コーヒーに月を映して

置田良

コーヒーに月を映して


 水筒からコーヒーを注ぐ。立ち上る白い湯気が、屋上特有の強い風にさらわれて行った。

 水筒の蓋がそのままコップになるタイプだから、水筒の蓋は閉められない。ただ赤いボタンを押して、中身が零れないようにする。


 そうやって手元を整理してから、ようやく月を見上げた。月は刺すような寒さの中で、鋭利な光を辺り一面に注いでる。

 そして俺は、コップの高さを上下させ、やっとのことでコーヒーに月を映した。


 コーヒーの水面みなもに映る月は、その湯気によって姿が薄らいでいる。まるで俺の記憶の中の彼女の姿だったり、声だったりのように。


 それも当然のことだろう、最後に彼女を見たのはもう半年も前のことなのだから。


 客観的に見て、俺はおかしなことをやっているのだろうという自覚はある。

 まあ人によっては、川や池の水面に映る月を楽しんだり、少し気取った人ならお猪口に注いだ日本酒に月を映したりするのかもしれないが……。

 とはいえやはり、コーヒーでそれをする人は多くはないだろうなあ……。


「死の世界に乾杯」


 コーヒーに満たされたコップを掲げて、ふざけた乾杯の文句を告げる。ここに居ない彼女に。

 答えるように、風が吹き抜けた。

 君とよく一緒に来た屋上で、月と供に。


 口に含んだブラックのままのコーヒーは、あの日と変わらず、苦いまま。けれどその温かさは、この寒空の下で、妙に身に染みた。



     *  *  *



「お、用意がいいじゃん」

 蒸し暑い夏の夜でも、俺たちの飲み物はいつもコーヒー。俺がそれを渡すと、あずまは双眼鏡を置きながら微笑んだ。


「褒めても茶請けしかでねーぞ」

「え、菓子もあるの?」

「ほい、チョコレート」

「やるー。やっぱりコーヒーにはチョコがあうよね」


 あの日も、空に星が瞬く下の、学校の屋上で、俺たちはいつもの部室での時間と同じように下らない話をしていた。

 二人のコーヒーは当たり前のようにブラックだ。

 彼女は元からそうだったし、極度にものぐさな俺もすぐにそうなった。ミルクや砂糖を入れてかき混ぜる程度も面倒に感じたから。


「これじゃ、普段と変わらないな」

「そうだよ。ちゃんと星見ないと、最後なんだしさ」

 そう言って彼女は双眼鏡をのぞき込むが、一体何を見ようとしているのか、あっちを見たりこっちを見たりしている。


「今さらだけどさ……東はなんで天文部に入ったんだ?」

 そう問いかけると双眼鏡がこちらを向いた。こいつは「鼻がドアップ」なんて笑っていやがる。

 彼女はしばらくして、やっと答えを口にした。


「んー、運動部とかガチな部活はダルかったからかなー」

 ウチの高校には「一年の内は必ずなにかしらの部活動に所属すること」なんて面倒な決まりがある。


「そのわりにはお前、部室に来てたし。二年になってからも辞めなかったよな」

 そんな決まりのせいか、ウチの部は幽霊部員が多かった。というかそんなヤツばかりだ。けれどコイツは部室によく来ていて、二人で時を過ごすことが多かった。


「まあ、嫌いじゃなかったしね。あ、でも星座とかいうのは好きじゃないけど」

 そう。こいつは天文部のくせに星座が嫌いという不思議なことを昔から主張していた。


「ああ、なんだっけ? 東は立体がどうとか平面がどうとか言ってたんだっけ?」

「だーかーらー、要するにあれらの星は恒星なワケじゃん? で、あいつらはそれぞれウンと離れてるワケよ」

 そうだな。何十・何百光年とかざらに離れている。

 例えば、一番太陽に近い恒星であるケンタウロス座のプロキシマ・ケンタウリでさえ四光年も離れている。要は、光の速さで進んでも四年もかかる距離にそれはあるということ。

 まして、今俺たちの頭上で瞬く夏の大三角がデネブなんて千八百光年のはるか彼方だ。

 そんなことを呟くと、東は食ってかかってくる。


「そう。私が言ってるのはそれよ。デネブは千八百? 光年も離れている。でも同じ大三角のベガとアルタイルは二十光年やそこらでしょ。立体的に考えればこんなにもバラッバラな位置にあるのに、人間の目に同平面上に見えるからって、夏の大三角なんて一纏めにするのはナンセンスだ、って言ってるの」

「ベガは二十五。アルタイルは十六」

 だいぶアバウトな東の知識を訂正する。


「単位をつけなさいよ。そんなだから物理とか化学が苦手なのよ」

 うるせー、理系。文系の俺にはそんなこと関係ないのだ。


「いいんだよ。目に映るものが綺麗なら」

「綺麗、か……」

 半ばむきになって言い返すと、途端、東のヤツはそう言って黙りこんでしまった。


「なんだよ? 今の今までペラペララ~とくっちゃべってたくせに」

「いやさ……。あんたの見る世界って私のより綺麗だったり、芸術的だったりするのかなー、とか思ったら、こう、何となくね」

 コイツは妙に寂し気にそう呟いた。さて、そんなことはあるのだろうか? でも、そうだな、


「確かにそうかもな。例えば東のこともスゲエ綺麗に感じるし」

 俺はコーヒーに星を映して遊びながら言った。うーん、月はともかく星は上手いこと映らない。


「…………はい?」

「いや、告白」

「罪の?」

「いやいや、恋愛的な?」

「……まじかー」

「まじだー」

「あんたは……。はあ、何でこんな時に言うかなあ……」

「もう伝える機会がないからな。イギリスになんかに行かれちゃ」

 東は、九月からイギリスへの留学をする。ウチの学校の先輩には、そのまま向こうの大学に進学する人も少なからずいて、もしかするとコイツも向こうの大学を狙っているのかもしれなかった。


