第9話 天使
「……弟のとこ、行かなくていいの?」
不意に思い出したように、ユウくんはわたしに言った。我に返ったわたしは、慌ててソファから腰を上げる。すると彼は言った。
「つれてってやるよ。場所、分からないだろ?」
ユウくんも立ち上がると、また先に病室の戸口へ向かった。わたしもその後を、足をもつれさせながらついていった。
わたしたちはしばらく黙って、廊下を手術室に向かって歩いた。たまに車椅子に乗った患者さんや、疲れ切った表情の保護者らしい人たちとすれ違う。みんな暗く、どんよりとした空気をまとっていた。
そう、きっと中庭の辺りまで出てくるだけの元気がない人も大勢いて、そういう人たちは、病室のあるこの棟にずっといるのだろう。いや、むしろ彼らの方が多数なのだ。ただ、彼らは目に付かないから、気づかれていないだけだ。
ユウくんはまた、ぼそりと呟いた。
「……『天使の家』事件って、知ってる?」
わたしは彼の背に揺れる美しい翼に気を取られながら、聞き返した。
「え?」
「三十五年ぐらい前に起きた、翼人症候群についての事件。たぶん、表だっては資料とかもあんまり残ってないと思うけど。大変なことが起きたんだ。この病気のことって、どれぐらい知ってる? 調べたりした?」
「ネットとか、市立図書館に入ってる本とかは読んだけど……」
「じゃあ、ざっくりしたところは知ってるか。ある時期から患者が急増したっていう話は?」
「見た憶えがある」
「……『天使の家』っていうのは、昔全国に数カ所あった、ここみたいな翼人症候群の治療施設の名前。今ではもう、誰も呼ばなくなったけど。元々この病気の患者は、差別的な扱いを受けていたんだ。それに対して、患者とその保護者の団体が結成されて、差別撤廃運動が行われたんだよ。それが今から、四十年ぐらい前のこと。『天使の会』っていう名前で、患者同士の親睦会もやっていたらしい。
当時は海外に行かないと治療が受けられない状況で、それを何とか打開するために、彼らはいろんな手を打った。その努力は最終的に実を結び、この国にもここを初めとして、いくつかの施設が出来た。差別の眼差しは弱まり、患者は格段に暮らしやすくなった」
「へぇ……」
わたしと彼は病室棟を過ぎ、となりの棟に移る。床が理科室や手術室みたいな、緑のリノリウム張りになる。漂う匂いも少し変わってくる。鼻をつく、強い消毒薬の匂いだ。
「それで終わればよかったんだけど……その後の活動が、少しマズかったんだよな」
「マズかった?」
「活動を続けていくうち、『プロモーター』みたいなヤツらが、どこからともなく湧いて現れたんだよ。何ていうか、ビジネスマンめいた、偉そうな連中。仕事と金儲けのためならどれだけ他人を傷つけても構わない、むしろそれこそが立派だと思いこんでるような、下らないヤツら。保護者たちは、そいつらに唆された。『プロモーター』は、患者である子供たちを広告塔に仕立て上げようとしたんだ。
『今以上に子どもたちの立場をよくするためには、幅広い層へ向けて宣伝活動に打って出なければといけませんよ』とか何とか、調子のいいことをいい加減に言って。そして、患者の中でも特に見た目のいい子を選りすぐって、身形を整え、翼を美しく繕って、マスコミの前に立たせた。つまりそれによって彼らは、翼人症候群の患者は『美しいのだ』、とラベルを貼り替えようとした」
「それは、前に本で読んだ気がする。患者にとってはそれが、すごくストレスになるって」
「ストレスだけならよかったんだけど。とにかく、そうして『天使の会』は患者を人前に立たせて、より病気のイメージを善くしようとした。いくつかの週刊誌は、グラビアで特集を組んだりもした。当時は大変な騒がれようだったらしい。患者の中には、アイドルのように持ち上げられた女の子もいた。その写真の中の子たちは、どう見てもまさしく天使そのものだったからだ。
著名なカメラマンを担ぎ上げ、写真集まで発売された。それはやっぱり盛大に売れた。患者を題材にして、アイドルが主演した映画も作られた。下らない作品だったけど、これもまたヒットした。結果として、『天使の会』には莫大な額の寄付金が集まった」
わたしは想像する。思春期独特のどこを見つめるでもない眼差しをカメラに向けて、静かに佇む翼を生やした女の子の姿。奇跡のような一枚。
誰もが思わず、心を揺さぶられる。
「まあその結果、いっそう差別的な眼がなくなったのも事実なんだ。保護政策も振興されて、ますます患者にとっては暮らしやすい世の中になった。一人一人の患者が、それまでとは比較にならないほど手厚い処置を受けられるようになった。代償として、いつどこへ行っても汚れのない、純真な存在として生きなければならなくなったけど」
ユウくんは独特の皮肉っぽい調子で話す。
わたしたちは、手術棟の薄暗い三階にたどり着いた。廊下の突き当たりには、弟のいる手術室があった。
「でも、問題はそれだけじゃなかった。それが……患者の急増だった」
ユウくんはそう言うと、手術室からかなり離れたところで、脚を止めた。向こうの方には、父さんと母さんの姿が小さく見えた。「手術中」のランプが光る扉の前で、気を揉みながら待っている様子だった。
わたしもそこで立ち止まると、小声で尋ねた。
「増えたって、どういうことなの?」
