第18話

 そして、問題の日がやってくる。六月二十九日。ウェブの情報によると、外は雨らしかった。

 その日、アリサはタブレット端末での読書に熱中していた。読んでいたのは『ロビンソン・クルーソー』だった。小説の開祖。馬鹿みたいに長いサブタイトルがついている。古めかしい作品なのだが、思いの外読みやすく展開も波があり、楽しめていた。時刻は午前十一時三十分だった。

 この時間は大体生活スペースにいるので、外で何が行われているか気づかない。ミランダによると、応接スペースには定期的に看護師が清掃に入っているそうだ。アリサが食事をとるのは応接スペースであり(誤嚥などの事故が発生する可能性もあるので、人目につく場所で食べる決まりになっている)、多少のごみや食べこぼしはあるかも知れない。とはいえ、それ以外には埃や粉塵すらも入り込む余地もないから、清掃といっても、形式的な点検に近いものらしかった。

 アリサは黙々と読書に耽っていた。すると、扉の向こう、応接スペースから籠もった声が聞こえた。

「……どういうことですか?」

 多少ヒステリックな響きが含まれていたので、アリサは眉を顰め、端末をテーブルに置くと応接スペースへ出た。

 そこには、保護衣を着た困り顔のミランダが立っていた。窓の外の看護師たちも、にわかにざわめき立っている。アリサは尋ねた。

「どうしたの?」

「ドアが開かないらしいの」

 ミランダは不安げに応じた。何を言っているのかわからず、アリサは怪訝に首をかしげた。ミランダは応接スペースから外へ出るための自動ドアの前に立ち尽くしている。いつもならアリサ以外の人間、保護衣を着た人物がそこに立つと、自動認証されてドアが開く。そこから例の、消毒部屋に入れるはずだ。

 しかし、今はミランダがどれだけ待っても、ドアが開く様子はなかった。

「システムエラーみたい。ルジンスキ先生は今、出張に出ているんだけど」

 窓の外にいる看護師のジルが、マイクを通して早口に話しかけてきた。

「詳しいエンジニアを呼ぶわ。三十分くらいで来てもらえると思う。ミランダ、悪いけど待ってて。お嬢様もごめんなさいね」

「わかりました」

 ミランダは素直に答え、アリサは肩を竦めた。これまでの十四年間、こんな事故は一度だって起こったことがなかった。当然といえば当然だ。この「ルーム」のシステムに問題が発生すれば、アリサの生命の危機に直結する。万が一、すら起こらないよう細心の注意を払ってメンテナンスされてきたのだ。アリサはミランダに話しかける。

「面倒ごとに巻き込んでしまったかも知れないけど……正直私からすると、これぐらいの事故で済んでよかったわ。空調システムが壊れたりしたら、私、どうなるかわからないもの」

「確かに」

 それからミランダは、この保護衣、どれぐらい着てられるものなのかしら、私、三十分以上着続けていたことないんだけど、と呟いた。

 そして予定より遅れて四十五分後、午後十二時十五分、この「ルーム」のシステム管理を行っているというスーツの太った中年男性が、汗をかきながら応接スペースの窓の向こう側に姿を現した。アリサも初めて見る顔だった。ドアの状況を目視確認している。彼に、エアーのコンディションに問題はないですか、と尋ねられ、全く問題ないとアリサは答えた。

 それから彼は、看護師がいつも座っている管理用コンピュータを触り始めた。五分ほど経って、急に彼が目に見えて動揺しだし、周りに看護師たちを集めてなにやら話し出した。窓ガラス越しにも彼らの声が聞こえるほど、そのざわめきは大きくなっていった。

「どうしたの?」

 アリサがそう尋ねても、誰からも返事はなかった。皆、これまで見たことがないほど切迫した表情になっていた。一番大柄なブライアンが携帯電話を取り出すと、慌てて部屋の外に出て行った。

「ねえ、どうしたの? 誰か答えて」

 アリサが再度、強く言うと、看護師たちは全員こちらを見て、そして視線を逸らした。だが、この状況を目の当たりにさせて、何の説明もしないわけにもいかないと考えたのか、キム・アンダーソンが代表して口を開いた。彼女は懸命に言葉を選んでいた。

「……ブライアンには、ルジンスキ先生に連絡をしに行かせました。戻ってきてもらうように」

 それから、「ルーム」の中のアリサとミランダをまっすぐ見据えて、キムは言った。

「これは事故ではありません。何者かが人為的に引き起こした異常です。犯人は私たちを、脅迫しようとしています。お嬢様を人質にして」

 彼女が何を言っているかわからず、アリサはしばらく、困惑した。

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