第15話
「あ、あの……もう失礼しても?」
就職したばかりだという目の前のナースは、保護衣越しに怯えた表情を浮かべていた。アリサは、にっこりと笑った。
「まだよミランダ。話し始めたばかりじゃない」
ミランダ・オニールは一番新入りで、小柄な娘だった。アリサよりも少し背が低いくらい、顔立ちも幼い。勉強熱心で、看護学校も成績優秀で卒業したが、社交が得意ではなく、友達もあまりいない。毎日職場からまっすぐ家に帰り、ネットのオンデマンドサイトで映画(主にラブロマンスもの)を観て、寝ているという。性格は真面目で気弱。趣味はTシャツのコレクション。そんな話を、三十分ほどかけて引き出した。
彼女ばかりではない。いろんな人の話を聞いた。ブライアン・レザーマンは家は貧しいが、自分のハンバーガーショップを開業する夢を持っている。キム・アンダーソンはプライドは高いが看護の技術は高く、そろそろ彼氏と結婚したいと思っている。ジル・ダリアは先月行った海外旅行でバッグを盗まれ、危うく帰国できなくなるところだった。ロニー・スナイダーは二人目の妻と離婚裁判中で、中学生の娘は裁判の結果如何に関わらずもう二度とパパとは会わない、と断言しているらしい。イ・ヒョンスの悩みは最近酒が弱くなってきたことだが、それでもウォッカの飲み比べで同僚の男性たちに負けたことがないという。マリア・リゾウスカは応接スペースにいる間ずっと苛ついていて、アリサに対しても、その態度を隠すことがなかった。どうやらアリサのことが嫌いらしい。
ブライアンに最初に話を聞いて以来、一ヵ月半ほどをかけて、アリサは看護師たち全員と会話した(何でもガラスの向こうではこの試みを「面談」と呼んで揶揄していたらしい。これも親しくなった一人から聞いたことだ。確かに看護師の側からすれば、雇い主に長々質問を浴びせられているのだからそう感じるだろう。アリサにはそんな意図などまるでなかったが)。
身近な他者との会話。これまで十四年間、いつだって出来たのに、一度も考えなかったことだった。もちろん少し話すぐらいのことは以前からしていたし、親しくなる看護師もいた。けれど、それ以上のことをアリサ自身、知ろうとしたことがなかった。
第一の目的は、そんな周囲の人たちのことを知って、ほんの少しでも、自分の世界を広げるということにあった。おかげで僅かに、一部屋分くらいは自分の関知できる世界の範囲が広がったような気がした。看護師たちが全面的に信用できるか、世界について真実を語っているか、それはわからない。
けれど彼ら・彼女らと直接、向き合って語らっているこの時間、接しているという事実そのものは現実だったし、少しずつ近づきながらお互い触れ合っていく、この他人と触れ合っているという感覚そのものは、事実に他ならなかった。外の人からすると馬鹿らしいことなのだろうとアリサは思ったが、アリサにとっては大きな新経験だった。
それから、こうして会話する中でアリサ自身の内面を開示していくのも、アリサにとって新鮮な試みだった。間近な他人と向き合い語らうというそれだけのことに、数多くの意味があることをアリサは初めて知った。
たとえ保護衣の向こうにしか相手が存在しなくとも、多くの情報が奔流のように伝わってきて、それに応じるためにはアリサも負けじと多くの内面を曝け出さなければならない。そうすると、これまで見据えたことがなかった自分の中の澱のようなものが浮かび上がって、言葉に変わって外に出て行くのを感じた。
ただ、当然アリサにとって、それだけが目的ではなかった。ミランダには、「触手」になってもらう必要があった。自分に必要なのはそれだったのだ。外側で自由に動かせる分隊。知りたいこと、確認したいことが出た時に、「ルーム」から出られないアリサに代わって行動してくれる、身近な人間。リナはそうなってくれそうだったけれど、ルジンスキ先生に関係を断ち切られてしまったから仕方ない。最近では、SNSを介して呼びかけても反応がなくなってしまった。
もちろん、ミランダがいきなり上手く機能するかどうかはわからない。打算が先に立っているとはいえ、まずはしっかりと友人としてつきあわなければならないだろう。アリサは今まで、イライザ以外とまともに
一時間ほどで、ミランダは解放することにした。初めは誰よりもこの状況を警戒していたミランダだったが、最後には俯きながらもその化粧気の薄い顔に微笑みを見せるようになっていた。アリサと一番年齢が近いだけあって、心を開くのも早かった。
たぶん彼女が一番自分の目的に合致しているだろう、と思ったアリサは、ミランダの去り際に、自分のSNSアカウント名を顔の近くで囁いて伝えた。
「検索して」
アリサが言うと、彼女は保護衣の中で小さく頷いていた。
その日から一ヵ月後には、二人はウェブ上ですっかり親しくなっていた。現実のほうでも会話はするが、周りに他人の目があるので、あまり深い話は出来ない。その分、ウェブでは好き放題に会話していた。
「ルジンスキ先生に気づかれる心配はないの?」
アリサがコンピュータに向かっていると、背後からイライザが話しかけてきた。アリサは振り返りもしなかった。
「大丈夫よ。彼女もSNSでやりとりする時は、赤の他人の振りしているから。私も普通の人の振りしてるけど」
「その話している相手がミランダだっていう確証はあるわけ?」
「ここに入ってきた時、さりげなくSNSでの会話の内容を話題に出すようにしてる。反応があるわ」
「そんなことして何の意味があるの」
「今すぐどうこうなんて考えてない。三年先、四年先でもいい。ミランダが私のために動いてくれるようになれば、私の人生は変わる」
ミランダが最近観たという映画の話題に返事を書き込みながら、アリサはそう応じた。何年先だって構わない。何かが変わるきっかけになれば、それでいい。
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