第3話


 レモンサーカスのシングルは、五月の初旬に無事発売された。売れ行きも好調で、CDが売れないという時代にあって、その人気のほどがうかがえる。

 奏一としては、売れれば売れるだけ印税が入ってくるわけで、有難い限りである。

 プロモーションに関わるでもない奏一は、今日も地下スタジオで曲を作っている。

 別に依頼が入っているわけではないが、そういうものだ。依頼仕事だけでは食べていけない。常にチャンスを探しているのだ。

 特にコンペは重要だ。

 今作っている曲は、やたらと人数の多いアイドルグループのコンペ曲だ。

 テーマは『白馬に乗った王子様とお城が出てくる可愛い曲』である。キー(この場合は音域)の指定も歌詞もない。

 こういった条件の場合、曲の扱いが雑になることを覚悟しておかなければならない。唄うのは本格的なシンガーではない。

 レコーディングで声が届かないから、キーを下げるなんて当たり前のように言ってくる。当然、曲の印象が変わってしまうので、アレンジからやり直しである。

 なるべく、そんなことにならないように、そのアイドルグループの曲を聴きこんで、音域の確認をしているところだ。

「お兄ちゃんもアイドルグループの曲、聴くんだね」

 ソファで紅茶をすすりながら、漫画を読んでいた奏美が目を丸くした。

「好きで聴いてるわけじゃない。仕事だ、仕事」

 桜材の巨大スピーカーから溢れ出す、元気いっぱいな子供たちの声に、うんざりしてくる。

「そういえば、紗季のレッスン受けんのか? 」

――音域も糞もあるか、これ……と、若干諦めの境地に達しようとしながら、奏美をうかがう。

「紗季さんは熱心に誘ってくれるんだけど……渋谷はちょっと……」

 奏一と紗季が講師をしているスクールは渋谷にある。確かに、奏美には辛いだろう。

「まあ、無理することないさ」

 さあ、白馬の王子様に取り組まねば。

「ここでやってもいいしな」

 結局、白馬の王子様コンペには参加しなかった。


 その週末、地下スタジオのマイクの前に、奏美と紗季が立っていた。

「この先続けるかは別にして、今日は体験コース♪ ちゃんと発声すると、どれくらい声がでるかやってみよう! 」

「はーいっ! 」

 奏一の些細な一言で、自宅レッスンの話が盛り上がり、今に至る。

 奏美もノリノリなので、奏一に言うことはない。仕事する時間が削られる程度のことだ。

「じゃあ、まず姿勢からね。肩幅に足を開いて……胸を開いて、そう、張るんじゃなくて開く感じだよ。肩の力を抜いて、手はお腹の辺りを軽く触る」

 奏美の身体を後ろから抱えながら、姿勢を作っていく。

 ゴルフスイングを教えている、セクハラ親父に見えなくもない。

「声はね、ここで鳴らすの」

 紗季は奏美の鎖骨のちょっと下の辺り、胸の上部に触れる。

「お腹から出すんだけど、鳴らすのはここ。ここで響かせて、口はその音を言葉にするの。胸の響かせ方で音が変わるから、ちょっとやってみようか? 」

 今度は奏美の手を自分の胸に当てさせて、

「やってみるから、手で響きを感じるんだよ」

 紗季からささやきのような声が漏れ始め、段々と音圧が上がっていく。地下全体がビリビリするところまで上り詰めると、ゆるやかに下降して、元の囁きにまで落ちていく。

「どう? 」

 奏美は眼と口を大きく開いた、所謂いわゆる放心状態だ。

 細い紗季の身体から解き放たれた、声というエネルギーの大きさに驚いたのだろう。

――――これが紗季の全開……。

 完全防音の地下室にあって、今のは外にも聴こえたのではないだろうか。家全体が震えた。

「胸で振動してるのがわかったでしょ? 」

 ちょっとウルウルモードの奏美は、コクンコクンと首を縦に振っている。あんな音圧を目の前で喰らえば、そりゃ涙目にもなるというものだ。

「じゃあ、アタシが触ってるから、そこ意識してね。お腹から持ち上げていって、喉からあふれそうになる声を胸に落とすようなイメージで……」

 最初、か細かった奏美の声が変わってくる。芯が通って、声の揺れが無くなっていく。

 紗季の手が奏美のお腹を段々圧迫する。

あごを引いて、もっともっと胸に落とすよ」

 何度もブレスを入れながら、ひたすらに声を出し続ける。

 トンっと、音圧が劇的に変わった。

 スイッチで回路が切り替わったような、まるで違う次元の音。

 本人にもそれが分かったようだ。驚いた顔をしている。

「いいよ、いけるとこまで上げちゃってみよう」

 紗季のゴーサインで、瞳に輝きが宿った奏美の音圧が上がっていく。奏美の胸の振動が、空気を伝わって響く。

 ただ、「あー」と発声しているだけだというのに、背筋がゾクゾクと震え、鳥肌が立つ。

 奏美の音色だ。奏美が鳴っている。

 発声を終えた奏美は汗だくで、肩を上下させていた。

「どう? 気持ちいいでしょ? 」

「うんっ! 楽しいっ! 」

