第7話 会話
『……翼人症候群は、長らく世界各地で差別的な扱いを受けてきた。これは無論第一に、外見上の理由が大きい。
現代の患者のように栄養状態がよくない時代の人々は、うまく翼が育たず、形が歪んでしまいがちであったため、怪物と見なされることが非常に多かった。宗教によっては、問答無用で殺害され、あるいは地下牢に幽閉されることもあった。加えて、翼は毛穴から脂質が噴き出しやすいため、かなり清潔に扱わなければ、汚れて臭気を発してしまう。こうした事情から、患者たちは世界中どこであっても、よい処遇は望めなかった。
ようやく彼らが人間的な扱いをされるようになったのは、十九世紀半ばのヨーロッパにおいてである。その頃には、患者を単に自由に解放すればよい、という短絡的な考えが主流であった。それゆえ、多くの患者たちが無思慮に解き放たれた挙げ句、「飛び立ち」、そして命を落とす羽目になったと伝えられる。しかし少なくとも、人間らしく生きることが可能となった。欧米ではその後、実効性の高い手術法や治療法が確立され、法律面でも擁護され、今では差別もほぼ、なくなりつつある』
わたしはそこまで読んで本を置くと、顔を上げて喫茶店の壁を見た。視線の先には不機嫌そうな若者の写っている、古い映画のポスターが貼られていた。きっと、何かが不満で仕方なかったのだろう。
図書館から借りてきた、翼人症候群についての一昔前の本を読んでいて、気づいたらもう一時間近くが経っている。普段ベストセラー小説ぐらいしか読まないわたしにしては、ずいぶん集中力が続いていた。もちろん内容も面白かった。専門のお医者さんが翼人症候群の歴史について丹念に追っている本で、治療法も丁寧に書かれていた。おかげで、ずいぶん安心できた。どうやら弟は、無事に退院できそうだった。
またページを捲る。
『しかしながら、差別がなくなった今、患者に対する「期待」が、新たな問題となりつつある。年若い少年少女が翼を生やした姿に、人びとは過度な願望、夢を投影するようになったのだ。彼らに向けられる視線の全ては、彼らが「善き者」、美しく、儚く、優しい、善の体現者であることを望むようになった。
先程も述べたように、翼人症候群は必ずしも美しい容姿を産み出す病ではない。元々身体の形成異常なのだから、鳥のようにしなやかな形になるとは限らず、むしろ醜くなる可能性も高い。翼だけでなく、身体の他の部分にも影響を及ぼす場合がままある。施設においても、出歩いている患者はごく一部である。自分の姿を人前に晒さないため、病室から一歩も出ない子も大勢いる。
また、この病気を罹患するのは思春期の少年少女たちである。そもそも彼らがただ美しいだけの存在であるはずがなく、内面的にも外面的にも不安定というのが常である。そんな子たちに、美しくあること、善であることを一方的に期待すること自体、当然無理があろう。しかもこの年頃の子たちは、ただ期待されるだけでも、耐えられないほどの苦痛を感じるのだ。その上にこの、元々厄介な病が重なる。精神状態は少なからず症状に影響を与えるため、何もしていなくとも激しいストレスを感じて症状が悪化した子が、世界的に大勢現れるようになった。
そして、もう一つの深刻な問題として、近年の患者の急増がある』
「……ねー、ユカじゃない?」
いきなり本の向こうから甲高い声で話しかけられて、わたしは慌てて顔を上げた。目の前には、憶えのない女の子の顔があった。
「あ、やっぱユカだー。やっほー、ひさしぶりー」
その子はいやに親しげに喋りながら、わたしの向かいの席に勝手に腰を下ろした。そしてテーブルに肘をつき、ニコニコ真っ直ぐわたしを眺めている。
「二年ぶりくらいかなー。最近何してるー?」
「……」
わたしは何も応えられなかった。顔も声も、全く記憶にない。
すると彼女は苦笑して言った。
「え、なにー、あたし忘れちゃった? ひどくない? 中学んとき、ちょーいっしょに遊んだじゃん。■■■だよ」
彼女はさらりと名乗ったけれど、困惑していたわたしはうっかり聞き損ねてしまった。そんなわたしには何も気づかない様子で、彼女は勝手に話を続ける。
「あ、そーだ。うちとリッちゃん、いっしょに×高行ったじゃん? ××高校。したらさー、リッちゃん速攻でカレシ作って。リッちゃんはカッコイイって言うんだけどさ、どー見てもオタクなの! メガネとか髪型とかキモいし、ちょーウケんだけど」
当たり前のように彼女は口早に話している。でも、わたしは「リッちゃん」が誰なのかすら思い出せない。そんなものなのだ。中学の女子なんて何だかよく分からないけれどやたらたむろって一緒に行動しているもので、返事も会話もその場の流れだけで何となく済ませてしまう。そこに誰がいて誰と話したかなんて、何も憶えていない。
「あ、でも、ふっきーは今マジガリッてるって。ガリ勉。△高って進学校じゃん? だから勉強して、資格取ったり就職の準備すんだって。もちろん大学も行くんだけど。マジありえなくない? 引くよねー。あたし遊んでばっか。カラオケ行きすぎて、ちょーノド荒れてる。ねー、ユカっち何してんの? 何、コレ、本? むずそー。最近何してる?」
そんな風に、正面で矢継ぎ早に話す彼女の顔は、どこまでも裏表がなさそうだった。悪意も曇りも何もない目つきで、わたしを見ている。でもそれが、わたしにはどうしようもなく恐ろしかった。何を考えているのか、何を言いたいのか、向き合っていてもまるで分からない。こんな答えようもないことを訊いて、どうしたいのかも分からない。
最近何してる、と尋ねられても、一体何をしていたのか自分でも全く思い出せなかった。ぼうっとしていた、という記憶すら、ほとんどない。気づいたら無意味に時間が過ぎていて、わたしはその流れの真ん中に一人で立ちつくしていた。
高校に行かなくなってから、一年以上が経つ。退学になっているのかどうかもはっきりしない。親も、何も言わない。わたしは放り出されている。そんな中でふらふらして、たまに弟の心配をしてみる。
「弟が……入院して」
思いついて、わたしはぽつりとそう答えた。すると彼女は、過剰なまでに反応してくれた。
「えー! マジで! それヤバくない? きっついよねー。うちもさー、前にお母さんが入院してさー、そんとき大変だったもん。あのね、本とか持ってってあげた方がいーよ。ちょーヒマなんだって。雑誌とかさ」
そんな調子で、彼女は間髪入れず話し続けた。わたしは黙って、彼女の言葉を聞き続けた。
そうして彼女の言葉の渦に呑まれていると、次第に自分が逃げ出した中学、高校の頃のあのやたらにぎやかなばかりのべったりとした人間関係が思い出されて、またそのクモの巣のような力に絡め取られそうになった。
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