第23話
簡単なことだった。ミランダが今こうなっているのは、この「ルーム」だけのルールに則っているからだ。アリサを守るためには、外来者は密閉された保護衣を着て外部の菌や塵芥や、有害なものを持ち込んではならない。このルールさえなければ、マスクをさっさと外して新鮮な空気を吸い込むことが出来る。
これを取りさえすれば、親友を救うことが出来る。
ただ、当然とったが最後、ミランダが持ち込んだ空気や菌で「ルーム」内は汚染される。ロックが掛かったままになっているから、外部のスタッフもすぐには助けに来ることが出来ない。自分は死んでしまうかも知れない。
今まで十五年ほどの人生で、一度も考えたことのない行為だった。自分を犠牲にし、他人の生命を救う。そんなことをして一体どんな意味があるのか、わからない。世間的には崇高な行為とされているのだろう。でも、アリサは自分の生命を壊れやすいガラス細工のように考えていた。何かに「懸ける」ものではなく、守るために存在しているものだと。
だから何かのために、誰かのために使おう、などとは思いもよらなかった。それはもちろん、大切な他者が存在しなかったからでもあった。せいぜい両親ぐらいだけれど、育ての両親は感謝の対象でこそあって、自分を守ってくれる存在であり、自分が何かをしてあげる相手ではなかった。そして自分を産んでくれた両親とは、もう十年近く会っていなかった。二人が今どこで何をしているのか、アリサは知らない。たぶん日本に住んでいるのだろうが、それだけだった。
アリサはミランダの保護衣に手を伸ばす。固定器具を順に取り外していけば、アリサにも容易に脱がすことが出来る簡単な機構だ。その気になればいつでもアリサは、彼女を解放することが出来る。
両親が死んでから、自分に芽生えた疑いの気持ちが頭をよぎる。果たして本当に、自分は「外」に触れることで死んでしまうのだろうか? 仮に危険だとしても、死ぬほどではないのではないか? いやもしかすると、まるきり何の危険もないのではないか? 全てはルジンスキの虚言ではないのか? 唐突に、アリサはそんな疑問を確かめる機会が訪れたことを理解した。
ミランダの保護衣のマスクを取ることで、彼女を救うことが出来る。その後、自分は死ぬかも知れないし、なんともなく生き延びるかも知れない。「かも知れない」。数え切れないほど頭に浮かべてきた言葉だ。この「ルーム」にいるだけで、検証できないままの可能性がアリサを取り巻いて漂っていた。しかしアリサは今や、はっきりとわかっていた。確かめられない可能性など無いのだ。存在している可能性は、誰であれ必ず検証できる。単にやらないだけだ。やる勇気が無いだけだ。
確かめようとしたことで、死ぬかも知れない。取り返しの付かないことになるかも知れない。でもだとしても、確かめられないわけじゃない。アリサは、ミランダのマスクに手をかけた。最初にアタッチメントを外す。カチリと音が鳴って、マスクを外側から締め付けていた部品が外れる。生活スペースから流れ込んでいる水はすでに、アリサの太ももの辺りに至っていた。
アリサは、窓の外、「ルーム」の外側で、看護師たちがこちらに向かって何か言っていることに気づいた。ルジンスキもいる。強化ガラスに張り付いて、アリサに何かを叫んでいる。何を言っているのかは聞こえない。彼女たちは賢明にガラスを叩いている。言っているであろうことは容易に想像できる。しかし、その想像は外れているかも知れない。暗くて彼女たちの顔ははっきり見えないから、もしかするとアリサを応援しているのかも知れない。ミランダを助けようとしているアリサを勇気づけているのかも知れない。自分の外にあるものは、如何様にも解釈できる。そこに正解はない。
それでは自分の内側にあるものは、明確に理解できているのか? 次の留め具を外しながら、アリサは考える。いや、同じことだ。だってイライザが何を考えているのかすら、私は理解しきれないのだから。自分の中にも判然としないものが渦巻いていて、時折不可解な形をとって、自分に話しかけてきたりする。
「それが何を意味しているのか、何の価値があるのか、それを判断するのもあなた自身よ」
イライザはアリサの背後からそう告げた。そして、イライザの気配は消えた。
それならどこに、しっかりと掴み取れるものはあるのだろう? アリサはミランダのマスクを、慎重に取り外しながら考えていた。一点の疑いなく信じられるものなど自分の内側にも外側にもない、間違いないのはどうやら自分が生きて存在している、ということぐらいだ。それでも、自分のこの手で掴み取れる確かな真実は存在するのだろうか? そのとき、微かに空気の漏れる、あるいは入り込む音が聞こえた。ミランダのマスクの接続部分に、隙間が出来たようだった。
ここにあるじゃないか、とアリサは思った。自らの生命を捨てようと思える対象がここに。
自分自身が生きて存在しているということぐらいしか確かな事実がないならば、それを投げ捨てたっていい、と思えるものは、どんなに些細であれ、どんなに疑わしいものであれ、他の何ものを以てしても代えがたい意味と価値を持っているのだ。たとえそれが一時の気の迷いに過ぎなかったとしても、他人から見て他愛のないものだったとしても。
アリサはゆっくりと、ミランダの付けたマスクを外した。音を立てながら、マスクの中の空気は外に漏れ出ていった。
アリサは視界が靄に包まれるように薄らいでいくのを感じた。
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