第2話 イリイロと怒り

「なあ、オブラ。少しは俺の顔を見ろよ。なあ」


 イリイロの家からの帰り道、私は夜だというので付き添ってくるイリイロのことを、徹底して無視しながら足を速めた。あいにくイリイロの家とうちは村の正反対にあるので、距離が長い。毎度面倒くさいことこの上ないのだ。おまけに月もない日なので、辺りは真っ暗だった。


 イリイロは言う。

「次に新月が来る頃には、お前は俺の嫁だ。嫌でも四六時中、顔を付き合わせなきゃいけない。だったら、今のうちから慣らしておいた方が楽だ」

「後々嫌になるほど見る羽目になるから、今は見たくないんだよ」

 私はそう言って、地面につばを吐いた。イリイロの薄汚い顔など見る気はなかった。


 するとそのとき、私たちの行く先に揺れる炎が見えた。


 それは、飛び跳ねている炎数匹だった。炎たちはたちまち私たちの元へやってくると、じゃれつくように私たちの周りをぐるぐると廻りだした。機嫌がいいようで、攻撃的な様子はない。闇の中で炎が尾を引いて火の粉が散り、とても綺麗だった。


 私はしゃがみ込むと、近くに転がっていた木の枝を拾い上げて、炎をじゃらして遊んでやった。生きている炎は枝に何度も飛び付いて、燃え移ろうとした。私は上手いこと、それを避け続ける。炎は賢い。私が小さい頃はこれと同じことをしても、なかなか炎を出し抜くことが出来ず、むしろ弄ばれていたものだ。


 イリイロは、大きな声を出す。


「お前、俺の何が不満なんだよ!」

「どこに満足する。頭は悪い仕事は出来ない、他の男と会えば文句ばかり、酒癖は悪い話は面白くない。それでよく堂々としていられるな。私なら、恥ずかしくてとっくに村から逃げ出しているぞ。このろくでなしの穀潰し」


 私は可能な限り冷たくそう言い放ちながら、炎に近くの草の葉を千切って投げてやった。すぐに炎はそれに絡みつくと、焼き尽くしてしまう。草を抜いたときに指が切れて、私の人差し指の先から、血が流れ出していた。



 イリイロの家では、婚礼の儀の簡単な相談をした。誰かが結婚する度、村を挙げての儀式をやらなければならないのだ。村長むらおさも出席して大々的な宴会になり、それが三日三晩延々と続く。男たちは昼になると眠り、夜になるとまた起き出して、酒を飲みながらどんちゃん騒ぎを続ける。そんなものに、花嫁も花婿も付き合わなければならない。もちろん、単に酒を飲むだけではない。この村ではさらに、生きている炎も関わってくる。


 早い話が、炎に酒をやるのだ。すると当然、炎は大きく燃え上がる。酒宴の間、村の人々は辺りに酒をまき散らし、それに近付いた炎が、化け物のように揺らめき出すのだ。大きくなっても、やはり炎は生きている。まるで野山に生きる動物たちのように、のっそりとした動きになった炎は村の人々の周りをゆるりと巡り、顔や姿を紅く照らし出す。時には耐えられないほどに熱くなり、汗が止まらなくなるけれど、それでも宴会は終わらない。酒を飲み、炎に酒をやり、婚礼の儀はいつまでも続く。

 そんなような説明を受けただけだ。



「誰がろくでなしだ! 夫に向かって勝手なことを言うな。女には分からない事情があるんだよ。俺だって精一杯やってるだろ。文句なんか言うな。女は女の仕事をしていればいいんだ」


 背後から、イリイロの激昂げつこうした声が飛んでくる。こんなのと一緒に、長丁場の儀礼を耐え抜く自信がない。私はイリイロを無視して、炎の姿をじっと眺めていた。炎は、私たちの愚かしい会話なんか知りもせず、無邪気に大地の上を転がっていた。美しかった。また小さな火花が散った。



 一体炎が何者なのか、なぜ私たちの元にいるのか、それは分からない。私も、十二になってよその土地へ連れて行ってもらうまでは、「普通炎は生きて動いたりはしない」ということを知らなかったのだ。海辺の集落へ行ったとき、かまどの炎がいつ生き生きと蠢き出すのかと見つめていて、村長の弟にたしなめられた。「これはこのまま燃え続けているもので、鍋を温めるのに飽きても勝手にどこかへ行ったりはしない」と聞かされて、ずいぶん驚いたものだった。


 また、よその土地では炎を「作り出す」ことが出来る、というのも、信じられなかった。うちの村では当然、一度だって炎を「作った」ことなどない。炎というのは生きて、その辺をうろうろしているものなのだから。必要になったら呼んできて、竈の中に入ってもらうだけのことだ。心地よさそうなたきぎを組んでやれば、喜んでやってくる。それを使って水を沸かしたり、肉を焼いたりする。



「……今はそうやって粋がってられるかも知れないけどな、結婚したらもう、お前は俺の物だ。そうしたら、毎日好きにするからな。覚えておけ。俺に偉そうな口を利けるのも、今のうちだけだ。婚礼の儀さえ終われば、後はお前に自由なんかないんだ。お前は一生、俺の一人目の嫁だ」


 まだ後ろで、イリイロが何かを言っている。下らない。一言だって耳に入れたくなかった。どうしてあんな馬鹿馬鹿しいことを、目を剥いてやっきになって言うことが出来るのだろう。ああいう振る舞いが「男の誇り」というやつなのだろうか。


 男は、自分の誇りを守るために堂々とした態度で、胸を張って生きていかなければならないのだ、と隣の家のおじさんが、酒をだらだらと呑みながら話していた。それがあれなのだろうか。うんざりする。そんな誇り、すぐに捨ててしまえばいいのにと思う。


 炎たちを左右に連れながら歩いて、私たちはようやく家にたどり着いた。母さんも婆さまも、とっくに寝入っている。家には灯りなどないので、外から見ると中は真っ暗だ。一方、炎はまだ互いにじゃれ合って、私の足下で揺れている。


 そこまで来たところでようやく振り返ると、私は溜息を吐きながら、イリイロを見据えた。

 口を尖らせておさなのように不満の顔をしている彼は、ぎっ、と私を睨み付けた。


 私は、出来る限り感情を込めないよう、こう言った。

「好きにすればいい。もうどうせ逃げられないのだから、私は文句なんか言わない。結婚すれば確かに、私はお前の物だ。それは認める。けれどそれは、お前とそして村の男どもがそう思っているだけのことだ。私には、そんなこと関係ない」


「はぁ?」


「関係ないんだ。私はそんなこと認めない。絶対に。たとえ結婚してお前の家に住むことになって、家から出られなくなって、毎日お前の好きなように使われたとしたって、私は決して、お前の所有物だなんて認めない。お前と、男たちがそう思いこんでいるだけのことだ」


「そんな勝手が許されるわけ……」


「何も勝手などしていない。私は認めない、と言っているだけなのだから。誰が何と言おうが、私はお前の物になんかならない。お前がどれだけ私を押さえつけようとしたって、私は自分を、お前の物だと認めない。私の気持ちの中ではな。それを止めることなんか出来ない。私は、お前の物にならない。何があろうと、絶対に」


 私はイリイロをまっすぐ見て言った。

 絶句していた彼は、次第に癇癪を起こして、真っ赤になった目をこちらへ向けた。

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