第5話 名前
村は、広大な山脈に囲まれた平原のちょうど中央に位置している。北へ向かえば暗い森があり、南には澄んだ川が流れている。東と西が狩り場だ。普通に生活していれば、森に行く用などないが、今日は仕方なかった。叔父さんは、森と平原の端境に住んでいるのである。
すっかり日が昇りきった頃、私はようやく、叔父さんの家に到着した。家の中に向かい、私は声を荒げる。
「オンディラ叔父! 姪のオブラだ! いるか!」
返事はない。とはいえ、中にいても叔父さんは気が向かなければ応答しないので、気にせず私は、その粗末な小屋の中へと入っていった。
木々の生い茂る土地のそばに、見るからに一人で造ったと分かる雑然としたなりの小屋は建っていた。屋根も適当な草葉を積み上げてあるだけだから、強い風が吹いたら飛んでいきそうだった。でも、あのオンディラ叔父さんのことだから、何か裏には上手い策が使ってあるのかも知れない。小屋の壁面には、何かの呪術のためか、見たこともない奇妙な記号がたくさん顔料で書いてあった。
小屋の中は外よりもさらに不可解だった。岩を削りだして作ったのだろう浅い皿が、床や机の上に無数に並べられているのだ。壁際には棚が作ってあり、そこにも皿が並んでいる。そのそれぞれには外の壁に書いてあったのと同じ、妙な記号が書かれていた。私は首を傾げ、しばらくそれらの皿をしげしげと眺めていた。
「……だぁれぇだ!?」
背後から急に声を掛けられたので、驚いた私は飛び上がって振り向いた。
そこには、明朗に笑っているオンディラ叔父さんがいた。相変わらず痩せているけれど、表情を見る限り元気そうだった。
汚れた獣革の服を着た叔父さんは、肩に大きな鹿の死骸を掛けていた。そして、身の回りには、五つもの生きている炎を連れていた。いや、それだけではない。叔父さんの背後を見てみれば、まだ家の中に入ってきていない炎が一目で数え切れないぐらいたくさんいて、ふらふらと遊び回っていた。私は目を見張り、少しの間、身を硬くしていた。まるで悪魔の手先のようだった。
いひひひひ、と愉快そうに笑う叔父さんは、話し始めた。
「オブラ一人でこんなところまで来させられたか。難儀なことだ。会ったところでどうにもならないのに。人間は顔を合わせたがる。要は気休めなんだ。ふふ。オブラ。くつろいだらいい。ところで、もう幾つになったんだ? 俺は自分が幾つか、もう分からんが。お前はどうだ?」
相変わらず、叔父さんの話は聞いているうちにどんどん脈絡なく飛んでいって、趣旨が分からなくなる。叔父さんとしては混乱しているつもりはないらしく、例えば家事とか道案内のような実際的な話題になると、一貫して落ち着いた語り口になるのだ。
でも、普段の会話や、叔父さんが面白いと思っている何かについて語り出すと、途端に普通の人間は話題について行けなくなる。こういうところも、村の大人たちは気にくわなかったそうだ。けれど、私はそれほど嫌いじゃない。
「座りなさい。椅子がある」
叔父さんがそう言うので、私は手近な一脚を引き寄せて、腰を据えた。
叔父さんは狩りからの帰りらしく、手持ちの袋から何やらざらざらと自作の道具を取り出して、一つずつ丁寧に棚へ片付けていた。見たこともない不思議な道具ばかりだった。
同時に、驚いたことに炎たちも、おのおの転がったり飛び跳ねたりしながら、先程の石の皿の上へと自ら登っていった。私は目を見張る。叔父さんに何を言われたわけでもないのに、しまいにはあちらこちらに並んでいる皿の中で、小さな炎がそれぞれ揺れていた。
とうとう叔父さんは、炎を自在に操れるようになったのだろうか。私は炎の群を指さして言った。
「オンディラ叔父、これは」
「炎は炎だけで動いているのではないということだ。オブラ」
しかし、叔父さんはこちらの話を最後まで聞かずに話し出す。
「オブラには今、炎しか見えんだろう? でもな、炎は炎だけではないのだよ。炎には、向かう先がある。流れがある。俺は要は、それを知っているに過ぎん。行く先を知っていれば操るのが容易なのは、人間と同じだ。そう思うだろう?」
