第12話

 ドアを抜けると、見慣れた応接スペースがある。今は夜であり、明かり一つなく、ともすれば、身体を家具にぶつけてしまいそうだった。事故を防ぐため、「ルーム」内の家具は柔らかい素材で作られていたが、暗闇の中、衝突すれば怪我は免れないだろう。そのときの痛みを想像してアリサは顔を顰めたが、そういえば今の自分は、何にも触れることが出来ないのだった。馬鹿馬鹿しくなって、アリサはずかずかと歩を進めた。

 部屋を直線上に突っ切り、外へ向いたガラス窓に向き合う。「ルーム」の外へ通じる扉から入ってくるほのかな光のせいか、目が慣れてくると少しずつ、辺りの光景が見えてきた。物心ついた頃から、吐き気がするほど凝視してきたガラス窓。外にはいつだって、両親の連れてきた偽善者たちが並んでいた。どいつもこいつも、芝居でも観に来たかのような態度だった。

 アリサは再び手を伸ばすと、ガラスを通り抜け、「ルーム」の外へと歩み出す。ガラスを抜ける時も、冷気のようなものが一瞬全身を襲ったきりだった。

 そして次の瞬間には、アリサは「ルーム」の外に立っていた。

 外にいたのは今から十三年以上前、一歳の誕生日までだ。だから、外部の記憶など何もない。アリサにとって実質、生まれて初めて「ルーム」以外の場所にいることになる。軽い眩暈がした。

 アリサは応接スペース前を見回し、一つ一つの物を目に焼き付けていく。何もかもが新鮮で、驚異だった。置いてあるもの、部屋そのもの、全てが、汚く感じられた。アリサの今まで生きていた空間は完璧に浄化されていたから、ここにあるほんの僅かな埃や汚れも、アリサにとっては信じがたい汚物に等しかった。

 さらにアリサは歩む。応接スペース前の部屋から、外へと繋がるドアの前に立つ。ここから先は、見たことすらない空間だった。アリサはドアを抜けた。

 おそらくは、すぐ隣りにルジンスキ先生の部屋があるのだろう、とアリサは踏んでいた。リナの報告はそうなっていた。ところが、ドアの先にあったのは長い長い廊下だった。左が壁、右には窓がある。他の部屋は見当たらなかった。不審に感じながら廊下を歩くアリサは、窓から外をのぞき込んだ。屋外を見るのも、これが初めての経験だった。

 窓の外にはごくありふれた街並みが広がっているとアリサは想像していた。しかし、外には真っ黒な岩に覆われた、荒廃した建物しかなかった。以前、サイエンスチャンネルで火山の噴火後、溶岩が固まっていく様子を観たことがある。あれとそっくりだった。まるでどこからか流れ出してきた溶岩が、ビルや家々の合間に流れ込み、長い時間をかけて固まっていった後のようだった。

 アリサは長い廊下を通り、突き当たりのドアを抜けた。その向こうは、外壁に取り付けられた螺旋状の金属階段だった。風が吹き付けてくる。屋根もなく、踊り場で空を見上げると、黒く渦を巻いている雲が一面に見えた。今は夜なので、雲間の月明かりが光源になっている。アリサはそんな空をしばらく見据えてから、諦めたように階段を下りていった。

 アリサは地面に降り立った。病院の建物の周りにも、黒い岩は押し寄せていた。元々は駐車場だったらしく、僅かに見えているアスファルトの表面には白いラインが引かれている。しかし、黒岩のせいでとても車を停められるような余地はなかった。

 辺り一帯を見渡す。人がいるような気配はなかった。雲の動きに従って、月の光が周囲を照らし出す。岩に埋もれずに済んでいる建物も、ろくに使われているように見えなかった。

 アリサはしばらく、そんな光景を眺めていた。「ルーム」で想像していた外は、生き生きとして、人々が歩き回り、人の声が聞こえ、車が行き交い、希望と活気に満ちた姿をしていた。今、目の前にはそんなものは何もない。アリサは歩き始めた。

 三十分も歩くと、港湾地区まで辿り着いた。ルジンスキ先生の言葉によれば、母親はこの辺りで殺されたらしかった。しかし到底、そんな場所とは思えなかった。錆びて朽ちたコンテナは横転して放置されている。運搬用のトラックはフレームだけ残っていて、どれも苔が生えていた。

 波が静かに寄せる音だけは、いつまでもいつまでも繰り返し聞こえた。アリサが鼻をひくつかせると、潮の香りが直接流れ込んできた。嗅いだことのない強い臭気に、アリサは噎せ返って咳き込んだ。

 少し離れたところに目をやると、対岸へと渡る吊り下げ式の大きな橋があった。たぶん、父親が吊されたという場所だろう。これは途中で崩壊し、道路は断ち切られていた。対岸には摩天楼群があったが、いずれも明かりがついている様子はなかった。

 アリサは港の海べりに腰を下ろすと、海面を見下ろしながら考え込んだ。きっと、歩いても歩いてもこんな調子だろう。辺りに人はいないし、街並みは廃墟ばかりだ。どう考えたっておかしかった。こんなわけない。アリサの外に関する知識は、「ルーム」で観た映画や、ドラマや、ドキュメンタリー、それからネットの記事によるものだ。そのどれも、外がこんなだなんて言っていなかった。

 これは悪夢なのか? しかしその割には、目の前の波音は生々しく聞こえた。水面に浮かんでいるごみ屑の一つ一つまで、ディテールが作り込まれていた。どこからか、自分は夢に入り込んでいたのかも知れない。イライザとの会話は全て夢だったのかも知れない。今頃自分は、「ルーム」のベッドで数日ぶりにぐっすりと眠っているのかも知れない。

 でも、これが現実かも知れない。アリサは、外のことは何も知らない。周りの人々がもたらす情報を信じるしかない。もし、ルジンスキ先生や客たち、看護師たち、そればかりか弁護士のリナが話している内容が一つ残らず嘘だったら、判別する術はない。

 先生とリナは対立しているように思えるけれど、実はそれも含めてよく出来た詐術なのかも知れない。ネット上の情報だって、全て先生たちによって操作されていたら、アリサにとっては真実かどうか判定しようがない。

 もしかしたら今、アリサが見ているものは真実の外部世界で、世界はとっくに崩壊して、どこもかしこも廃墟になっていて、そんな中でアリサだけがあの狭い部屋の中で丁重に生かされていて、みんなに騙されているのかも知れない。昔の映画、昔のドラマ、昔のネットの情報だけを与えられて、幸福な幻想を普段から見せられているのかも知れない。それが絶対的にあり得ないことだとは言い切れない。

 アリサは再び立ち上がると、また別の方角へ向けて歩き出した。目的はなかった。今、自分に出来ることは、歩き続けることだけだった。

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