第8話 事故

 何もせず本を読み、だらだら過ごしているうちに数日が過ぎていき、弟の手術の日になった。父さんと母さんは心配なので立ち会いに行くと言い、自然とわたしも、付いていくことになる。


 施設に着いて、父さんと母さんは担当医に案内され、わたしを置いてさっさと弟の病室へ行ってしまった。残されたわたしは、一人施設の中をさまよい歩いていた。今日は薄曇りで、窓からはあまり陽も射していない。すると、廊下の途中に「図書室」と札の下がった部屋を見つけた。わたしはそこに入る。


 本棚の合間をあちらこちら覗き込みながら、ちょっと埃っぽい図書室を見てまわった。普通の図書館よりも、棚と棚との間がずいぶん広く開けられていた。翼がぶつからないようにするためだろう。並んでいるのは、古い文学書ばかりだった。背表紙の文字を確かめつつ歩いていくと、その突き当たりには、読書用の席が設けられていた。白っぽいソファがいくつか置いてある。


 そこに、ユウくんが座っていた。


「……何してんの」

 相変わらずの呆れ顔で、彼はこちらを見ていた。わたしは肩をすくめた。

「弟が、今日手術だから」

「それは知ってる。じゃなくて、君がここで今何してるの、って訊いてんの。弟に付き添わなくていいの?」

「もうちょっとしたら行くつもり」


 わたしは小声で応えた。彼の持っている薄い文庫本を見ると、表紙には『シェイクスピア・ソネット集』と書いてあった。どんな内容なのか、想像もつかない。彼はかすかに翼を動かすと、左手で隣の席を勧めた。


「座れば」


 言われたとおり、わたしは腰を下ろす。背もたれのないソファなので、少し座りにくかった。時折、視線の隅に、大きな翼を生やした男の子や女の子たちが通り過ぎていった。図書室はとても静かだった。


「……あの後、コータとは色々話したよ。よく聞き入れてくれた。落ち着いた、いい子だった」

「ありがとう」

「でもあいつ、何で君の話聞いてくれないの?」

「さあ……」


 わたしは俯いたまま、そう呟いた。いつの頃からこうなったのかも、よく憶えていない。けれどたぶん、わたしが悪いのだろう。

 話が続かず、沈黙が広がる。


「……ああそうだ。マコトのことって、外で報道とかされてたか?」

「マコト?」


 唐突に彼にそう言われて誰のことか思い出せず、わたしは首を傾げる。彼は苦い顔で続けた。


「マコトだよ。屋上から飛び立って死んだ。ニュースで流れたりしたか?」

「あ……うん。結構何回か見かけたし、ネットのニュースにも出てたけど、割とすぐに聞かなくなったかな」

「死亡理由は何だって言ってた?」

「理由? 普通に、事故って……」


 そう応えると、ユウくんはやっぱりそうか、とだけ呟いて、また俯いた。わたしは首を傾げる。


 マコトくんの事件は、民放の夕方のニュース番組でも数回取り上げられていた。けれど、扱いはごくあっさりしたものだった。色々事情もあって、大々的には報道しづらいのかも知れない。彼の名前はもちろん出ず、ここの近辺の風景が雰囲気程度に映されて、管理責任を巡り、院長を何とかかんとか、と言っておしまいだ。一通りの話が終わると、すぐに次のニュースへ移っていった。マコトくんと彼の友人たちの間に起きた大事件は、そんな手続きを経てたちまち無数にあるその日のニュースの群の中の一つと化して、みんなに忘れ去られていったようだった。


「どうかした? 事故じゃないの?」


 わたしが訊くと、彼はちらりと周囲を見廻した。そして、ソファから腰を上げて言った。


「じゃあ……歩きながら話そうか」


 そのまま彼は本棚の方へ真っ直ぐに向かうと、シェイクスピアの本を戻して、あっさり図書室から出て行こうとした。わたしは慌てて、その後を追った。


 患者の行き交う廊下を黙って歩く彼は、まるで翼をそびやかしているかのように見えた。当然、そんなつもりは彼にはないのだろう。背中にあんな大きなものが付いていれば、重さの関係で胸を張らざるを得ない。

 けれど、あまりに大きなその翼は彼の身体を必要以上に大きく見せていて、それが却って、彼の負担になっているようにも感じられた。


「……大体、そんな事故ってあり得るか、と思って」

「え?」


 前置きもなく彼が話し出したので、わたしは聞き返した。

 わたしたちは一階の廊下を抜け、階段を上り、長期療養の患者の病室がある棟へと、足を踏み入れていた。白いまっさらなドアが、いくつもいくつも並んでいる。次第に看護師と多くすれ違うようになってくる。