 ちょっとした沈黙のあと、ちらりと横を見ると、東はどこか清々しい横顔をしているように感じられた。


「じゃあどうする? つきあう?」と東は俺に尋ねてくる。


「やめとけよ。同じ場所で同じものを見てるのにさっきみたいになるヤツが遠距離恋愛とか出来っこねえよ」

「そ。つまりあんたの自己満につきあわされたワケね」

 不満気な響きはなく、ケラケラと笑い声が聞こえてきた。つられて笑ってしまう。

 自己満足か、まあ、結果的にはそうなるな。うん、確かにその通りだ。我ながら、ずるいな。


「あーあ。あんたみたいなヤツに惚れた私が悪いんだよね、畜生」

「へえ、俺たち両思いだったのか」

「うわぁ……、もう他人事みたいに言いやがった」

「そりゃだって……お前に、未練みたいなものを残すわけにはいかんでしょ」

「……腹立つなぁ」


 俺たちは二人、そうやって下らない最後の会話を楽しんだ。

 思えば、こんな風に軽口をたたきあう異性は初めてだったわけだ。


「……本当はさ、私のこと引き止めたかったりする?」

「まあ、好きな人が離れるのを喜ぶ人間なんていねえよなあ」

「ザ・マ・ア」

「テメェ……」

 そして東は、ふざけた様子から一転して、こちらに向き直り、首を僅かに傾けて微笑んだ。


「本当は嬉しいよ、ありがとう」

「げ。今度は何を企んでるんだ?」

「うわ、それは酷いよ」

「どーだか」

「……じゃあ、一つ、呪いを残してあげよっか?」

 東は、一つ指を立てて、そんなことを言う。やっぱり何か企んでんじゃねえか。


「呪い?」

「うん、まあいわゆる紐付けね。○○を見ると自然に□□を思い出してしまう、みたいな」

「林檎を見ると、ニュートンを思い出すみたいな?」

「む。ロマンチックさが足りない気がするけど、まあ、そんな感じかな。それで、あんたが私のことを忘れられなくしてやろうという、健気な乙女の呪いだよ」

「自分で『健気な乙女』とか言ってんじゃねーよ。……でもまあ、そっか。ま、精々強い呪いを残すんだな」

 なんとなく万有引力の法則を思い出しながらも、そう、強がってみせた。

 万有引力はたしか、その名の通りに全ての物体が引力を持っていることを示していて、その力は質量の大きい物体ほど強いのだったか。

 彼女は一体、どれだけの質量を持った呪いを残してくれるのだろうと、恐ろしくもあり楽しみでもあった。


「よし! じゃあ、あの月に向かって乾杯しよう」

「月に……乾杯……?」

「そう。月ってさ、人間が覗ける物のなかで、一番純粋な死の世界だと思うの。太陽のように完全に人間の埒外にある訳じゃなく、成分的にも地球の兄弟なのに、文明テツに覆われた人しか寄せつけない。だけど、毎夜毎夜、月は私たちの頭上に上り、否応なしに視界に入り込んでくる。ほら、呪いを繋ぐには最適じゃないかしら」

「そんじゃカンパーイ!」

 長々とした語りを終えた途端に乾杯の温度をとった。なんというか、こいつのペースに乗ったままは嫌だったんだ。


「えっ、ちょ……!」

「長い。あと芝居がかりすぎ。別にそんなことしなくて、お前のことはなかなか忘れらんねえよ」

 まだ不満げに「そんな言い方しなくても」と呟く東に、俺は「今までありがとう」と、素直な感謝を口にした。


「ん。こちらこそ、今までありがとう。どうかお元気で。それじゃ、乾杯」

「ああ、乾杯。月に?」

「そう、月に」

 コップを軽くコツンと合わせ、残ったコーヒーを飲み干す。首を反らしながら、大きくコップを傾けると、視界に入り込むお月様。


 口の中に苦味が広がる。いつもより長くに舌で転がして、月をめつけながら、コーヒーを飲みこんだ。



     *  *  *



 あの日よりも冷たい風が、頬を撫でていく。

 過去の思い出を肴に、コーヒーを飲み干した。必然、カップは底を覗かせもはや月を映すこともない。


 月を見上げる。

 少し視力が落ちてるのかもしれない。月の輪郭がぼやけて見える。

 そのぼやけが消えるまで、俺は意地でも上を向き続けた。


 冬の夜空は寂しい。

 夏の夜空は銀河系の中心方向を向いているため、たくさんの星々が天球に映り込む。天の川など、その最たるものだ。

 しかし冬は反対に、地球より銀河系の外側を回っている星しか映らない。そのくせ冬の方が空気が澄んでいて、その少ない星々を「たったこれしか居ないのだぞ」と明瞭に映し出したりするのだ。


 そのため月は、寂しげな空で、プカプカと忘れられたように浮いている――そんな風に俺には見えてしまう。


 それが妙に、あいつの姿にダブって見える。いや、こんなことを言うと怒られるだろうか? あいつは向こうでも、元気にやっているのだろうか?


 隣に彼女がいた過去、同じ気持ちにはなれないようだった。

 それぞれ一人で見上げる月、同じ過去きもちになれたら嬉しいのだが。


 イギリスと日本の時差は九時間ほど。こちらの方が先に時が流れる。

 こっちで日が上るころ、そっちじゃ月が覗くのだろう。

 月が俺たちの闇を繋ぐように駆けて行くのなら、


「どうか、健やかに」


 ちょっとした祈りが届くといいのだけど。


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コーヒーに月を映して 置田良 @wasshii

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