第22話
突然、ドアの向こうの生活スペースから、物音が聞こえた。
アリサは身震いした。当然、誰もいないはずの空間だった。アリサ以外、立ち入ることも出来ないよう設計されている。それが今、外部から侵入され、アリサにもわからない術で蹂躙されている。
辺りは暗闇に包まれ、窓の外の看護師たちの姿も薄ぼんやりとしか見えない。時折、彼らの誰かが控え室から外の廊下へ出て行くらしく、ドアの開閉と共に廊下の光が差し込む。脅迫犯のコントロール下に置かれているのはやはり、「ルーム」とこの控え室だけの様子だった。
アリサは耳を澄ませた。何かの音が、小さく小さく、生活スペースの中から聞こえてくる。
それは、水の音だった。
「あら」
イライザが意味もなくそう呟いた。アリサはしばらく、その音が意味していることが何なのか理解できず、眉を顰めた。
やがて、生活スペースへ通じるドアの下部から、水がちょろちょろと流れてきた。極めて静かに、しかし確実に。アリサはそれを見てようやく、脅迫犯であるハッカーが何をやったのか理解した。「ルーム」内の水道を管理しているシステムを操作し、漏水させたのだ。
「ルーム」は外部からのウィルスなどの侵入を防ぐために完全な気密室になっている。それはつまり同時に、内部からも外へ漏れ出さないということでもある。このまま解放されなければ、いずれ「ルーム」は水槽になり、アリサとミランダは溺れ死ぬ。
ミランダは弱り切って、すでに動けなくなっている。窓の外の人々は薄暗い中で「ルーム」の異変に未だ感づいていない。否、そのために犯人は先に電気を落としたに違いない。アリサは窓際に駆け寄ると、自分が怪我をすることも厭わず、ガラスを渾身の力で叩いた。強化ガラス越しで、しかもアリサの細腕でやったことではあったが、彼女が何かを訴えていることは外の人々にも伝わった様子だった。
しかし、窓の外の看護師たちはそれでも、何も動こうとしなかった。罪悪感に駆られた表情で、互いに目を見合わせ、あるいは視線をアリサから逸らすばかりだった。どうやらすでに、誰もが「自分に出来ることはない」と決め込んだらしい。そして、最高責任者であるルジンスキは、自分の手元のコンピュータの画面をのぞき込んだままで、アリサの訴えには気づいていない様子だった。
「水よ! お願い、助けて! こっちを見て!」
アリサは繰り返し叫んだ。叫ぶのは、人生で初めてだった。だからどうやったら大きな声が出るのかわからなかった。喉の使い方が下手なのだろう、たちまち声は枯れた。声帯の辺りが腫れて、痛くなってきた。それでも、やめるわけにはいかなかった。このままではミランダまでも巻き込んで、生命を奪ってしまう。愚かな、幾人かの大人のために。いや、自分のためかも知れない。
「そんなことしたって聞こえてないって、わかっているでしょう?」
イライザは意地悪くそう言った。アリサは振り返ると彼女を睨み付けた。
「自己正当化のためにやってるの?」
「黙っていなさい! 何も出来ない、私の影のくせに」
「私が影かあなたが影かなんて、大した問題じゃないわ。それはとっくにわかっているでしょ?」
イライザはそう言って笑った。浸みだした水は、アリサの足にまで届いていた。靴下が濡れたので、アリサは脱ぎ捨てる。
そして、ミランダの顔をのぞき込んだ。保護衣の中で、彼女は赤い顔をしていた。酸素は薄くなっているようで、細かい息を繰り返している。何度か呼びかけたが、反応はなかった。目は薄く開いていて、辛うじてアリサのことを見ていた。意識があるのも、果たしてあと何分のことだろう、とアリサは思った。
このままでは間違いなくミランダは死ぬ。仮に死なずとも、低酸素状態が長時間続けば、脳に後遺症が残ると聞いたことがある。まともに話すことすら、ままならなくなる恐れもある。最前から水が溜まり続けているが、これは続けばいずれ外の連中、そしてルジンスキが状況に気づき、犯人の脅迫に屈してくれる可能性が高くなるから、実はアリサとミランダにとっては悪いことではない。いくら何でも、アリサが溺れ死ぬまで放置するほどルジンスキが愚かであるとは考えにくい。これについては犯人の策略が巧みだった。どれだけ先伸ばそうと、いずれは犯人側の
ただ問題は、ミランダが手遅れになるのと外の連中が犯人に屈し、金を払ってロックを解除させるのと、どちらが先になるかということだった。ルジンスキにとって、アリサを死なせるのは本意ではない。しかしミランダのことはどちらでもいいだろう。今、水はアリサの踵を濡らす程度しか溜まっていない。水位が上がるよりも前に、ミランダは死ぬ。その前にルジンスキが決断するかどうかは、わからない。
アリサは親友の顔を保護衣のマスク越しに見つめている。マスクには強化プラスチック製のグラスが嵌め込まれていて、その向こうのミランダはほとんど眠っているような顔をしていた。もう、意識があるかどうか判然としなかった。アリサは今ここで、自分に出来ることがあると悟っていた。
このマスクを外すことだ。
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