 無表情のまま、ユウくんは呟く。


「最終段階に近付いた患者って、窓が一つもない専用の病棟に押し込められて、そこで症状が寛解期に達するのを待つだけなんだ。室内で拘束されて、ドアには鍵を掛けられて……後は万一外へ出ても飛び立ったりしないよう、病棟の出入り口にも鍵を掛ければ、閉じこめるのは簡単なはずだろ? 大体この施設は何十年も翼人症候群の患者を診てきているんだから、ひょいひょい取り逃がしたりしてたら、とっくに問題になってるはずなんだよ」


 小さめの声で話しながら、ユウくんは手近なドアを開いて、中へ入っていった。わたしも恐る恐る後に続く。


 そして部屋の中を覗き込み、わたしはすっかり驚いてしまった。病室はまるで、どこかのホテルの一室のような、小綺麗な造りになっているのだ。本棚や大型のディスプレイ、応接用のちょっとしたソファまで置いてある。もちろん個室だった。


「そこ、座って」


 彼に言われるまま、わたしはそのソファに腰を下ろした。彼も真向かいに座る。そして、顎に手を当てると、むっつりした表情で考え始めた。わたしは黙って、彼の言葉を待つ。


「……なのに、マコトの件については扱いが簡単すぎる気がするんだよ。普通だったら、想定外の事態だってもっと大騒ぎして、警備を厳重にしたり、システムを整備したりするもんじゃないのか? いや、そこまでする気がなかったとしても、せめてポーズとしてそれぐらいやらないと、色々世間的にマズいと思うんだ」


「ユウくんは、マコトくんと仲良かったの?」

 わたしは何となく、そう尋ねた。彼は顔を上げる。

「話さなかったっけ? 俺とアイツは、ちょうど同じ時期にここへ入院したんだよ。手術の患者は年に何人も入ってくるけど、長期療法はあんまりいないから。同時期に入院するってすごく珍しくて、だから仲良くなったんだ。ここへ来て四年ぐらいの間、ずっと一緒に過ごした」

「そう……」


 わたしはそう言ったきり、何も慰めの言葉もかけなかった。こういう時、気の利いたことを言うのがとても苦手なのだ。


「……どんな人だったの?」

「マコト? うん……俺よりはずっと、溌剌(はつらつ)とした感じだった。まっとうというか、ちゃんとしてるというか。要するに、いいヤツだったよ。ここでも友だちが多かったし。だから俺以外のヤツには、アイツが死んで落ちこんでるヤツが、まだ大勢いる」


「ユウくんは落ちこまなかったの?」

「……よく、分からない。落ちこんでるのかも知れない。自分でも、自分の気持ちがはっきりしない。アイツが死んだってことが、未だにピンと来てないんだ」


 ユウくんは、そんな自分の感情が罪であるかのように呟いた。でも、実際そういうものだと思う。映画やドラマじゃないんだから、身近な人が亡くなったからといって、すぐに泣き叫んで嘆くことが出来る人なんて、そうはいない。


 現実には、誰かが死んだ後も何となく日常が過ぎていって、そしてふとした瞬間、その誰かがいないことに気づいたらやっと初めて、虚しさに襲われるぐらいのものだ。わたしが唯一親戚筋で仲のよかった父方のおじいちゃんが亡くなったときも、そうだった。葬式で悲しんでいる素振りすら見せられなかったので、わたしは周りから、変な目で見られたものだった。


 わたしは話を戻そうと、こう尋ねた。

「事故じゃないとしたら、何なの?」

「……分からない。二通り考えられると思う。誰かが病室の扉を開け放して、アイツを意図的に外へ出したか、それか、アイツ自身が何らかの方法を使って自分の意思で扉を開けて出ていったか。単純な事故だ、っていうのが、納得できないだけ」


「自殺か……他殺?」

「他殺というか、事故を誘発した人間がいる、というか」

「そんなドラマみたいなことって、現実にあるの?」

「……なくは、ないよ」


 ユウくんは意味深に言った。


「何にしろ、少しぐらいはそういう可能性を疑ってもいいはずだろ? なのに、警察はあの日の後ろくに捜査に来る様子もないんだ。だから違和感があるっていう、ただそれだけの話だよ。疑ったって確かめようがないことなんだけど。でもこんなこと、ここで他の誰かに話したら変な目で見られるだけだから」


 そう言ってユウくんは、口を噤んだ。

 わたしはそんな彼の顔を、ぼんやりと見つめる。彼は眼を細めて、どこかここじゃない遠くの方へ視線を向けていて、時折その長い睫毛が、小さく震えていた。

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