第11話

 日曜日、慣らし運転も終わった秀一のヴェルファイアは、家族を乗せて奥多摩へやって来ていた。

 レモンサーカスはシングル発売に向けたライブのリハーサルで、今日から都内のスタジオに缶詰だ。奏一と紗季も顔を出さなければならないが、帰り際に落として貰おうと思っている。

 拓海たちも、今日はスタジオに籠っているだろう。短時間で仕上げなければならないこともあって、紗季のヴォーカルレッスンは超スパルタだ。泣きながら唄っていた拓海も、今日ばかりは気が抜けているかも知れない。

 青々と繁る木立に囲まれた駐車場に車を停めると、一行は石畳の通路を進んだ。両脇の芝生には、背の低い墓石が並んでいる。

 木立は全て桜のようで、春先に訪れれば、さぞ華やかなことだろう。山に囲まれ、目に映るのは緑と青。

「代々のお墓もあるんだけど、なんだか違うような気がして……。ここは暗くてジメジメしてないから……」

 夏の気配が抜けない風が、蝉の声を抜けて葉を鳴らした。入道雲が見下ろしている。

 紗季は墓前に紫苑しおんの花束をそっと置いた。

「お父さん、お母さん、アタシ結婚したの」

 口元に穏やか笑みを浮かべ、墓石に触れる。

 まるで、その手を伝って応えが返ってくるのを待つように、じっと、ただじっと触れている。

 後ろに控えた奏一たちは、黙ってそれを見守っていた。

「もう、お父さんとお母さんが褒めてくれた、あの透き通った声では唄えないの」

 両親が「綺麗な声だね」「上手だね」と言ってくれた。両親に褒められたくて、そのために唄っていた。初めて両親以外に心を向けて「優しく殺して」と唄った時、両親が死んだ。


―― 優しく殺して……


   貴方のものになれるのなら


   この声も この身体も


   全てを引き換えにしてもいい


   優しく殺して……


   貴方のものになれるのなら


   この心も この世界も


   全て壊してもいい


 過酷なスケジュールとプレッシャーに追い詰められ、安定を失っていた紗季は壊れた。紗季は狂ったように叫び、泣き続けた。声帯を傷つけ、血を吐きながら、文字通り声が嗄れるまで泣いた。

 腫れあがった声帯は、音を発することが出来なかった。

「呪いだって思ったわ。だから本当に殺して貰おうと思って、奏ちゃんに電話したの。声も出ないのに。それなのにこの人、すぐに飛んできて、抱き締めてくれたの。唄った通り、全部壊れて、アタシはこの人のものになった」

 喉の腫れが引いた時、美しく輝いた声は失われていた。辛うじて漏れる掠れた声。

 強く、しなやかだった喉は、繊細で脆くなった。負担を掛けるれば直ぐに潰れてしまう。

 発声の根本から見直し、喉の負担を減らしつつ、それでも何度も潰しながら、やっと作り上げたのが、今の声だ。

「こんな声じゃ唄えない、アタシの声じゃないって言ったのにね、奏ちゃんったら、この声が好きだって言うの。格好良いって」

 美しかった声は与えられたものだが、今の声は違う。努力して掴み取ったものだ。

「奏ちゃんの前でだけなら、唄ってみてもいいかなって思った。だってアタシはこの人のものだから」

 奏一の作る曲に仮歌を吹き込むようになった。同時に、色々な発声を試し、技術も磨かれていた。

「奏ちゃんがね、優しく殺してくれたの。少しずつ、時間をかけて、昔のアタシを。望み通り」

 そして奏美の声と出会ってしまった。

「それでアタシは一度死んで、もう一度生まれたの。今のアタシとして。紹介するね。新しい家族。奏ちゃんと、お父さんとお母さんよ。そして、澄んだ歌声を持った妹」

 労わるように、謝るように、優しく両親の名が刻まれた石を撫でた。

「おとうさん、おかあさん、アタシもう一度唄います」

 それはどちらの両親に向けて言ったことなのか。

 空は遠く、黒い影が二つ、白い航跡を曳きながら彼方に消えて行った。

 ゆっくりと振り向いた紗季は、奏美を真っすぐ見つめた。奏美が怖がるかも知れないことを承知の上で。

 あの時、初めて奏美の声を聴いた時、紗季は嫉妬したのだ。且つての自分のような、失ってしまった澄んだ唄声の妹に。

「奏美ちゃん、アタシは唄うわ。奏美ちゃんはどうする? アナタが唄いたいなら、アタシの持っていた全てをあげる。アタシはその声の、その楽器の鳴らし方を誰よりも知っているから」

 奏美は反射的に紗季と目を合わせた。正面から見つめ合うのは初めてだった。

 力強く、自信に満ちた優しい瞳に抱き締められるままに、目を逸らそうとは思わなかった。



 すっかり日が暮れた頃、漸く都心に戻って来た一行は、揃ってレモンサーカスがリハーサルしているというスタジオへ向かった。

 奏一たちが来たことを告げると、一旦休憩ということになったようだ。

 スタジオから出てきたメンバーは、一日中演奏していたとは思えないほど元気だった。

「おー、カナだー! ボクの栄養来たー!」

「吸い取れー! 吸い取れー! ダハー」

 MARINAとAMIは早速、奏美に纏わりつく。

「恵美さんも来てくれたんか!」

「はいはい、差し入れよ。かりんとう饅頭」

 恵美は、抱き着く汗まみれのKARENを撫でながら、お土産を差し出した。

「甘いの来たでー! 恵美さん、差し入れくれたでー! いつも美味しいもん食べさしてくれて、ええ人やでー、ホンマ」

 すっかり恵美に餌付けされているようだ。

 メンバーに続いてスタッフも休憩スペースへやって来て、差し入れにありついている。

 MARINAとAMIは、一層激しく、揉みくちゃというほどに奏美に絡みつく。

「もうマリ、アミ……心配してくれるのは……有難いけど……苦しいよ」

 「お?」と、二人は絡みついていた腕を緩めた。

「なんか、今日は怖くない。話しかけられなければ平気」

 周りには知らない人が溢れている。それなのに、奏美は落ち着いていられた。

 そんな奏美の様子を見て、何かあれば直ぐに連れ出そうとしていた奏一は肩の力を抜いた。

「大丈夫なのかよ、まったく……」

「何か心境の変化があったんだろうよ。マリちゃんとアミちゃんもいるしな。紗季ちゃんからレッスン受けて、あの娘たちが来るようになって、奏美は変わってきてる」

「そうだな……」

「紗季ちゃんも何か踏ん切りがついたみてえだしな。それにしても、俺たちのところには誰も来ねえな」

「オッサンだからな」

 紗季は喉をアイシングしながら出てきたYUNAと、何やら話し込んでいる。

「お前は何かアドバイスしに行かなくていいのかよ?」

「相談されない限り、なるべく口は出さないよ。ライブはアイツらのものだからさ」

「へえ……」

 そろそろリハーサル再開と声が掛かっても、MARINAは奏美を離さなかった。

「ねえねえ、来週のライブ観に来てよ。客席からでも、舞台袖からでも、照明ルームからでもいいからさー」

「えー……考えておくよ……」

 奏美には考えなければいけないことが、沢山あった。

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