第4話

 スクールでのレッスンを終えた紗季は、いつものバーへ急いでいた。奏一から「すぐ会いたい」なんていうメールが来たからだ。

 せっかちな紗季と違って、バンド解散以来、何事にも慎重になった奏一とは思えない。普段なら、「終わったら連絡くれ」か、スクールの前で待ち伏せのどちらかだ。

―― 緊急事態発生? 情熱に目覚めただけ?

 どちらにしても、と足早になる。

 渋谷から東横線の急行に乗れば中目黒まではすぐだが、一昔前と違ってホームまでが遠い。渋谷経由で移動していた人は兎も角ともかく、ここから乗車する人間にとっては苦行でしかない。

 紗季がやっとの思いで、いつもの行きつけに辿り着くと、奏一は独りカウンターでジントニックを飲んでいた。一杯目はいつもビールなので、もう二杯目以降ということになる。

「どうしたの? 何かあったの? 」

 振り向いた奏一は、紗季の顔を見るなり抱き着いた。

「はー……紗季ぃ……会いたかった……」

 何かはあったらしい。何故なぜかといえば、

「奏ちゃん……早く会いたかったら、会いにくればいいじゃない? どうしたの? 」

 奏一の頭を優しくでながら、マスターに目礼すると、もう五杯目だとサインを送ってきた。

 そんなに強いわけでもないのに、飲み過ぎだ。

 怒って置いて帰るという選択肢が頭をよぎった紗季だが、何があったのか気が気ではない。仕方なく奏一を座らせると、自分のビールを注文した。

「はいはい、何があったか説明しなさい。聞くだけ聞いてあげるから。ほら、しっかりしなさい」

 カウンターに突っ伏した奏一から、うめき声のような独白がれる。

「レコーディングの時にさ……真下の奴がさ……奏美に会わせろって……言うんだよ……だからさ……どうしよう……」

「はあ? なんでアイツが奏美ちゃんに会いたいのよ」

「デモの唄……」

「奏美ちゃんだって教えたの? 」

「教えてない……でも……化けるって……真下がさ……会わせろって……バレたらどうしよう?」

 一瞬だけあせった紗季だったが、すぐに落ち着きを取り戻した。

 まだ奏美のことを知られたわけでもないのに、シスコンの兄が過剰な心配をしているだけだ。

「そんなの会わせなきゃいいのよ。何を心配してんのよ、まったく妹大好きな変態」

 紗季は、奏一の後頭部をパシっとはたいて、注ぎたてのビールをあおる。

「今日さ……奏美の練習曲……選んで……唄聴いたら……」

「うん?」

「やばかった……」

 ムクリと起き上がった奏一は、紗季の顔をジッと見つめて、突然、まくし立てるように話し出した。

「英語、英語の歌詞っ! 二回だぞ、二回聴いただけで発音まで完璧にコピーしたんだっ! そんで、そんでもう、声がさ、ふぁーってな……」

「ちょ、ちょっとストップ! ねえ、落ち着いて。何言ってんのかわかんない」

 こんな情緒不安定な奏一は初めてだ。背中をさすって落ち着かせる。ついでにビールのお替りと、奏一のために水をお願いする。

「奏美ちゃんの曲、決めたのね。何にしたの?」

「Time after time」

「あら、いいじゃない。で、試しに唄ってみたと。奏ちゃんのことだから、あれか、音域キーの確認ね?」

「うん……」

「で? どうしたの?」

「泣いた……」

「奏美ちゃんが?」

「俺が……」

 ここで話がわからなくなる。うん、問題点はここだ。

 奏美が唄っている間に何があったのか。それがわかれば、奏一の言いたいことが理解できるということか。

 まさか、妹の唄う姿を見てホロリ、というわけでもないだろう。そこまでのシスコンだったら気持ち悪い。別れてやる。

「どうだった? 奏美ちゃん、ちゃんと声出てた?」

 手探りで核心部分を探そうとした紗季だったが、いきなり当りを引いたらしい。奏一の反応はちょっとしたものだった。

 ビクっと、水のグラスに伸ばそうとしていた手を止め、天井を仰ぎ見たと思ったら、スツールの上で器用に膝を抱えた。

「出てた? そんなもんじゃないよ……いつの間にか泣いてて、あれ? って思ったら、ああ、切ないんだって気づいた。ゾワって鳥肌が立ってさ、これ駄目なやつだって、絶対真下にバレたら駄目なやつだって……」

