第19話

 二人きりのレッスンは久しぶりだった。

 奏美と紗季は、いつもより広く感じる静かなスタジオで、身体と喉のストレッチを行う。

 キーボードで音程ピッチを確認しながらの発声が済めば、唄う準備は完了だ。

「今日はどうしようかしらね。折角だから無伴奏でバラードなんか唄いあげちゃう?」

 考えてみれば、いつもセッションばかりで、無伴奏は演っていない。

「それってアカペラってこと?」

「ああ、なんだか無伴奏ってだけでアカペラってよく言うものね。でも本当は無伴奏で独唱するのはアカペラって言わないのよ」

「そうなの?」

「元は教会音楽なんだけど、ポップスとかR&Bとかの現代音楽でもアカペラっていうわね。でも、アカペラってのことで、しかも必ずしものよ」

「え、じゃあ、スポーツの試合とかで国家唄ったりするのも違うの?」

「伴奏無しで独りで唄うのは独唱。コーラスグループが無伴奏か、軽い伴奏で唄うのはアカペラって感じかしら」

「ふーん」

「伴奏無しはピッチもリズムも当てにするところがないから、難しいわよー」

「あ、そっか。楽器ないもんね」

「最初の音は何かしらでもらうけど、そこからは自分の音感で唄うしかないのよ。まあ、テンポや間は自由だけど」

「うわー。得意な曲と苦手な曲がありそう……」

「じゃあね、最初に演ったTime after timeを、印象変えて唄い分けてみようか? まずは、そうね……いつでも好きな時に帰ってきていいのよ、って待ちな感じ。次に、大好きだから早くアタシを見付けてここに戻って来て、っていう同じ待ちでも積極的な感じ。どう?」

「やってみる」

 奏美は乗り気なようだ。

「アタシがコーラスで前奏やるから、奏美ちゃんのタイミングで入ってね」

 解釈違いというか、感情の乗せ方の違いで二テイク唄う。

 両方に共通するのは、「今は一緒にいないけど、まだ相手が好きだ」ということと、「待っている」ということだ。

 違うのは、相手へのスタンスだ。前者は相手の自由を望んでいて、後者は戻って来て欲しい。

 この微妙な違いを唄い分けてみようというわけだ。

 紗季は、前奏もわざと変化をつけて、奏美へ違う渡し方をした。違うテンポ、音。必然的に入る間も、入りの強弱も変わる。ヴォーカリストにとって、この渡され方というのはある種の制約になるからだ。どうしても前音の影響を引き摺る。これは間奏のギターソロからの渡され方などもそうで、変な音で渡されると唄い出しに苦労することになる。

 一回目は、原曲の前奏にフレーズは忠実だが、テンポにも強弱にも大きく波をつけた。二回目は少しアップテンポながらフェイク混じりで、原曲の前奏とまったく違う音で渡した。

