

 それはもうとんでもないくらいで、喉から手が出るほど欲しいという例えがあるが、俺の場合は一本二本のレベルではない。何千何万というレベルだ、まさに千手観音。皆さんも想像してほしい、喉から千手観音か出るレベルの欲を。尋常ではない事がお分かり頂けると思う。因みに、多くの千手観音像は手が千本ないそうで、ある意味俺は千手観音を超えたと言えなくもない。

 なにがともあれ、今日が休日で助かった。こんなアルコールを求めるゾンビの様な姿で、出勤なんてしたら周りにどう思われるか分かったもんじゃない。きっとインド人だってビックリだ。

 だが、問題は明日だ。山下の言う一番つらい日、十日目。正直、今でさえアルコールへの渇望で身体をビクンビクンさせながら部屋を這いずり回っている様な状態。おっと、喉から観音様が出てることも忘れてはいけない。もし明日が本当に一番キツイ日だったら俺は一体どうなってしまうのだろう。本当にゾンビになってしまうかもしれない、喉から観音様どころか如来様が出てきてしまうかもしれない。俺はまたもや恐怖に身体を震わせた、いや酒を求めて疼いてるだけかもしれないが。

 自分を落ち着かせるため、とりあえずタバコに火を着ける。

「フゥー、ハァ……」

 軽い、煙草が異様に軽く感じる。いや、だがそんなはずはない。このタバコは14ミリ、一般的な紙巻の中では重い部類に入るはずだ。

 もう一度、今度はさっきよりも深く吸う。だがやはり軽い、むしろより軽くなってる気がしないでもない。なんという事だ、これでは気分を誤魔化すことができない。

「ええい、一本でダメならまとめて吸うだけよ!」

 かの戦国武将、毛利元就は病で床に伏せたとき、三人の息子たちに「一本では折れてしまう矢も三本集まれば容易には折れぬ、お前らもこうして毛利家を守れ」と言ったという。三本の矢の教えだ。

 タバコも同じだ、一本でダメなら三本、これぞ先人の知恵。

「フウウゥゥー、ハアアァー……」

 タバコを三本同時に咥え、横には炭酸水。水を飲み大量の煙をはく様は、さながら現代に甦りし蒸気機関車だ。 だがさすがは毛利元就。だいぶ気分が落ち着いた。とりあえずはこれで凌ぐほかない、タバコは少なくともまだ1カートンはあったはずだ。できることであれば、タバコを買いに外に出ることはしたくない。なぜならタバコを売っている場所というのは大抵酒も売っている。そうなれば、俺は自分のリビドーを理性で抑え付けていられる自信がない。

 ならどうするか、気分はどうにか小康状態。導きだされる答えは一つ。

「寝よう」

 こうして禁酒九日目は幕を閉じ、地獄の十日目を迎えることになる。


「おはよう」

「おはよう、睡眠不足か?目が血走ってるぞ」

 昨日、気を紛らわそうとしたが結局寝れず、ヤニ気機関車は絶えず夜行運転。睡眠不足も酷いががタバコ不足も著しい、ついでにアルコールも足りていない。最早なんにも満たされていない。

「いいや、アルコール不足だ」

「なるほど、重症だな。頭が」

「それはもとからだ」

「それもそうだな、でも言う割には意外と落ち着いてるじゃないか」

「気合で抑え込んでんだよ、目がウサギさんみたいになってるのはその代償だ」

 禁酒十日目、会社に出勤した俺は山下と軽口をたたきながら自分のデスクを整理し始めた。そこに後輩の女性社員、杉田さんが話しかけてくる。

「おはようございます。あの、これ、旅行のお土産です。よろしければどうぞ」

「お、ありがとう」

 どうやら、チョコみたいだ。酒を連想させるようなしょっぱいものでなくてよかった。実を言うと、今はどうにか平静を装っているものの、ちょっとでも気を抜けば、全国酒飲み音頭を歌いながら酒を飲んでる連中に、片っ端から延髄切りをかましてしまいそうだ。

「俺ももーっらい!」

 山下が貰った勢いそのままに口に放り込む。すると山下がニヤリとした。

「どうした?」

「これ、ウィスキーボンボンだ」

 なんだと。山下の言葉を聞いた俺は頭が真っ白になる。

「ウィスキーボンボンだと……?」

「どうしたんですか?もしかしてお酒入ってるのダメでした?」

 杉田さんが不思議そうにこちらを見てくる。

「ああ、いや、大丈夫だよ。ありがとう、これは帰ってから……」

(食べて……今すぐ食べて……)

