第8話 静かな時間
日が明けてからも、雨は収まる様子を見せなかった。村の道には泥水の流れが出来、倉庫が一つ崩れ、蓄えが失われた。村の男たちが倉庫に集まって何とか修繕し、穀物やら肉やらを回収しようとしていたが、たぶん無駄だろう。この雨の中だ。何をしたところで、直した先から他のところが壊れていく。私たち女はそんな光景を、家の窓から眺めているより他なかった。眺めている限り、イリイロが仕事を手伝っている様子はなかった。私は窓を閉めた。
黙って、私は叔父さんの元へ出かける支度をする。母さんに話したらこの雨の中だと反対されるだろうから、あえて気づかれないよう注意する。出来れば、黙ったまま出ていきたい。
別に今日行かなくてもいいといえばいいのだろう。明日でも明後日でも、婚姻の儀に間に合えば冠などいつだってよい。けれど、もはや半ば意地だった。さっさと婚姻の儀の支度を済ませ、死を待つ心地で当日まで粛々と過ごし、そしてその日になったら不平一つ言わず、あいつと
イリイロは引き裂いてやりたいほど嫌いだが、イリイロの家族は悪い人たちではないし、苦しめたくはないのだ。そう。そこが上手くできている。ある一人がろくでなしでも、その周りの人間は大体、善人なのだ。なぜなら全員がろくでなしだったら、世の物事が先へ進んでいかないから。人の集まりが破綻していないなら、そこには真っ当な人間が含まれている。
そして周りの人間は、その中央にあぐらを掻いているろくでなしと、それなりの関わり合いがある。好き嫌いには関わりなく、繋がりがある。一言で言えば、「縁」というやつだ。だから、仮に邪魔だとしても、ろくでなし一人を処分すると、全員に何らかの迷惑が掛かってしまう。
たとえイリイロのような人間であろうと、消え去れば「縁」に影響を与え、歪みをもたらすかも知れない。そしてだから、人間はそう簡単に殺されたりしないのだ。どんな人間だろうと誰かと関わり合っている限り、人と人との繋がり合いの一部を担う。担っている以上、そう簡単に消し去られたりはしない。
言い訳を並べたけれど――だから、イリイロを殺そうという気にはなれない。結局、なれなかったのだ。それが叔父さんに対する答えだ。私には無理だ。自分一人の不幸を避けるために、人一人を殺し、大勢の人に迷惑をかける気にはなれない。だったら私が、ちょっとした不幸を毎日背負い続けて生きている方が、ましな気がする。それは、私の弱さなのかも知れない。叔父さんなら、きっとこう言うだろう。
「そんな決断をしたところで、周囲の人は誰も喜ばない。お前一人が責任を負った気になって満足しているだけだ。無意味だ。それなら、周囲の人間を少々不幸にしても、お前一人が自由な人生という完全な幸福を手に入れた方がいい。その方が価値がある」
それはたぶん、その通りなのだろう。
でも私には、そんな決断が出来ない。
ごうごうと降り募る雨の中、私は誰にも気づかれないまま家を出た。雨除けに頭上に載せた木の板に大粒の雨が当たり、バラバラと大きな音を立てている。村の周辺では普段あまり雨は降らない。川は遠いし、水は井戸から汲み上げている。だから大雨というのは、いつもならそう悪い気はしない。こんな時でなければ、一日中眺めていてもいいくらいだ。
雨の中を、黙々と私は進む。
雨にまつわる神話もあったろうか。当然、あるはずだ。婆さまからも母さんからも、聞いていると思う。けれど、不思議と思い出せなかった。どうしてだろう。いつもこんな自然の変化を見ると、まずは神話や昔話を思い出すのに。頭の中は真っ白だった。雨音や雨から来る寒気に、身体が支配されているのかも知れない。私は濡れた髪が顔に貼り付くのを嫌って、自然と下を向いて歩く。地面には、幾筋も水が流れていた。途中で枝を作って網目のように分かれながらも、最後には再び一つの大きな流れに集まっていった。
叔父さんの家までの道筋には、動物すらも一匹たりとも見あたらなかった。どうどうと激しい音を立て降り続ける雨のせいで、まるでここが私の知らない、一度も来たことのない場所であるかのように思えてきた。何も聞こえない。少し先は煙って見えない。自分の手の届く範囲のことしか分からない。そんな場所を、私は頭に気休め程度の板を載せて歩いている。
ようやく、叔父さんの棲まう小屋に着いた。
様子がおかしかった。顔を上げ、私は訝しんだ。これだけの雨で辺りが暗くなっているというのに、窓から見える小屋の中もまた、真っ暗なままだった。たくさんいた火は、どうしてしまったのだろう。私は板を投げ捨て、小屋へ近寄る。
焦げ臭い匂いがした。
小屋の中へ入ると、時折部屋の隅で、小さくなった炎がちりちりと揺れているのに気づいた。けれど、何もしてこなかった。雨に濡れたからというよりは、何か他に理由があって身を縮めているようだった。かと思うと突然、ぼっ、と微かに音を立てて大きくなり、自分がいることを示している。こんな姿の炎を見るのは、久しぶりだった。私は暗い表情で、小屋の奥へと踏み込んでいった。
ごく僅かな灯りしかない小屋の奥には、以前来たときに腰掛けた椅子と机が、変わりない様子で並んでいた。
その机にもたれ掛かって、叔父さんが死んでいた。
奇妙な死に様だった。薄暗い中で見える叔父さんの口元は、焼け爛れていた。それだけではない。喉も、胸の一部も、腹も、酷い火傷を負っていた。だがそれは、炎が皮膚にくっついたからではないようだった。それなら身体の表面が焦げているはずだろう。そういう様子はなかった。
皮膚は一カ所も焼けておらず、しかし身体の各所が黒ずみ、裂けていた。私は神話の炎の誕生の物語を思い出した。大地がひび割れ、炎が噴き出し、生きている炎は生まれた。そんな具合に、叔父さんの身体は内側から破れていた。中には大きな穴の空いているところもあった。穴からは、叔父さんの肋骨が見えた。私はそんな叔父さんの遺体を、無感情に眺めていた。
恐らく叔父さんは、炎を口から大量に呑み込んだのだろう。
私は目をそらす。机の上には、頼んでいたとおりの、いや、それ以上の綺麗な冠が据えてあった。目を見張る緻密な彫刻が施され、とても一本の木から彫り出されたとは思えない、見事な出来映えだった。じっと見ていると、あまりに立派すぎてふざけているかとも思える。これではまるで、どこかの王国のお姫様の被る品のようだった。
私はそれを手に取った。思ったより、ずっと軽かった。
私は無性に、寂しい気持ちになった。
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