第16話

 秀一と恵美が帰宅すると、薄暗いリビングのソファで息子夫婦が俯いていた。

「奏美は?」

 紗季は着の身着のまま飛び出して来たのだろう。随分とラフな格好をしている。


「部屋から出てこないよ。鍵掛かってるし、呼んでも『放っといて』って」

 秀一の問い掛けに顔を上げた二人の顔は、明らかに憔悴していた。

「そうか」


「あらあら、元気ないわね。取り敢えずお茶でも飲みましょ?」

 恵美は灯りをつけると、キッチンに向かった。


「落ち込んでも仕方ねえ。まず出来ることをやっちまおう」

「出来ることって?」

「そう、焦るな。お茶が入るのを待とう」

 秀一はドカリとソファに座った。


「そんなことやってる間に奏美が……」

「落ち着けっ! そんなこたぁわかってる。ただ、奏美がなんで部屋に篭ってんのか、まだわからねえんだからよ」

「それは、あの動画のっ!」

「煩せぇな。まだ、動画のコメント読んだか、わからねえだろうが」

「そうそう、カナちゃんの話聞くまで何にも分かんないんだから」

 秀一の横に恵美も腰を下ろす。

「あれ? メグちゃん、お茶は?」

「今、沸かしてるわよ」

「それで、できることって?」

 秀一は一つ溜息を吐くと、仕方なく説明を始めた。




 秀一の話を受けて、一度着替えに帰った紗季が戻ってくると、収録を終えたレモンサーカスの面々が駆け付けたところだった。

「ああ、紗季さん! カナは?」

 衣装のままなところをみると、紗季と同様、よほど急いで来たのだろう。

「うん、部屋から出てこないわ」

「じゃあ、やっぱり?」

「奏美ちゃんと話せてないから、わからないけど……多分」

 四人は頷きあい、MARINAが一歩進み出た。

「ボクが話してみるよ」


 秀一達もMARINAの提案に反対する理由はなく、二階にある奏美の部屋へと廊下を進んでいくMARINAを、階段の影から見守っていた。

 MARINAは躊躇することもなく、扉を叩く。

「カナ?」

『マリ?』

「そうだよ……わっ」

 くぐもった奏美の返事に続いて扉が開き、あっという間にMARINAが引き込まれ、再び施錠された。


 取り敢えず、MARINAを送り込むことに成功した一同は、肩の力を抜いた。

 奏美の無事は確認できたのだ。

「マリに任せとけば大丈夫やで」

「聞き上手ー」

「押しかけちゃって、すいません」

「こういう時は友達ってことかねえ。来てくれて助かったぜ。ま、ここで待ってても仕方ねえ。やることやっちまおうぜ。こっちも手伝ってくれ」




 MARINAは奏美が泣いているだろうと思っていた。そう思ったからこそ、急いで駆け付けたのだ。

 だから、直ぐに抱き締めようとしたのだが、奏美の冷静な言葉に突き放された。

「マリ、衣装のままじゃない。汚れたら大変だよ?」

 クローゼットからスウェットを引っ張り出して、MARINAに押し付けた奏美は、俯いてはいたが、泣いていなかった。

「あれ? う、うん、ありがとう……」

「ううん。来てくれてありがとう。マリに会いたかったんだ」

 奏美は下を向いたまま、ベッドに腰かけた。

「メッセージ既読にならないからさ、何かあったのかもって……飛んで来ちゃったよ」

「あ、携帯……スタジオに置きっぱなしだ」

「そっかー」

 MARINAは着替えながら奏美の表情を覗こうとするが、髪に隠れて読み取れない。

「ごめんね……」

 着替え終わったMARINAは奏美の隣に座ると、いつも通り抱き着いた。

「いいよ。ちょっと心配しただけ。なんかあった?」

 優しく頭を撫でる。


「ねえ、胸の中で音がすることってある?」

「ん? 心臓の音じゃなくて?」

「うん。Aの音が鳴るんだよね」

「A?」

 MARINAは先を促す。

「うん、A。マリはしたことない?」

「うーん……胸の中か……ずっと鳴ってるの?」

「ううん。うんと……なんかね、拓海君がね……あ、また鳴った……」

「拓海君?」

 思わぬ登場人物に、MARINAは首を傾げた。


「そう……拓海君がね……思い浮かぶと鳴るみたい」

「ふーん……」

