第13話

 六時間ほどあちらこちらを彷徨い歩いたところで満足し、アリサは元の病院の建物に戻ってくると螺旋階段を上り、廊下を通り、ドアを抜けガラス窓を抜け、応接スペースに戻ってきた。

 懐かしき我が家。そんな単語が頭をよぎり、ため息をついたアリサはもう一枚ドアを抜けて、生活スペースに入った。

「早かったのね」

 ベッドの上でごろごろしていたイライザが顔を上げ、きょとんとした表情でアリサを見た。

「数日は戻ってこないと思ってたのに」

「数日もすることがないわ」

 アリサは手近な椅子に腰掛けた。そして言った。

「何、あれ」

「何って? 広い世界よ。あなたの見たことのなかった世界。あれが、『外』』」

「嘘よ」

「嘘?」

 イライザは愛らしく小首をかしげた。アリサは続ける。

「私でもわかるわよ。そんなはずないって。街の果てまで歩いてみたけど、何もなかったわ。行っても行っても崩れたビルか、固まったマグマか、壊れた車くらいしかなかった。私以外、誰もいなかった。動物すらいないのよ」

「そう。でもそれが、外の世界なのよ」

 イライザはベッドサイドに腰掛けている。

「アリサはいったいどんな素敵な世界を夢見ていたの? あれが現実。外の世界はああなっているの。ルジンスキ先生はこの近くの辛うじて住めるビルにいつも寝泊まりしていて、毎日ここに通勤してくる。看護師たちも同様。たまに来る客たちはどこか凄く遠い遠方からやってきている。この周囲には人が住める場所はほとんど無い。それが世界の真実」

「嘘よ。矛盾が生じるわ」

「何との矛盾? あなたが真実だと思っていた世界の常識とかみ合わない、という、ただそれだけでしょう? こっちが真実ではないという根拠はどこにあるの?」

 アリサは何も言わない。根拠などなかった。自分のこの奇妙な状態の身体、誰の目にも見えなくなった幽霊のような身体で初めて見た外の世界は、すっかり壊れていた。自分自身の眼で見たものこそが正しいのだとすれば、あの外の光景は、間違いなく正しい、真の世界だろう。

 イライザは脚をぶらぶらさせながら言った。

「知りたくなかった?」

「どちらかと言えばね」

 アリサは無感動に言った。

「あんな世界、知っても仕方なかった」

「どうしてああなったか、知りたい?」

「知ってどうなるの。どうせその事情だって、知ってうんざりするようなことばかりなんでしょう?」

「まあそうね」

「だったら知らなくていいわ」

 アリサはイライザの隣りに腰を下ろした。俯いて、しばらく動かずにいた。イライザは、珍しく心配そうな声を出して言った。

「元の状態に戻りたい? その、普通の肉体がある状態に」

「そうね。いいの? あなただって肉体が欲しかったんじゃないの?」

 アリサが言うと、イライザはうーん、と首をひねった。

「まあ、そうなんだけど……でもごめんなさい、私もこの数時間で満喫した。正直に言うとね、アリサ、もう退屈したの。この部屋にしかいられないんだもの。もう飽き飽き。どこにも行けないし、面白いものも何もないし、美味しいものが食べられるわけでもないし。ただひたすらこの狭い部屋にいるだけ。物体に触れるからって何の意味もないわ。ねえ、アリサ。どうやったらこんな場所で十四年間も過ごして、正気を保っていられるの?」

 その後、アリサはイライザに言われるまま、ベッドに横たわり、目を閉じた。しばらくして目を開けると、すでにアリサの肉体は、元の通りに戻っていた。アリサは自分の右手を数回握っては開き、その感触を確かめ、それからシーツを触り、枕を触った。

 自分のやっていること、やってきたことが馬鹿馬鹿しくて、泣きたくなってきた。

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