第10話 微笑

 ユウくんの言ったとおり、弟の手術は大した問題もなく無事に終わった。そして二週間後には、何事もなかったかのように退院することになった。


 手術後の弟は、これまで取り憑いていたものが落ちたかのようにこざっぱりしていた。数日は背中の痛みが残っていたみたいだけど、それがなくなったら途端に食欲が旺盛になって、あれを食べたいこれを食べたいと母さんを困らせていた。困るといっても、母さんだって苦笑半分、喜び半分といったところだったけれど。弟の話に、ハイハイと機嫌良く応対していた。


 娘がどうしようもない分、父さんも母さんも昔から、弟のことばかりを心から可愛がり、愛しているのだ。だから二人とも、弟の病気が分かった時には、もう目も当てられないくらいに落ちこんでいたものだった。


「わたしが病気に罹った方がよかった?」


 いつだったか、弟が入院した後に、家で母さんに訊いてみたことがある。母さんは服にアイロンを当てながら、こちらを振り返りもせずに応えた。


「別に」


 ここ半年ぐらいで唯一の、まともな会話だと思う。でも、わたしじゃなくてよかったと思う。わたしだったら治療するのも億劫だし、何かと手間がかかるし、お金を出す気にもならないし、かといって、放っておく訳にもいかない。一番面倒くさいだろう。


 手術の後三日ぐらい経って、わたしもまた父さんたちについて、弟のお見舞いに行った。その日は天気もよく、心地よい風が吹いて、施設周りの森からは鳥の朗らかな鳴き声が聞こえてくるぐらいの、のどかな休日だった。


「あれ、姉ちゃん?」


 ベッドで身体を起こした弟がずいぶん気さくに話しかけてくるので、わたしは何だか拍子抜けしてしてしまった。父さんと母さんは弟に近寄ると、何かごちゃごちゃと事務的なことを話しかけている。弟の身体の向こうには窓が開いていて、真っ白なカーテンが靡いて揺れていた。その外には、大きく枝葉を広げた樹木があった。


 包帯が厚く巻かれた弟の背中には、翼の跡すら見あたらなかった。


 わたしが病室の戸口の辺りで立ち止まって、弟と父さんと母さんの姿を眺めていると、背後から弟の担当医師が入ってきた。すると、それに気づくなり父さんと母さんは、まるで教祖様でもいらっしゃったみたいにして、泣き出さんばかりに頭をぺこぺこ下げだした。


 やがて、父さんと母さんは医師に連れられて、どこかへ出て行ってしまった。そうして病室には、弟とわたしだけが残された。


「どしたの姉ちゃん。こっち来なよ」


 少しはにかんだような笑みも浮かべながら、弟はそう言ってわたしを呼び寄せた。若干違和感を覚えつつも、わたしは弟のそばまで行った。


「……どう? 大丈夫?」

 あやふやな笑顔でそんな気の利かない質問をすると、弟はすぐに応えた。

「何とかね。ずっとベッドの上だから、身体がなまってきそうだけど。でも背中は全然平気だよ。初めから翼なんか無かったみたい」

「へぇ……」


「生活もすぐに普通に出来るようになるし、処置も上手くいったから、運動も問題ないってさ。すごいよなあ。あんだけデカいもんがくっついてたのに、手術で簡単になかったことに出来るんだから」


 弟はそうやって語り続けた。

 わたしはそんな弟に、妙な違和感を覚え続けていた。

 弟は、わたしの目をまっすぐに捉えて言う。


「とにかく、今は病気になる前よりすっきりしてる」

「ふぅん……よかったね。じゃあ、またバスケ出来るかもね」


 わたしは少しでも感じの良さそうなことを言ってみようと思って、試しにそう話しかけた。弟にとっては重要なことだろう。弟は小学校低学年の頃から、ずっとバスケに打ち込んでいたのだ。高学年ぐらいまでは、夢はプロバスケ選手だった。さすがに中学に入ってからは言わなくなったけれど、でも今でもこだわりはあるに違いない。わたしにはそういう深く興味を向ける対象が何もないから、いいな、と以前から思っていた。