 人間というのは不思議なもので、大きな音を出すことに快感を覚える。また、良い音を響かせることは、途轍とてつもなく気持ちが良い。

 奏一の場合は楽器で音を鳴らす。

 紗季と奏美は、みずからの身体でそれをやっているのだ。

「でも疲れたでしょ? だから今日はここまでね。ヴォーカリストは体力使うんだよー」

「あはは、声出しただけなのに」

 かなり消耗したはずである。一年以上、ほとんど家から出ることなく過ごしてきたのだ。体力などあろうはずもない。

「唄っていけば、自然と必要な筋肉とかはついてくるけど、たくさん唄うためには体力だね」

「紗季さん、声出すだけじゃなくて、アタシ唄いたいかも」

「そっか。じゃあ、まずは毎週末、教えに来ようかな? レッスン料は奏ちゃんからしぼり取っておくから、気にしなくていいからね」

 何気に恐ろしい宣告を受ける奏一だが、何もすることが無かった奏美が、何か始められるのなら、多少の犠牲はいとわない。

 こうして紗季と奏美のヴォーカルレッスンが決まった。


 その夜、紗季と奏一は酒を飲み交わしていた。

 中目黒駅からちょっと離れた、隠れ家っぽいバーである。二人の家の中間地点という立地で、必然的に行きつけと化していた。

 上機嫌な紗季は酒が進んでいる。

「奏美ちゃんさ……」

「うん? 」

「化けたね……」

 その言葉に奏一はハっ、と真下に言われたことを思い出した。そういえば奏美には伝えていない。

「アタシとは違うタイプだけど、あの声はずるいわ」

 スイッチが切り替わったようなあの瞬間。

「来週、奏美ちゃんが知ってる曲やるから、歌詞とコード譜用意しといて。アコギで伴奏してよ。ミディアムテンポの曲がいいわねー。何にしよっかなー」

――アコギか。あの音圧に負けないアコギ、あったかな……。

「あの声質だったら、セミアコでも行けそうだけどな。芯のところは太い音だから、ちょっと硬質な響きのほうが、綺麗に聴こえるんじゃないか? 」

「なになに、もうシスコン。ちょっと弾き語りっぽく唄おうってだけよ。レコーディングじゃないんだから」

 思わず真剣に音を組み立てようとした奏一に、紗季は呆れ顔で返した。

「あの声はずるいぃ……」

――あ、同じはなししだした。

「お前、酔ったな」

「気分良くお酒飲んだら、酔うに決まってるでしょーがー」

「マスターお水下さい。こいつ酔っ払いです」

 それにしても良いなりだった。

 ギターも形が同じでも、一本一本なりが違う。材料となる木の個性が出るからだ。

 鳴るのはボディの部分だ。ヘッドの形もボディのなりに影響するというが、なるほど、人間も同じなのだ。

 今日の紗季のレッスンを見ていて、奏一はそう考えていた。

 人間の身体ボディの個性が、そのまま声の個性となる。

 よく、のどというけれど、それは一要因に過ぎない。大切なのは全体だ。身体からだがヴォーカルという楽器なのだ。

 ということは、ギターと同じく、その鳴らし方にも様々なテクニックがあるのだろう。

 ギターをくものを「ギタリスト」と呼ぶように、ヴォーカルという楽器をかなでるものを「ヴォーカリスト」と呼ぶのか。

 奏美はよく鳴るヴォーカルだ。だが、まだヴォーカリストではない。よく鳴る楽器を持っているにすぎない。

 では、ヴォーカリストになるのだろうか。

 それは、横で寝てしまった紗季次第か。

「いや、奏美自身の問題か。でも、その助けになるのは俺たちでありたい」



 翌週、奏一が空いている時間は、全て奏美の曲選びについやした。

 音源を引っ張り出し、奏美が聴く。平日の間、とにかく聴きまくった。

 そうして、奏美が候補に挙げたのは、全て奏一が作った曲だった。

「気ぃ使わなくていいんだぞ。好きな曲を唄えばいいんだよ」

 奏一がそう言っても、奏美はまったく取り合う気がない。

「お兄ちゃんの曲が好きなの」

 鼻血もんである。妹萌えである。

 眼鏡の奥で眼をちょっとウルウルさせながら、赤い顔でこんなことを言われたら、そりゃあ萌えても仕方ない。

 因みに、目はそっぽを向いている。例え家族の顔だろうと、奏美が目を合わせることはない。

「本当はね、紗季さんの二枚目のアルバムに入ってる、あのすっごいバラード唄えるようになりたいんだけど……」

「ああ……いろんな意味でそれは止めておいたほうがいいかも……」

 微妙な顔をする奏一に、奏美もすぐに察したのか「そうだよね……」と引っ込める。

 確かにそれも奏一が作った曲なのだけれど、大人の事情があるのだ。

「それに、あの曲は超スローだし、息が続かないと思うぞ」

 ゆっくり唄うというのは、結構大変なのだ。一音一音が長いからだ。

 例えば六十BPM(Beats per Minutes:一分間当りの拍数)の四分音符の長さは、百二十BPMの単純に倍だ。

 ブレス(呼吸)で切りまくるわけにもいかないから、そのタイミングが難しい。一度のがすと、次のブレスポイントははるか先ということになる。