 想定外の方向だが、これも何か繋がりがあるのかも知れないと、そのまま耳を傾ける。


「なんでだろうね? マリはそういうことない?」

 異性が思い浮かんで、胸ですることといえば……。

「あるにはあるかな……音階まではわからないけど」

「マリはどんな時に鳴るの?」

 どう展開するのか、まだわからない。兎に角、話を先に進める。

「ボクは好きな人のこと考えた時かなー」

「その音聴くと、どんな感じ?」

「胸が苦しくなるよ」

「あー! アタシも!」

 意外と元気な反応が返って来た。


「なんでだろうね?」

「そりゃあ、好きだからだよ」

「そうなの? 好きだと苦しくなるの?」

「そうだよ。切なくて苦しくて、胸がキュンってするんだよ」

「ふーん……」

「カナは初めて?」

「うん……」

「そっかあ。好きなんだね、拓海君」

「えっ! そうなの?」

「うん。そうだと思うよ」

「そうなのかなあ……」

「そうだよ」

「そっかー」

「うん」


「なんかね、お兄ちゃんのストラトより、拓海君のね、ストラト方が格好いいって思ったの」

「うん」

「動画をね、公開するってなった時にね、拓海君が観るかなあって思ったの」

「うん」

「今何してるかなあとか、どこに居るんだろうとかね、考えちゃうんの」

「うん。そういう時にAが鳴るんだ?」

「そう。それでね、今日、お兄ちゃんのPCでね、動画のコメントがあってね」

 やはり見ていた。遂に来たかと、奏美をずっと撫でていた手が止まる。

「うん……」



「でも、拓海君のコメント無かった……」


「そうなんだ……んー?」

 MARINAの頭の中で?マークが飛び交う。


「拓海君、観てないってことだよね? ……」

「え? いや、そういうことじゃないと思うよ?」

「だってコメント無かったよ?」

「観ててもコメントしない人の方が多いよ。ボクも観たけどしてないし……」

 MARINAの心配は杞憂だったのかも知れない。


「そうなの?」

「うん」

「じゃあ、拓海君、観たのかなあ?」

「そ、それは本人に聞いた方が……良いんじゃないかなあ?」

「え! 聞けないよ!」

 奏美は身をよじってMARINAから抜け出すと、タオルケットに顔を埋めた。

 僅かに覗く首筋が真っ赤になっている。

「あー……、ひょっとして、今も鳴ってる?」

 これは一応、念のため確認だ。

「うん……」


 症状も確認するべきか。

「ドキドキしてる?」

「してる……」

「食欲もない?」

「うん……」

「他のことが考えられない?」

「うん……」

 全てに該当する。確定である。


 MARINAは天井を見上げ、脱力していた。

 到着した時は、もう確定だと思った。今日はずっと付き添っていようと思った。

 でも違ってくれた。そうじゃなかった。

 確かに奏美のピンチではあった。そこに駆け付けることもできた。良しとしよう。

 奏美は無事だった。違う意味で無事ではないけれど。

 それならそれで、やることは決まっている。


 ここはもう友達として、更に話を進めるだけのことだ。



「ねえ、カナ。ボク、拓海君の連絡先知ってるよ」




 奏美の携帯を回収するべく、二人がスタジオに降りると、撮影の準備が進められていた。

 ちょっとお洒落な普段着の奏一と紗季がソファに座り、KARENが紗季の髪を弄っている。

 マネージャーから着替えを受け取ったのか、レモンサーカスの面々も普段着に着替えていた。


「ねえ、何してるの?」

 奏美の問い掛けに、スタジオの時間が止まり、入り口に立つ二人へ視線が集まった。


「奏美ちゃんっ!」

「奏美!」

 奏一と紗季が立ち上がろうと腰を浮かせたが、奏美の後ろで必死に首を振るMARINAのサインを受けて、KARENが押し戻した。


「これからねー、先生と紗季さんの結婚報告会見を撮るんだよー」


 そこへ、これでもかと花を生けた花瓶を抱えた秀一と恵美が降りて来た。

「あらあらカナちゃん、降りてきたの?」

「うん。発表するんだ?」

「おう、うちの嫁だって言っとかねえとな」

 ニヤリとした秀一がMARINAに目をやれば、頷きが返ってくる。