 唄い終わって録音を聴く段になって、奏美は思わず零した。

「特に二回目は難しかったよ。え、これどっから入るの? って思ったもん」

「でもちゃんと唄えてたわよ。二回目も『お、そっから来たか』って」

 楽器がコードを鳴らしていれば、その和音の中でしか泳げない。だが、コードが鳴っていなければ自由だ。勿論制約がないわけではないが、アレンジが広がることは間違いない。

 二テイク目を聴きながら、奏美が思いついたように質問した。


「ねえ、お義姉ちゃんはなんで唄うの?」

 奏美は難しい顔をして考え込んでいる。

「うーん、色々思いつくけど……、結局じゃないかな?」

「どうして唄いたいって思うんだろう。アタシも唄いたいけど、わからない」

「そうね……それも人それぞれじゃないかしら。アタシは聴いて欲しい人がいるから……かな」

 紗季が唄いたい理由と、奏美のそれとは違うものだ。

「奏美ちゃんと今のアタシが似てるのは、独りじゃ唄いたくないってことかもね?」

「独り……うん、嫌かも」

 奏美はステージにポツンと立つ自分を想像した。とても唄える気がしないし、唄いたいと思えない。

「ライブかあ……」

 このスタジオではない何処かで、見知らぬ人たちを前に唄う自分。その時、一緒に居てくれるのは誰だろう。レモンサーカスではない。奏一でもない。では誰なのか。

 奏美がそんな思考に嵌っていると、恵美がスタジオへ降りてきた。

「紗季ちゃん、お客さんですよ」

 案内してきた恵美の後ろから顔を出したのは拓海だった。

「あ、タッ君」

「お疲れ様です、紗季さん。カナちゃん、こ、こんにちは……」

「拓海君、来てくれてありがと。ナイスタイミングよ。ちょっとお茶でも飲みながら聴いててくれる?」

「はい……」

「恵美さん、お願いしちゃってもいいですか?」

「あらあら、いいに決まってるわ。拓海君はそこに座ってらっしゃい。みんなの分も淹れてくるわね」

「あ、あの……演奏依頼って聞いてきたんすけど?」

「ええ、後でね。まずは聴いててちょうだい」

「はあ……」

 拓海は背負ってきたギターをケースから取り出すと、ソファに腰かけてチューニングを始めた。

「それじゃ、奏美ちゃん。次はあそこに座ってるお客さんに向けて唄ってみましょう」

 紗季はサプライズとでもいうように、自慢げに手を広げた。

「え? タッ君がお客さん?」

「そうよ。アタシとの無伴奏を拓海君に聴かせるの」

「テーマは? さっきみたいな」

「拓海君というお客さんがテーマね。拓海君にどう聴かせたいのか、拓海君へどう唄いたいのか。何を伝えたいのか。アタシもアタシなりに考えて表現するから、奏美ちゃんもやってみて」

「うわー、人に向かって唄うの初めてだ」

「へ?」

 チューニングの手が止まり、固まる拓海。

「は、は、初めて?」

「そうだよ。いつもはみんなでセッションしてるから、お客さんなんていないから」

「今日のこの時を胸に刻みなさーい。そして光栄に思いなさいよ。奏美ちゃんの初めてのお客さんで、しかもアタシとデュオよ。贅沢ねえ」

 拓海はギターをわきに追いやると、背筋を伸ばして唾を飲み込んだ。

「なんか緊張するー」

「ほら、肩の力抜いて……さあ、演るわよ。1・2……」

 紗季は優しく滑らかに前奏を紡ぎ出した。FからGへ、そしてEmからまたF。

 大きく息を吸い込んで口を開こうとした奏美の肩を紗季の手が撫で、前奏が二周目に入る。

 奏美はヴォイトレのストレッチの要領で、全身の力を抜いた。紗季が頷いて手を離したところをみると、力が入り過ぎていたようだ。

 ちらりと拓海を見ると、胸を押さえ、目を瞑って語り掛けた。

『ベッドで横になると、アナタのことが思い浮かぶの……』

 拓海のつま先から脳天までゾワリと鳥肌が這い上がると、イメージの波が押し寄せた。

 よくわからない気持ちに混乱し、戸惑い眠れない夜。自分ではどうしたいのか、どうして欲しいのかわからない。それでも、とサビで抑えつけた高音が「アタシを見つけて」と心の中で叫んでいるのが伝わってくる。

「ああ……」

 拓海の口から思わず声が漏れた。

「これ駄目なやつ……」

 胸が締め付けられて苦しくなる。サビのリフレインが止めのように突き刺さって、拓海は泣いた。悲しくないのに、涙が止まらない。

「えぐっ……」

―― これって片思いの歌だっけ?