 声が聞こえる。このチョコを食べろと声がする。

「杉田さん、なんか言った?」

「え、いやなにも。それより体調大丈夫ですか?顔色わるいですし、今ボーっとしてましたよ?」

「そっか、ごめんごめん。体はだいじょう……」

(早く……中のウィスキーごと……)

 また聞こえる。囁くように食べること促してくる、このままではいかん。声の発生源はどこだ。まさか――

(ウィスキーだよ……あなたの求めている……)

「お前かあああああああああああああ!!!!!」

 手にもっていたウィスキーボンボンを全力全開で握り潰す。指の隙間からあふれ出るチョコとウィスキー。油断していた、もう少し気付くのが遅かったら確実にやられていた。

「な、なにするんですか!?」

 困惑する杉田さん、その手には悪魔の実が詰まったギッシリ詰まった箱が。だが心配御無用、俺はすでに次の技の準備に入っていた。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前!!!!」

 俺は素早く九字護身法を切り、悪魔の箱に容赦なく手刀を見舞う。

「きゃああああ!」

 散るチョコ、折れる箱、悲鳴をあげる杉田さん。手応えあり。杉田さんの持っていた厚紙製の箱は真っ二つにひしゃげ、手刀が直撃した部分は茶色く染まっていた。

「フゥー……」

 一仕事終えた俺は、ゆっくりと呼吸を整え、杉田さんに声をかける。

「危なかったね、ケガはない?」

「最低!!!」

 杉田さんは顔を真っ赤にしてそう叫ぶと、カツカツと歩いていってしまった。

「危ないのはお前の頭だよ、何やってんだ」

 あっけに取られ、一時停止していた山下が再起動した。

「体が危険を察知して勝手にな」

「今は謝るのは無理そうだな、とりあえず手を洗って来いよ」


 手を洗いながら、鏡を見るとそこには自分が思っている以上に、ひどい顔になっている俺がうつっていた。目は血走っていて、顔色も悪い。良く言ってキマってるおっさん、悪く言って生ける屍だ。ため息を吐きながら手を拭いていると、視界の端に映るアルコール消毒の文字。なるほど、これもれっきとしたアルコールだ。これで俺の胃の中を消毒したら体調もよくなるのではないだろうか、そんなことを思いながらアルコール消毒の容器を手に取る。

そう、これは消毒だ。アルコールだが酒ではない、ちょっと消毒するだけだ。さあ、アルコールを――

「おい、まだ手洗ってんのか?」

「山下……」

「何やってんだ、虚ろな顔で消毒液なんか持って」

「いや、これは胃を消毒しようと」

「なんでもいいけど、課長が呼んでるぞ」

「課長が?」

 課長という言葉で我に返った俺は消毒液をぶん投げ、軽く身なりを整える。一般的な社畜である俺は、酒には強いが権力には弱い。

「多分さっきの杉田さんの事だぞ」

「だろうな」

 体が震えている。もちろん酒を求めてだ。


「疲れているのか?」

 怒っているというよりは、本当に心配しているような表情。いや、腫れ物に触れるような感じか。それもそうだ、普段は真面目に勤務し問題行動など酒が入っている時以外なかった俺が、素面で問題を起こしているのだから。

「いえ……」

「本当にか?キマってるおっさんみたいな顔になっているのにか?」

「えぇ、まあ元からですんで……」

「とりあえず今日は有休使って帰れ、まだ午前だけど半休ってことでいいから」

「はぁ、分かりました」

 こうして俺は早くも帰路に着くことになった。いつもなら小躍りして喜ぶところだが、今日はそうもいかない。仕事をしていればある程度気を紛らわす事が出来るが、一人で家にいるとなかなか難しい。喫煙量も増えるし。

 そういえば確かタバコのストックが危うい、昨日の夜までは1カートンあったが、毛利式喫煙法を繰り返していたらあっという間に残り一箱だ。どこかで買わなければいけない。スーパーはダメだ、酒が安い。専業のタバコ屋はこの前潰れてしまった。コンビニしかないか。

 