「キッチンに二人のご飯置いてあるわよ」

「うん、食べてくる」

 奏一のデスクに置きっ放しだった携帯を取ると、奏美とMARINAはスタジオを後にした。



「なあ、どうやったんかな?」

「気になるー」

「マリに任しとくしかないでしょ」

 今はそれで我慢しておく三人だが、我慢しきれない二人もいる。

「ちょっと奏美んとこ行ってくる」

「あ、アタシも」

 と、再び腰を浮かそうとする奏一と紗季だったが、今度は秀一に押し戻された。

「そこの娘っこ達の方が、よっぽどわかってるな。今お前さん達が行って、どうにかなる事じゃねえだろ」





 キッチンに用意されていたのはシチューだった。

 奏美は鍋を火にかけて、掻きます。まだほんのり温かいので、すぐに食べられそうだ。

「ご飯ないみたいだから、マリ、フランスパン切って」

「ほいほい」

 MARINAはオーブントースターを予熱しながら、フランスパンをカットする。我が家並みに手慣れているのは、気のせいではない。


「ねえ、コメント全部見たの?」

「見たよ」

「そっか、見たんだ」

 コメントの削除が間に合ったのか、はたまたスルー出来ているのか。

 後者であれば、拓海の存在はファインプレーだ。

 良かったと思いつつも、モヤモヤが半端ないMARINAである。


「ボクから拓海君にさりげなーく観たかどうか聞いてみようか?」

「またさっきの話?」

「うん。まあ聞くまでもなく観てるだろうけどね」

 カットしたパンをトースターに並べる。

「そう思う?」

 シチューを掻きまわしていたレードルが止まる。

「うん、観てる。絶対」

「そっか。うん」


 火を止め、深皿にシチューを盛る。

 MARINAもトースターからパンを取り出し、小皿にのせた。

「確かめなくていいのかな?」

「だって観たんでしょ? 冷蔵庫からサラダ出して」


 ダイニングテーブルに並べて、各自カトラリーを持って着席。

「いただきます。観てるねえ。って今、音は? 苦しくない?」

「いただきます。鳴ってるよ? でもマリが観てるって断言してくれたから、なんか安心した」

「安心?」

「うん。観てくれたんならいいの。響きが変わったよ。今は嫌じゃない」

「そ……うなん……だ……」


 まさか、そんなことで幸せそうな顔をされると思ってもみなかったMARINAが、「なんだこれ!」と叫んでも、多少のご容赦が頂けるのだはないだろうか。


「ありがとう、マリ。仕事終わって、そのまま来てくれたんでしょ?」

「う、うん……アハハハ……」

 これはみんなにどう報告したものかと、悩むMARINAだった。




「お、何かマリからガックリなスタンプ来たよ」

 その後、AMIのスマホへ立て続けにSNSメッセージが届く。

「何々、フムフム…… はあ? ブハッ…… 何これ、アハハハ、カナ可愛いー!」

 笑い転げるAMIから、KARENがスマホをむしり取る。

「早よ見せーや!」


 スマホの小さい画面を、全員が覗き込み、固まった。

「あらあらあら」

「……確かに乙女のピンチではあったなあ……」

「まあ、そうね。カナちゃんが大丈夫だったなら、問題なし」

「良かっだ……アダジどうじようがど……うう……」

 涙ぐむ紗季。

「拓海を今すぐ殴りたいのは俺だけ?」

 何にしても、肺から空気を抜けるだけ抜いた一同であった。


「おい、やるこたぁ変わらねえ。とっとと片づけて、その後にぐったりしようぜ」

 そうなのだ。

 偶々、奏美の気が別の方向へ向いていたから良かっただけで、根本的な問題は解決していない。


「そうですね。早く発表しちゃいましょう」

「すまねぇな、紗季ちゃん」

「考えてみれば、別に秘密にするようなことでもないんです。それに……」

「んん?」

「メディアは煩わしいって思ってましたけど、知ってもらうことで守れるものもあるんですね」

「情報ってのは使いようでね。ま、出すのは最低限の真実。取り込むのは虚実織り交ぜて全部ってね」

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