「何それ……まあ、明日聴いてみればわかるか」

「真下は欲しがるよ。そしたら紗季みたいに……あ、いや……ごめん……」

「……うん。まあ、アタシのことより、明日の奏美ちゃんね。ウジウジ飲んでてもしょうがないわよ。今日はアタシんで一緒に寝よ? 」

 紗季は、一瞬だけ差した影をサッと振り払うように笑顔を作ると、奏一の腕をとるのだった。



 頭のにぶい痛みで、微妙に残る酒を感じながら、紗季を伴った奏一が帰宅したのは、昼になる少し前だった。

 居間を見回しても、今日は休みだと言っていた両親の姿がない。奏美は起きたら直行なので、間違いなく地下にいる。

 さては、性懲りもなくイチャイチャと出掛けたに違いない、と思った奏一と紗季がスタジオに降りると、ジャズを聴きながら家族団欒かぞくだんらんしていた。

 ソファで奏美を抱いた母、恵美めぐみが紗季に微笑みかける。

「あら、紗季ちゃん、お帰りなさい」

「た……ただいまです。あの恵美さん? そこは息子にお帰りなさいでは?」

 過去、お義母さんと呼ぶか、名前で呼ぶか、の二択を迫られたことがある紗季が突っ込むと、「奏一、いらっしゃい。また来たの?」などと返される。

 父の秀一しゅういちは、奏一が引っ張り出したセミアコを抱えてニヤニヤしている。

「親父、そのスターキャスター、いつの間に手に入れたんだよ?」

「ん? おお奏一じゃん」

 何だかよくわからない、複雑なコードを押さえながら、顔だけ上げる。

「いいべ? 七十六年だ、七十六年。フェンダーのくせに、この335が歪んだみたいな形が可愛いっしょ? 復刻版じゃねぇからな。お安くはないぞー」

 フェンダーUSA・スターキャスターは、1976年から四年間だけ生産された珍品で、最近復刻版が発売された。335は、ギブソン・ESー335、セミアコと言えばまず、これを思い浮かべる。