 紗季はミディアムテンポの曲がいいと言っていたが、奏一はそこにこだわることはないと思っている。

 例えテンポがミディアムでも、中に詰まっている音符が細かければ、ヴォーカルは早口で唄わなければならない。

 某戦闘機が宇宙空間を飛び回るアニメが良い例だ。

 繋げて使ったりするので、百三十BPMくらいで揃えてあるのだが、聴いている分には速く感じたり、ゆっくり感じたりする。

 それは言葉を詰め込むことで、疾走感を出しているからだ。速く感じても、実はミディアムテンポの曲ばかりなのだ。

 今回のポイントは、奏美が唄いやすい曲を選ぶことだ。

 腹式呼吸で唄い始めたばかりだと、発声のほうに意識が向くので、早口の曲は唄いにくいはずだ。

 ワンフレーズが短く(ブレスポイントが多くなる)、早口にならない曲。

「俺の曲じゃないんだけど、おすすめがあるんだけど? 」

 自分の曲ばかり選んでくれた妹を可愛いと思いつつも、その妹のためにえて自分以外の曲を薦める奏一。

「ええ? ここ一年はお兄ちゃんの曲しか聴いてないからなぁ……」

 まあ、ほとんどこのスタジオにいるわけだから、そうなる。

「ついでに言うと、英語の曲だよ。シンディ・ローパーのTime after timeっていう曲」

 これは先日のレッスンで奏美の声を聴いた時に、すぐ思い浮かんだ曲だった。

「英語……わかんなよ……」

「大丈夫だよ。簡単な単語ばっかりだし、歌詞を見ながら聴いてれば、すぐ覚えちゃうって」

「歌の内容がわかんないもん……」

 なるほど。そこですか。

「うんとね、



  時計の音を聴きながら横になっていると

  あなたのことを考えてしまう

  いつも堂々巡りで

  新しいことなんて何もないって取り乱す

  あの暖かい夜のことが鮮明にゆみがえ

  過ぎ去った日のこと

  思い出が詰まったスーツケース

  何度でも


  時々あなたは私を思い描く

  私はずっと遠くを歩いていて

  あなたは私を呼んでいるのに

  私には聞こえない

  それで、あなたは言うの

  「僕を置いていかないで ゆっくり歩いてよ」って

  時間が巻き戻る


 ※私を見失っても

  よく目をらしてみて

  そしたら私を見つけられる

  何度だって

  あなたが転びそうになったら

  私が支えてあげる

  何度だって


  夜が明けてきて

  私の幻想が消えたあと

  今度は窓の外眺めながら

  私は無事かって心配してる

  心の奥から盗み出された秘め事

  さあ、もう起きる時間よ


って感じ。物凄く意訳だけど」

「うわ、何この女々めめしい男……」

「そこ? 奏子用に女性バージョンで訳しただけで、そもそも原文の歌詞に性別ないからな」

「日本語になっても意味わかんないよ……」

 奏子は前髪の間から、八の字になった眉毛をのぞかせている。

「まあ、それ見ながら聴いてみ? 雰囲気は伝わってくるから」

 動画サイトでPVプロモーションビデオを見付けて、再生する。

 歌詞の受け取り方は人それぞれで、歌い手の表現の仕方によっても変わって来る。

 特に英語は日本語よりも、同じ単語の意味が広いし、スラングなんかもあるから、カオス状態になる。

 結局、どう唄いたいかに尽きる。

「と、いうことで、次はTuck & PattiっていうアーティストのTime after timeを聴いてみよう。男性のくギターで女性が唄ってるから、俺たちに近いスタイルだよ」

 ジャズカヴァーされたバージョンを流す。

「うわ、大人な感じになった……なんかイケない恋を清算したつもりなんだけど、また戻っちゃう……みたいな……」

 妹よ、何という妄想力……。

「俺はなんか、恋人とかじゃなくて、息子に対して唄ってるような、ここに帰ってくればちゃんといるよ、いつ帰ってきてもいいよって感じだけど」

「うわー、全然違うね」

 見解の相違に、奏美はケタケタと笑っている。

 紗季のレッスン以来、口数が増えているし、表情も豊かになっている。

「どう? ちょっと演ってみるか? 歌詞は唄えなくてもいいから、音だけ取ってみ。音域の確認もしたいから」

 奏一の提案に、奏美はちょっと困ったようだ。

「歌詞はもう音で覚えたけど、先生がいないところで唄ってもいいもんかなぁ? 」

「えっ! 二回聴いただけで? 」

 驚く奏一をよそに、まだ首をひねっている。

「歌詞見ながら、軽く演ってみよう。前奏イントロの後は、好きに唄っていいよ。俺の方で合わせるから」

 今度は、迷っている奏美を置いてきぼりに、奏一が前奏イントロき始めた。

「もう……」

 ちょっとふくれっ面でつぶやいた奏美が、何気ない素振りで唄い始める。


  Lying in my bed I hear……


―――― 化けたなんてもんじゃない……。

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