目的地を決めた俺は、山下に適当に挨拶し明日杉山さんにどう謝るかを考えながら退社。そしてそのままスマートに向かいのコンビニに入店、やる気のない店員の声と聞き飽きた入店音が響く。 

 一切飲料コーナーに目を向けない、向ければやられる。そう俺のゴーストが囁いている。だが、ここで俺は重要な問題に気が付いた。炭酸水のストックだ。蒸気機関車には火と水がいる、ならヤニ気機関車はどうか? 当然必要だ、でなければ俺の湧き上がるリビドーを抑えることなどできやしない。

 炭酸水が必要なのは分かってもらえただろうが、なぜそれが問題なのか。単に買えばいい話なんだが、問題なのは売り場だ。

 アルコールを嗜むカンの鋭い成人ならお分かりだろうが、通常炭酸水はそのまま飲まれる事はあまりない。だいたいが酒の割材として使われる、ヤニ気機関車などもってのほかだ。そう、炭酸水はアルコールとセットなのだ。もちろん売り場も、いやもう揺り籠から墓場まで一緒の勢いで。

 覚悟を決める、いくしかない。虎穴に入らざれば虎子を得ず、禁酒のためだ。

「フウウー……」

 ゆっくりと深呼吸し、平常心を保つ。『深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ』そうニーチェ大先生はおっしゃった。今ならその意味が分かる、そのとおりだ。俺がアルコールを意識しているんじゃない、アルコールが俺を意識しているんだ。いいや、アルコールが俺を求めているんだ。

 一歩、また一歩と近づいて行く俺。缶ビールが、チューハイが、カクテルが口々に叫ぶ。

『我は美酒ぞ!さあ飲め!歌え!踊れ!今宵は酒池肉林の宴じゃ!!』

 ダメだ、のまれる。いや、飲んでしまう。どうにか売り場の前までついたものの、冷蔵ドアの取っ手がつかめない。あければ取り返しのつかないことになる気がする。まるでパンドラの箱。心臓が早鐘を打つ、限界は近い、どうにかしなければならない、ならやることは一つ。

 もう一度深呼吸する、今度は丹田に力を集めるように。足を引き構えをとる。精神を集中させ弓を引くように拳を引く。

「お客様?」

 小太りの店員が不審に思ったのか、何か言いながら近づいてくるが今はそれどころじゃない。

「今だッッッ!!!!」

 限界まで研ぎ澄まされた拳は、いとも簡単に冷蔵ドアをブチ破りアルミ缶どもを破砕する。通信講座の空手も捨てたもんじゃないな。

「お客様あああああああああああああ」

 小太りの店員が不審に思ったのか、何か言いながら近づいてくるが今はそれどころじゃない。

 まだまだ残っている悪魔の薬を根絶やしにしなければならない。次々に拳を叩き込み破裂させていく。

「酒の神バッカスよ!これが人間だ!俺はアルコールなどに屈しないぞおおおおお!!!」

 ——正直その後の事はあまり覚えていない、しいて言うなら泣き叫びながら俺にしがみつく店員と、けたたましくサイレンを鳴らしていたパンダみたいな車くらいだ。


「痩せましたね」

 コンビニで起きた第一次アルコール宗教改革からしばらく経って、俺はまた白衣の刑務官のいる診察室へとやってきていた。

「まぁ、色々ありまして……」

「断酒をしろとは言いましたが断食をしろとは言ってませんよ」

 俺だって痩せたくて痩せたわけじゃない、というより禁酒以前にこんなにげっそりして健康的なんだろうか。きっと今ならB級ホラーに特殊メイク無しで出演できる。

「なにがともあれ禁酒おめでとうございます、見た目はウォーキングデッドですが中身はいくらか健康になっているでしょう。そこでなんですが、もっと健康になりたくありませんか?」

 何を言っているんだこの健康ファシストは、これ以上何をしろと言うんだ。

「タバコ、吸いますよね?」

 あぁ、なるほど、分かってしまったぞ。そういうことか、そうやって健康を盾に俺から楽しみを奪うんだな。

「あのですね、タバコというのは百害あって一利なしで……」

 やめろ、その先を言うな。頼むから俺から生きる意味を取らないでくれ。本当に無味乾燥な生活になってしまう。

「禁煙しましょう」

 人は二度死ぬ、よくいったもんだ。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

禁酒狂騒曲 ゲブ @geb

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