言って叔父さんは、くくくと笑っている。沈黙する私を気にせず、叔父さんは話を続けた。
「ほとんどの者は、目の前にあるものしか見えん。しかし目の前にあるものは、いつももっと大きな何かを見ているのさ。自分の愚かしさを知らない人間は、自分は全てを見ていると誤解している」
懸命に考えたけれど、今日も私には理解できそうになかった。いや、叔父さんの話は基本的に訳が分からない。けれど聞いていると、どことなく納得できる気がするから不思議だった。
「まあそのうちオブラにも教えてやるよ。オブラならすぐ、炎を使えるようになる……そうだ、炎の名前の話はしたか?」
「名前?」
いきなり叔父さんが目を輝かせるので、私は肩をすくめるしかなかった。もう止められそうにない。それに炎の名前なんて、神話にも出てきた憶えがなかった。私は問う。
「何だ、それは?」
「炎には名前がある。それを呼べば炎は応え、動いてくれる。考えてみれば当たり前だろう? 我々には名前がある。それなら、炎に名前があってもおかしくない」
「まあ……」
「エルシュ」
不意に叔父さんは、そんな言葉を吐いた。
すると――近くにあった皿の上の炎が揺れ、僅かに大きく燃え盛った。
私は目を見張った。
「……今のは、炎が返事をしたの?」
「さあ。話は通じんからそんなことは分からん。もしかするとこの言葉が、炎に力をもたらす呪文なのかも知れん。でもな、同じことじゃないか? 俺ら人間の名前も、働きは呪文と等しい。オブラもオンディラも、我々を生かしている呪文だ。名前はただそういうものだ。だろう?」
繰り返し頷きながら、叔父さんは満足げに笑んだ。これは、割合に理解できる気がした。名前は深い意味を込め、幸福な生を送れるようにするものだ。オブラという私の名も、確か古い言葉で何か意味があるらしい。実は婆さまだけがそれを知っているけれど、まだその意味は教えてくれなかった。婆さまは、死ぬ間際に教えてやろう、と笑っている。もう充分死ぬ間際だと思うのだが、どうやら当分、話すつもりはないようだった。
「で。誰か死んだか?」
「え?」
正面に腰掛けるなり、おもむろに叔父さんがそんなことを言ったので私は目を
「いや、違う。何でそんな……」
「ここへわざわざ来るということは、葬式なり成人の儀なり、そういう用事があるのだろう。嫌でもこのオンディラにやらせにゃならん仕事が。差し金は姉さんか? 婆さまか?」
「だから違う。その……大したことではないが、私の、花嫁冠造りを手伝ってもらわなけりゃならなくなって……」
少し恥ずかしがりながら、私は事の次第を説明した。叔父さんは私の話を、こくこくと頷きながら聞いていた。
「ふうん。そうか、もうオブラは嫁に行く歳か。面倒だろうな。しかし、伝統とは誰でも生きられるように作られた嘘のことだ。従っていれば死にはしない。どうするかはお前次第だ。俺は馬鹿馬鹿しくなって逃げ出したが、お前は従うが吉かも知れない。だがな、今のお前の話を聞く限り、お前はそいつ、その何とかいう馬鹿者と
木彫りのカップに水を注いでぐいと呑みながら、叔父さんは言った。私は頷く。すると叔父さんは、肩を揺らした。
「だったら、
「どうやって」
「例えば、そいつを殺せばいいんじゃないか」
いきなり叔父さんがとんでもないことを口にしたので、私は目を剥いた。
「え」
「おい、何を驚くことがある? 当たり前のことだ。そいつがいるから、そいつと夫婦にならなきゃならない。だったら、そいつがいなくなればいい。人を殺すのなんか簡単だ。このカップを作るより楽だ」
「いや、しかし……」
「何を躊躇っている? オブラも愚かじゃないんだから。自分の仕業と気取られず人を殺すことぐらい出来るだろう? 本当に
叔父さんは首を傾げた。私は何も応えることが出来ない。正直に言えば――心のどこかで、「その方法もあったか」と思ってしまったのも事実だ。あいつさえいなくなれば、あんな奴とこれからの長い人生を共に過ごさなくて済む。何十年だか分からないが、馬鹿馬鹿しい愚鈍な時間を後悔しながら生きずに済むのだ。
