第19話

 ルジンスキ先生が戻ってきたのは、事態発生から二時間半後の午後二時だった。

 出張にしてはいやに帰りが早いとアリサは思ったが、なんでもヘリコプターを飛ばして、直接この病院の屋上に下りたらしい。紺色のスーツの肩口が濡れていた。先生はすぐさま、システム管理の太った男に話し始めた。マイクを使っていないので、彼らが何の話をしているのかアリサにはわからない。ただ、先生がこれまで見たことがないほどに緊迫していることはわかった。

 先生が到着するまで、「ルーム」近辺はただ、切迫しているだけだった。「だけ」というのはつまり、誰も何も実効性のある行動を起こせなかった、という意味でもある。看護師たちはアリサに何もすることが出来ず、ただ右往左往しているばかりだった。とはいえアリサも、それを責める気にはなれなかった。

 先生を待っている間にシステム管理者がまとめたところによると、犯人は何らかの方法でこの「ルーム」を制御しているシステムに侵入し、一種のコンピュータウィルスを仕掛けたらしい。「ルーム」のシステムは直接外部のネットワークには接続していないので、犯人がリアルタイムで操作しているというわけではなさそうだった。そして今のところ、ドアが開かず、外部からの操作を受け付けなくなっている以外の問題は発生していない。

 しかしこれは、極めて致命的な問題だった。いくらアリサは外に出ない人間とはいえ、一日二度のわずかな食事ぐらいは必要になる。こんな事態は想定していないので、「ルーム」の中には食料は貯蔵していない。飲み物は純度の高い無菌の水が「ルーム」内の水道からも出せ、また空気は殺菌処理までして循環しているが、食は一日と経たないうちにアリサを苦しめ始めるはずだった。

 そしてそれ以上の問題は、ミランダだった。おそらくは犯人も、「ルーム」の中に他の人間がいることは想定していなかったのだろう(もしかすると想定はしていたが、どちらでもいいと考えていたかも知れない)。「ルーム」内に入るための保護衣は、長時間着続けることを前提にしていない。ルジンスキ先生が帰ってきた頃には、保護衣の中のミランダは汗だくになっていた。今のところは彼女も懸命に耐えていたが、どれだけ保つかはわからない。

 犯人は管理用のディスプレイ上に、脅迫のメッセージを表示させている、とキムは語った。その文章は非常に簡素で、「警察に連絡せず莫大な金額を指定の手段で受け渡せ。でなければ、ドアロックの解除方法は教えない」と書かれているばかりだったそうだ。非常にシンプルな脅迫である。普通の人間、普通の状況であれば、ドアでも壁でも破壊してしまえば済むのだから、そもそも脅しにならない。だがアリサにとっては、たった一枚のドアの開閉が、生き死にに関わってくる。

 アリサは黙って、窓の外の人々の騒然とした様子を眺めていた。ルジンスキ先生はいつまで経ってもアリサのほうを振り向きもせず、ただシステム管理者と話しているばかりだった。

「先生」

 アリサは冷たい声で言った。先生は動揺した顔で振り返った。

「なんだい」

「状況はいかがですか? お願いです。私にも何か教えてください」

 隣でミランダが、深いため息をついた。辛いからなのか、それともアリサに何か思うところがあるからなのかはわからない。いつだったか、ミランダはアリサにこんなことを(SNS上でだが)言った。

「あなたって本当にお姫様よね」

 多少むっとしたアリサは真意を求めた。

「何が言いたいの?」

「そういうところよ。目の前にいる相手に対して、明快な要求をするじゃない。剣でも振るうみたいに」

「普通は『お姫様』って、ふわふわした、夢の国で暮らしているような人を指すと思うんだけど」

「そうね。そして世間的にあなたに期待されているのもそういう性格だと思う。一つだけの部屋のみで生きてきた純粋で愛らしい女の子。私も配属されるまではそんな子なのだろうと思ってた」

 でもあなたはそんなお姫様じゃない、とミランダは続けた。

「将来どこかの貴族に嫁いでいく政略結婚用のお人形じゃないのよ、あなたは。いずれ女王陛下になるお姫様なの。そこが違うの。だから私、悪口を言ってるわけじゃないのよ。褒めてたの」

 SNS上のそんな返信を眺めて、喜んでいいのかわからずアリサは首を傾げた。アリサにとっては、至極当たり前の物言いをしているだけなのだ。

 こんな身体で生まれてきた以上、明快な要求を伝えなければ、最悪自分が死に至る。それを避けるためには、自分の意図を正確に言葉にしなければならない。これぐらいのことが特徴的だと思われてしまうんだな、とそのときのアリサは考えた。そして、そんな小さなやりとりのことを、ミランダがため息をついた瞬間にアリサは思い出した。

 今回は「お願いです」をつけただけましだと思うのだけどな、と考えながら、アリサは返事を待った。

「そう、だね……」

 ルジンスキ先生はいつも通り、過度に逡巡しながら答えた。

 最近ではアリサは、彼のこんな素振りはあくまで愚鈍を装ったポーズでしかないことに気づいていた。恐らく彼は、一見するよりもずっと頭がよい。本当に困って言葉に詰まっているわけではないのだ。「私は言葉に詰まっています」ということを、彼は伝えたいのである。

 もっと言えば、「今は私が言葉に思わず詰まるほど深刻かつ複雑な状況であり、君にもそこを慮って欲しい」という文脈全体を、ルジンスキはあらゆる手段を駆使してアリサに伝えようとしている。おそらくこれは、彼にとってもはや演技というよりは、無意識的なコミュニケーション手段なのだろう。アリサにはそんな回りくどいことをする発想が理解できなかったが、これも彼なりに身につけてきた処世術なのだろう。

 ルジンスキは話を続ける。

「状況は……芳しくない。犯人が仕込んだウィルスは非常に単純で、逆に排除するのが困難なんだ。ドアの開閉のシステムにのみしっかりと食らいついて、機能している。もっと複雑な構造を持っていたら隙もボロも出るし、いろんなアプローチの方法が考えられるんだが」

「システムごと破壊するとかは?」

 アリサが思いつきを伝えてみると、すぐに返事があった。

「いや……そうはいかないんだ。普通のドアロックならシステムに異常があった時は、開いたまま停止するように設計されている。でもこのドアは事情が違う。もしもの時は、ロックした状態で停止するように作ってあるんだ。だから問題の解決にはならない……それに、犯人の声明文によると、『身代金を払わずにシステムに手を出した場合は、より問題が深刻になるだろう』と書かれているしね」

 先生はそこまで一息に言って、ため息をついた。やはり頭のいい人間の物言いであるようにアリサは感じた。アリサの言った一言に対して、ここまで返事が出来るのだから。今、素を見せつつあるのは、愚鈍を装っている余裕すらなくなりつつあるからかも知れない。

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