 そこで、これは自分の気持ちだと気づいた。

 一度決壊した涙腺は抑えようもなく、奏美が唄い終わるまで泣き続けた。

 最後の余韻が途切れると、拓海はぐちゃぐちゃの顔で立ち上がって拍手した。

 泣いている拓海を見て、奏美が慌てて駆け寄る。

「どうしたのタッ君? 大丈夫?」

 拓海の背中をさすりながら、顔を覗き込んだ。

「うん……」

 そこへ恵美が人数分の茶器を持って降りて来て、驚いた。

「あらあらまあまあ……」

 紗季を見れば、同じように驚いているようで、目を丸くして頷いた。

「これ飲んで落ち着きましょうね……」

 恵美は拓海へ紅茶を差し出すと、紗季のところへ向かった。

「どうしたの?」

「あー……、奏美ちゃんの歌を聴いた拓海君が泣き出してしまったんですけど……、奏美ちゃんが家族以外の異性に触れてるところ、初めて見ました」

「そうね。アタシも初めて見たわ。幼稚園の時でさえなかったと思うわ」

「そんな小さい時から?」

「そうなのよね。男の子っぽい女の子も駄目だったわね。もう、近づいて来るだけで泣いてたわ」

 そんな奏美が拓海の背中をさすり、眼を合わせてはいないだろうが、心配そうに顔を覗き込んでいるのだ。

「良いことなんでしょうか?」

「良いことなんじゃないかしら? ある程度は狙ってたんでしょ?」

 含み笑いとともに、義母が義娘を肘で突く。

「そこまでは……」

 そろそろ拓海も落ち着いてきたようなので、ソファでお茶を囲む。

「どうだった、奏美ちゃん?」

「最初、お義姉ちゃんが止めてくれなかったら、思いっきり声出してたかも」

「ウフフ、そうね」

 意外と笑い事ではない。ヴォーカリストが全開で出す声量はとんでもないボリュームなのだ。そんなものを正面からまともに喰らったら、耳がキーンとするくらいでは済まない。ただ、今回の曲の出だしは奏美にとってそんなに強い音が出る音域でもないので、まあ吃驚するくらいで済んだかも知れない。

「人に向けて唄うのって、なんか不思議な感じがした。タッ君から何かが返って来るっていうか……、繋がった感じ?」

 うまく言葉で言い表せないのか、首を傾げている。

「それがライブなのよ。奏美ちゃんと拓海君の間にある空気を、奏美ちゃんが音として震わせた。だから、その震える空気で繋がってたのよ。その音の振動の中には、奏美ちゃんと拓海君の心の震えだって含まれてるわ。だからライブではライブの反応が返って来るし、ライブの感情が伝わりやすいのよ。お互いにね」

「ふーん、なるほど。CDとかと違うのはそういうことなんだ」

「そういうことね。そこで今度は拓海君の出番なんだけど」

「俺っすか?」

「何だかんだ言って、奏美ちゃんは大人数でしか演奏してないのよね。無伴奏で唄ったのも今日が初めてだし。だから、次は拓海君のギターで唄ってもらおうかなって」

「えっ、エレキ一本っすか?」

「何ならアコギでもいいわよ?」

「タッ君はストラトが良い」

「だそうよ。どんな音にするかは、二人で話し合ってちょうだい」

「はーい」

 何気に拓海の隣に座っていた奏美は、身体を横に向けた。紗季と恵美はまた驚くが、拓海はもっと驚いている。

「クリーンな温かい音を希望します」

「は、はい!」

「後はその時の感覚で」

「は、はい! 合わせるっす!」

「タッ君のソロも聴きたいです」

「が、頑張るっす!」

 こうして打合せも終わり、二人の準備は整った。

「アタシ達がお客さんよ。さあ、二人の演奏を聴かせてちょうだい」

「あらあら、楽しみね」

 奏美がひとつ頷くと、拓海はCのコードを鳴らした。そこから、ゆっくりとしたテンポでメロディラインをアレンジしたソロを奏でてから、前奏に移った。

 歪みのない、クリーンなストラトの柔らかく温かいアルペジオが響く。その一粒一粒の音が奏美を震わせ、胸の中のAの音と混ざり合った。

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