「メグちゃん、鍵盤弾いてよ。紗季ちゃん混ぜてさ、セッションしよ、セッション」

「いいわね。じゃあ、奏一はベースとドラムね。カナちゃんは私の隣で一緒に弾きましょうね」

「いや、待て。ベースとドラム一緒には無理だろ、無理」

 グダグダである。

「ちょっと、お父さん、お母さん。これからアタシのレッスンなんだから、邪魔しないでよ」

「奏一にギター習うのか? お父さんが教えてあげるから、そんな下手糞へたくそは止めとけ止めとけ」

「違うもん。ギター弾けるし!」

 そうなのだ。上手い下手は別にして、ここの家族は全員、ギターと鍵盤を弾ける。

「あら、それじゃ紗季ちゃんが先生かしら? 」

「そうなんです。今日から毎週ヴォーカルレッスンに伺うことになりまして」

「いいな、いいな、私も習いたい! でも毎週はお休みが取れないわー」

 なぜかキャッキャしている恵美は置いておく。

ちなみに、どんなことするんだい?」

「発声練習して、課題曲を決めて唄いこみですね」

「お月謝はいかほど?」

そうちゃんの身体で」

「そういうわけだから、よくつかえるようにな」

 サクッと売られる奏一の身体。扱いが雑である。

「カナちゃん、私たち、ここにいても良いかしら?」

「紗季さんが良いって言うなら 、別にアタシは良いけど……?」

「それこそ奏美ちゃんが構わないなら。ところで、お昼ご飯食べた?」

「まだ……」

「調度いいから、このままやりましょ。言い忘れてたんだけど、お腹いっぱいだと声が響きにくいのよ。ちょっとお腹空いちゃうけど、我慢ね」

 別にどこで始めてもいいのだが、何だか混み合っているので、マイク前の定位置へ移動する。いつの間に仕込んだのか、すぐ脇にキーボードが用意されている。流石さすが奏一。

「じゃあ、準備運動からいくわよ」

「柔軟体操?」

「軽くストレッチしながら、リップトリルとタングロールをやるの。やってみせるから真似まねしてね」

 紗季は身体を伸ばすストレッチをしながら、唇を大きく震わせて「ブルルルルルルルルル」と音を上下する。

「アハハハ、何これ、楽しい。ブルルルルルル……」

「そ、上手よ。ブルブルっていうより、バタバタさせるくらいをイメージしてね。これがリップトリル。次はタングロールね」

 今度は全身の力を抜くために、脱力して手をブラブラさせながら、舌を使って「ドゥルルルルルル」と、ドラムロールのようにしている。これも音を上下させる。

「これがタングロール。口のストレッチもやるわよー。口角をフルに動かすことを意識してね」

 口を大きく開けた状態から、頬をせばめて唇を突き出しながら「ウー」、そのまま縦に広げて「オー」、横にも広げて「アー」、横に全開して「エーイ」を繰り返す。

「じゃあ、音階やるよー。鍵盤と同じを出してね。まずは口を閉じてハミングで。音を鼻から抜く感じで」

 「ドレファレド」と上下して、ルート音(この場合はドがルート音)を変えていく。

「今、下がどこまで出るか、やってみよう」

 ルート音を下って、限界まできたところで上っていく。

「裏声出せるかな? 出せるならそのまま上げるよー」

 どこでもやっているヴォイストレーニングである。

 ソファでは、紗季が弾く音階を秀一がギターでトレース、それに合わせて恵美が発声するという可笑しな展開になっている。

 みんな楽しそうだなあ、と思いながら、一人暇ひまを持て余している奏一は、ハタと思いついて、ビデオを録り始めた。

 こんな家族団欒は滅多にあるものではない、という思いからの行動だが、この後に待っているイベントを忘れている。

 地上には二十畳のリビングもあるというのに、全員が地下にこもる休日。

 なぜかワチャワチャになった基礎練習も終わり、遂にその時がやって来た。

「さあ、準備運動は終わりよ。曲も決まってるみたいだし、早速やってみよっか」

 譜面台は昨日のままなので、歌詞は置きっ放しだ。

そうちゃん、キーはオリジナルのまま?」

 カメラマンは喋ってはいけないという、謎の法則にとらわれている奏一は、カメラを構えたままオーケーサインを送る。

 若干カオスになりかけているが、昨晩の様子よりはマシなので、紗季はそのまま流すことにしたようだ。

「じゃあ、一回サラっと一緒に唄って、その後にアドバイスとか修正とかやろう。えっと、おじ……おと……秀一さん、伴奏お願いできますか? Time after timeなんですけど」

「知ってる知ってる。Fからね。はいはい」

「テンポはメトロノーム使いますんで」

「あら、じゃあ私、鍵盤弾くわー」

と、恵美も寄って来る。

 いきなり家族で演奏する(奏一を除くが、紗季を含む)ていになっている。

 紗季が合わせた百五のテンポで、メトロノームが刻みだす。

「奏美ちゃん、準備いいかな? 軽くだから、感情は乗せないで音程を正確にね」

「はーい。あ、お父さん、歌に入るところ合図してね」

「うっし、じゃあ適当に始めっぞー。ワン・トゥ・スリー・フォー」

 前奏イントロのリフが二周するところで、秀一が合図を出す。

―― せーの……。


 Lying in my bed~


 奏美と紗季のユニゾンがスッと響き始めると、部屋の空気が変わった。

 紗季は少し驚いた顔をしたが、すぐにてのひらを下に向けて奏美に指示を出している。

―― 声量は抑えめ、足元から流す。

 大きな声ではない。紗季の音が奏美の音に寄り添って混ざり合い、ドライアイスの煙のように、床を這って広がり、消えていく。


 Flash back, warm night~


―― 抑揚をつけて、ちょっと持ち上げて。でもまだ抑えたまま、我慢だよ。

 掻きまわされるように、音が渦を巻き始める。

「音の粒と方向を意識して。低い音は腕の付け根当りを鳴らす」


 The second hand~


―― 跳ね上がるけど、上に逃げずに捩じ伏せる。


 If you’re lost~

 コーラスにまわった紗季の音が、奏美の音をボトムから支える。

 音が回転しながら巻き上がっていく。


―― サビ二周目の最後は一番高い音を確実につかまえて。


 I will be waiting~

「突き抜けずにスッと落とす。そう、素敵」

 巻き上がった音が、広がるように拡散しながらキラキラとる。


「うん。一度休憩して、次はもう本気でやっちゃおうか? メトロノーム止めて、そうちゃんにドラム叩いてもらおう」

 紗季がワンコーラスでストップを掛けた。

「今は抑えたからあれだけど、そりゃそうちゃん泣くわ。多分、アタシが奏美ちゃんに教えるのは、練習方法と技術テクニックだけね」

 落ち着いている様に見える紗季だが、内心は動揺していた。奏一の懸念けねんが理解できたからだ。

 真下は奏美を欲しがる。絶対に欲しがる。

 紗季が奏一に頷きを送ると、「だろ?」という視線が帰ってきた。

 そんな二人をよそに、

「まあまあ、カナちゃん、いつの間に上手くなったの?」

「ん、この間こないだから」

「よっしゃ、奏一、映像と音源別録りな」

 元気に輝いている娘を見て、父母のテンションはダダ上がりである。

「ええっ! ヤダよ、録音するのなんて……」

 当然、奏美が嫌がるのだが。

「自分がどんな声してるか、聴いておいたほうがいいのよ。自分の声は自分で聞こえないから。映像も姿勢とかのチェックに使うの」

 紗季のもっともな説明に、奏美はしぶしぶ折れた。

 奏一は三脚に回しっ放しのビデオカメラをセットして、ミキサーを調整する。一発録りなので、少し気を使う。

 紗季はそんな奏一の耳に口を寄せた。

「奏美ちゃんはアタシ達が守る」


 そして、唄い終わって満足気な奏美と、放心状態で撃沈する家族という構図で、第一課題曲の撮影と録音は終了したのだった。

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