 すると、弟は眼を可愛らしく真ん丸に開いて、小首を傾げた。

「バスケ? ああ、まあ、そうだね」

「え?」

「まあ……あれは遊びだからね」


 弟はさらっとそう言ってのける。

 わたしは言われたことの意味が分からず、怪訝な顔で問い返した。


「遊びって?」

「バスケは遊びだろ?」

「……それは、そうだけど」


 困惑するわたしをよそに、弟は肩をすくめた。


「いつまでもあんなこと、やってらんないじゃん」

「……」

「こうやってさ、入院して思ったんだよ、俺。普段俺ってだらだら時間過ごしてるけど、そういう自由な時間って、いつまでも続くものじゃないんだな、って。バスケとか、そういうどうでもいいことやって遊んでられるのも、限りのあることなんだよ。そう思うと、身体が治ったからって前みたいに何にも考えずに遊ぶ気にはなれなくって」

「……」


「もちろん、バスケを辞めるつもりはないよ。でも、今までほどは力を入れるつもりはないんだ。あくまで運動、友だちとの付き合いのためというか。もっと他に、今しかできないやるべきことがあると思うんだよ。そっちの方に時間と気持ちを使いたいなって、そう思うようになって……翼ってさ、生えてみると分かるんだけど、すごい重いんだよな。だから、取れるとその分すごく気持ちが楽になる。必要ない、余計なものまで翼と一緒に持ってかれたような感覚があるんだよ」


 弟は優しげな目つきで正面を見据えながら、自分の気持ちを語った。とても落ち着いた、真摯な態度に思えた。


 なのに――話を聞けば聞くほど、わたしは所在なく不安定な感覚に襲われていった。どうしてなのだろう。ものすごく違和感がある。弟の言っていることは筋が通っているし、正しいと思うのだけど、でも何か、強い違和感、もっと言えば――不快感、いや、一種の嫌悪感があった。


 弟は微笑んでいる。ふわふわと軽く、浮き上がったような雰囲気を醸し出している。根もなく、内面もなく、ただただ善良な匂いを漂わせている。


「胸の辺りに澱んでた毒素みたいなものも、全部翼が取っていったのかも知れない。姉ちゃんも、一度生やしてみたら楽になるんじゃない?……どしたの、そんな変な顔して」


「コータ。あんた、そんな性格だったっけ?」


「はぁ? 何それ。俺は前からこんなんだって。でもまあ……翼がなくなって、少しは考え方が変わったかも知れないな。とにかく、スッキリした感じなんだよ。腹の中のどろどろしたものが、みんななくなったみたいな。それっていいことだろ? とにかくこれからは、もうちょっとちゃんとした人間になろうと思うよ」


 弟が前からこんな人間だったか、正直わたしには断言することが出来ない。ここ数年は週に一、二回、用があるときだけしか話していなかったし。以前はもっと、静かで少し冷たいところのある子だった気がする。


 でも――ひょっとしたら本当に前からこういう性格で、今度の手術をきっかけに、わたしに対しても普通に接してくれるようになっただけなのかも知れない。本人が言っているように。わたしには分からない。


 けれど、こうも思う。


 たとえ病気がきっかけで生えた翼だったとしても、身体の一部であることに違いはない。大きさからすれば、腕や脚にも匹敵するぐらいの割合を占めているだろう。それなら――そんなものを取り去ってしまったら、性格や心にも影響を及ぼすんじゃないか?


 ちょうど、腕や脚を失ったときのように。


「姉ちゃん、ホントどうしたの? 深刻そうな顔して」


 弟は再び、愛らしい表情で微笑んだ。


 そのとき、わたしの背後から医者と父さん、母さんが戻ってきた。まるで、わたしがいないみたいに弟のそばへ近寄った父さんと母さんは、弟に心から晴れやかな顔で話しかけている。何を言ったかは分からないが、それを聞いて弟は頷くと、ベッドから身軽に降りてみせた。薄いカーディガンを羽織り、立ち上がると、父さん母さんと一緒に部屋から出て行く。弟は終始、にこやかに振る舞っている。


 もちろん、今のわたしの妄想は、確かめようのないことだろう。人の心なんて、伸ばし過ぎた髪を切ったって変わる程度のものなのだから。だから、わたしが心配しすぎているのかも知れない。


 でも、少なくとも弟は確実に翼と共に、何かを失ったと思う。


「姉ちゃん、先行ってるよ」


 弟の声に、わたしは振り返りもせず頷いた。そうしてみんなは、わたしを置いてどこかへ行ってしまった。窓から射し込む陽を浴びながら、わたしは弟のいなくなったベッドを眺めている。そして、ここへ入院する前、待合室で見た弟の背中の膨らみを、わたしは思い出す。撫でたくなる、なだらかで柔らかな形。


 結局、弟の翼が何色になるかは、分からないままだった。

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