殺すなら、あいつが一人でいるところを見計らって炎をけしかければ、それでたくさんだろう。鈍くさいイリイロのことだ。助けられる間もなく、死ぬに決まっている。私は
こうしてただぼんやりしている間にも、どんどん考えが具体的になっていく。私の頭の中が透けて見えるのか、叔父さんは嬉しげな表情でこちらを眺めていた。
小屋の中には無数の炎が揺れており、影が壁のあちこちに出来て、異様だった。呪術師の家のようだ。昔の祭りで一度だけ観た、炎を使った影絵芝居のことを私は思いだした。叔父さんは、続けて呟く。
「出来るなら、殺してしまえばいいのに」
「いや、でも……」
愉快そうな叔父さんを見て、私は口籠もった。オンディラ叔父の場合、私を
やむを得ず、私は正直に答えた。
「……うん。分かった。検討してみる」
「検討? 別に、決めてしまえばいいのに。まあいいだろう。俺には関わりのないことだ。それに、今日の用とは別問題だしな。いいよ。花嫁冠の土台ぐらい、すぐ造ってやるよ。一週経ったら、また来てくれ。そのときには出来ているはずだ。そのときついでに、殺すつもりなのかそうでないのかも教えてくれ。殺すつもりなら、いい方法を考えてやる」
叔父さんは一息にそこまで言い切ると、何だかどっと疲れが出た様子で、机に肘をついて、黙り込んでしまった。叔父さんは昔から、気持ちの
私は、もう用は済んだのだから帰ってしまおうかな、と少し考えたが、ふと思いついて、叔父さんに一言尋ねてみた。
「なぁ、オンディラ叔父。村に戻るつもりはないのか」
「……あぁ? ああ。いや……特にはない」
気もなく叔父さんは応えた。私はさらに言い募る。
「もうそろそろ、いいとは思わないのか。誰ももう、オンディラ叔父を責めてはいないぞ。私たち家族も、女ばかりでは暮らしにくい。狩りをしてくれる男が必要だ。もし今、私がイリイロを殺して結婚しなかったとしても、どうせ遅かれ早かれ、また下らない男と契りを結ぶ羽目になる。だったら、叔父さんが戻ってくれた方が話が早い。そうじゃないか?」
私は言った。それなりに筋は通っているつもりだった。イリイロ以下の結婚相手など村には見あたらないから、他の誰かなら受け入れてもいいか、という気はあるのだが、しかし面倒くさい。叔父さんが戻ってきてくれる方が簡単だ。あと、私は叔父さんのことを気に入っている。
「……戻るほどの理由が、特にない」
急にやる気がなくなったらしい叔父さんは、つまらなそうに答えた。視線はそっぽを向いている。私は眉を顰めた。
「私を助けるというのは、理由にならないのか」
「オブラは自分の身を自分で助けられるだろう。グナハも強い。オレが行かなければならない理由にはならん」
グナハというのは母さんの名前だ。
「戻れというなら、俺でなきゃならん理由が要る。現に、花嫁冠の用でもない限り、お前たちは俺を必要としていなかっただろう。だったらこれからだってそうだ。今まで要らなかったのに、これから俺でなけりゃならん理由が突然出来るとは思えん。そして、俺は村でやりたいことはすでに一通り終えてしまった。人間と接する必要ももうない。だったらこうして、納得いくように一人で生きる方が、俺も村の連中もお互い有意義だ」
叔父さんはさすがに切れ者らしく、すらすらとそう話した。それはその通りだろう。これまで叔父さんがいなくても何とかなったのだから、事のついでで呼び戻すというのも勝手な話だ。私は、頷くしかなかった。
そうして叔父さんとは、また来週冠を取りに来る、と改めて約束を交わし、私は小屋から外へ出た。太陽はもう、高々と昇っていた。振り返ると小屋の中に、多くの炎が揺れている。オンディラ叔父は、椅子に腰掛け机に肘をつき、こちらを見ようともせずにどこか何もない中空を眺めている。
私は別れの言葉も言わず、小屋から立ち去った。
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