「『天使の会』の活動、マスコミでの大々的な報道の後で、明らかに翼人症候群の患者の数が増えたんだよ。それも飛躍的に。原因は、未だによく分かっていない。そもそもこの病気自体の要因も、明確にはなっていないんだけど。そこいら中の学校から、一斉に翼人症候群の患者が現れだしたんだ。そしてその誰もが、確かな症状を持った、本物の患者だった。誰もが激しく苦しみ、場合によっては、以前からの患者よりも深刻な症状を持つ子だっていたらしい。ここら辺からこの病気を、単純に遺伝性のものとしていた古い議論に疑問が上がりだしたそうなんだけど……まあ、それはいいか。
『会』も施設も、これには慌てた。欧米での研究による人口あたりの発生件数とは、露骨に掛け離れた数の子供たちが、突発的に背中に翼を生やし始めたんだから。知っての通り、この病気は手術にも治療にもそれなりに金と時間がかかる。たちまち、『会』が作り上げた手厚い患者保護の仕組みはパンクし出した。
でもだからといって、これまでやって来たことをいきなり否定するわけにはいかない。なんとかこれまでと同じように運営していこうとして、『会』の組織はますます肥大化していった。大体、初期メンバーの一部はまだ患者でもあるわけだから。手厚くなった保護を、今さらなかったことになんか出来るわけがない。
患者のための施設はさらに各地に作られ、寄付金もそれまでの額では足りなくなって、財界にも援助を求め出す。初めのうちは、世間もそういう要求に応じていたけれど、次第に飽き始めた。その頃にはもう、ブームは去っていたんだ。写真集は売れなくなり、雑誌や新聞も特集を組まなくなっていった。そりゃそうだよな。話題としては、それほどポテンシャルの高いものじゃないから。一通りの扱いが終わったら、もう話のネタにはならない。こうして熱が冷めるにつれて、『会』は活動に余裕がなくなり、いっそう貧しくなっていく。患者の中でも金持ちとそうでない人との間で、格差が広がり出す。これは、今でもそうだけど……
各地に作られた施設は次々に破綻を来していった。手術のスケジュールは延期、延期を重ね、そして延期すればするほど翼が育っていくから、余計に状況は悪化する。患者たちの姿を美しく保っておく余裕なんか、もうとっくに失われていた。そんな理由もあって、今さら施設以外の場所へ患者を移すことなんて出来ない。狭い施設の中に翼を縮めて押し込められた患者たちは、以前よりもずっと居場所を奪われて、悲惨な扱いを受け、どうすることも出来なくなっていった」
「それで、最後にはどうなったの?」
「死んだ」
「え?」
わたしは思わず聞き返した。
ユウくんは、この上なく無表情に佇んでいる。
「みんな、飛び立ったんだ。ほぼ同時期、二週間ほどの間に、連鎖的に。大体同じ頃に発症したんだから、そうなるのが当然だよな。施設自体が運営能力を失っていて、手術不能になった結果、症状の最終段階が近づいていても、患者を拘束することは出来なくなっていた。
放置された患者たちは、自分を抑えることも出来ず、ある段階に入ると行く先も見極めずに走り出して、高い所へ駆け上り、そして翼を広げて、飛び立った。そんな姿を見ると、感染したかのように、他の患者たちも駆け出した。こうしておよそ二週間のうちに、全国で二千人近い少年少女が、ビルや崖から落ちて命を失った。
結果、『会』の関係者は管理責任を問われて逮捕され、同時に莫大な損害賠償請求によって、『天使の会』は解散に追い込まれた。施設も次々と閉鎖され、残された数少ない患者たちは、白い目で見られながら、退去を余儀なくされる。唯一国からの援助を受けて、必要最小限の場として残されたのがここだ。ここが最後の『天使の家』。
こうして、『天使の会』の活動は、曖昧な患者の理想像と、患者団体の悪辣で危険な印象と、そしてこの、小さな施設を残した。一番何もやっていないのに一番深刻な影響を受けたのは、患者たちだった」
これが、「天使の家」事件、とユウくんは話を終えた。
わたしは顔を顰めると、彼に向かって言う。
「……どうしてそんな話をするの?」
「別に。ただの話題。昔話。大した意味はない。外部ではこの話はタブー視されて、ほとんど伝わってないはずだから、教えてあげただけだ。ここの中には資料も残ってるし、みんなも一通りの話は知ってる。何か読みたかったら、さっきの図書室に行けばいい。でも、知っておいて悪いことはないと思うよ」
それに、マコトのことを考える上では、この事件のことも必要だと思って、と彼は肩をすくめると、わたしと目を合わせる。
「……知りたくなかった?」
「そんなことはないけど。でも、知らなくてもよかったことだと思う」
「そうかな」
ユウくんは首を傾げた。
一方、わたしは珍しく、不快な気持ちになっていた。知ったところでわたしにはどうすることも出来ないし、頭に残ったものはといえば、続々と空に飛び立っては死んでいく翼を持った子たちの、ぼんやりとしたイメージぐらいだった。けれどユウくんは、わたしがそんな気分になっているなんてまるで知ったことじゃないらしく、平然と立ちつくしている。一体どういうつもりで彼はこんな話をしたのだろう、と思った。
それからユウくんは、奥の手術室をちらりと見ると、手術は十時間ぐらい掛かるから、お父さんお母さんのそばにいてあげた方がいいよ、とすごくクールに言って、そしてまたちょっとだけ、翼を動かしてみせた。
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