第11話

 気づいた時には、アリサはベッドサイドの床に転がっていた。自分に何が起きたのか、全くわからないままだった。ショックが大きく、数秒そのままの体勢で、動かずにいた。

 その次の瞬間には、怪我をしたかも知れない、と考えた。あんな高さから落ちたら、普通の人でも大怪我を負うだろう。まして自分なら死んでしまう、と怯えたアリサは、震えながら頭や脚に手を伸ばした。

「大丈夫よ。あなたはもう怪我をしないから」

 すると、目の前のベッドから、イライザがそう言って顔を出した。

 イライザはにこにこと笑っていた。アリサは状況がわからず、「え?」と彼女に問いかける。イライザは肘をついて、愉快げに話した。

「よかったわ。無事、入れ替わりに成功した」

「……は?」

 イライザはすこぶる嬉しそうだった。暗い部屋の中だったが、アリサは彼女の印象がいつもと違っていることに気づいた。輪郭がくっきりして、実在感もある。今、彼女はアリサのベッドの上に寝そべっているが、ベッドのシーツはイライザの動きに従って、皺の形を変えている。

 接触しているのだから当然なのだが、しかし今までイライザはそうした室内の物に触れようともしてこなかった。もちろん触れないからである。

「あなた、それどうやって」

 アリサが呆然としていると、イライザはさらに、ベッドの上で飛び跳ねた。スプリングが軋む音がして、ベッドが揺れ、枕の位置が動いている。あり得ないことだった。イライザは実体がないのだ。イライザはアリサの妄想なのだから。それなのに今は、イライザの動きに現実が呼応している。飛び跳ねているイライザは金色の髪を揺らして、心から嬉しそうに言った。

「だから言ったじゃない。入れ替わったって」

「入れ替・・・・」

 そこで意味に気づいたアリサは、慌てて近くの椅子に触れようとする。まるで霧でも撫でているように、アリサの手は椅子をすり抜けた。アリサは自分の手のひらを見つめて、青ざめた。

「何をしたの!」

「あなたは私のことをただの妄想だと思っていた。でもそれは勘違いよ。私とあなたは等価なの。世界の中であなたが占めている場所と私が締めることが出来る場所は同じ。その気になれば、いつだって入れ替えることが出来る。だからそれをしたまでよ」

 アリサ、あなた、私のことを、自分の影だと思っていたでしょう、とイライザは言った。

「自分が主で私が従、それか、自分が太陽で私が月だと。でも違うの。あくまで鏡像よ。どちらがどちらにいたって世界にとっては変わりないの。だから、こんな簡単に入れ替わることが出来る」

「勝手なことをしないで! 元に戻して!」

「なぜ? 何がいけないの? あなたの望んでいたことじゃない」

「望んでいた……?」

 アリサはイライザの言葉の一つ一つが上手く飲み込めなかった。物に触れないとか、それだけの問題じゃない。自分の在り方そのものが、根っこから変わってしまったようだった。ただ部屋に立っているだけでも、違和感を覚える。足の裏がきちんと床についていない気がする。アリサは呟いた。

「イライザと入れ替わることなんて、望んでないわ……」

「そうじゃないわよ。この部屋から出たいって、さっきあれだけ言っていたじゃない」

 ご機嫌なイライザは、ベッドから下りると部屋のあちこちを歩いて回り、コンピュータや机に触るだけで楽しんでいた。キーボードを叩き、かちゃかちゃと軽い音を立てて興奮している。感触を得ること、そして自分が世界に働きかけられること自体が、愉快で仕方ないらしかった。

 イライザは振り返った。

「出られるわよ」

「え?」

「だって、今のあなたは何にも触れることが出来ないんだもの。だったら、危険はないわ。安心してここから出られる。でしょう?」

 イライザの理屈に筋が通っているのか判断できないほど、アリサは混乱していた。

「こんなこと出来るなら、どうして今まで……」

「今までやれなかったのは、あなたが本気でこの部屋を出たいと望んでいなかったから。この部屋にうんざり、とかいつも思ってたみたいだけど、上っ面だけよ。本当はこの部屋でいつまでも、繭のまま一生を終えたいと思っていた。そうじゃない? そのほうが楽だから。そしてあなたは、そうして一生を過ごすことが許されるから。この方法は、お互いが本心から入れ替わりたいと思っていないと実行できないのよ」

 瞬間的な怒りを感じる。しかしイライザに殴りかかりたいとは思わなかった。まず、そんなことは出来ないとわかっていたし、第二に、アリサは自分の身体を傷つけないために、他人や物に当たったりしないよう、幼い頃から固く教え込まれていたからだった。怪我をしないでいるには、安定した平静な生活が一番だ。

 イライザはその細く真っ白な腕をしなやかに動かすと、生活スペースから出るドアを指し示した。

「さ、どうぞ。お好きにしたらいいわ」

「……残されたあなたはどうするの。私の代わりに、見知らぬ金髪の少女が部屋にいるのよ。大騒ぎになるわ」

「平気よ。言ったじゃない。私たちは物理的な肉体だけでなく、この世界に占める存在そのものを入れ替えたの。もうみんな、アリサのことなんか忘れてるわ」

「忘れ……」

「この部屋に十三年前からずっといる虚弱な少女は、金髪碧眼のイライザ。ルジンスキ先生も、外の看護師たちも、みんなもはやそう考えている。入れ替わるとはそういうこと。あなたがここからいなくなっても、誰も何も気づかない。あなたは自由を手に入れた。完全な意味でね」

 そうかも知れない。アリサは思った。完全な自由とは、全ての人に忘れ去られることでしか、得られないかも知れない。

 イライザに促されるまま、アリサは部屋を横切り、ドアの前に立った。そっと手を伸ばす。ドアに触れた手は、何にも遮られることなく表面にめり込んでいく。ほんの微かに、霧の中をくぐっているような感触がまたするだけだ。アリサはそのまま、前に歩み出す。一歩、二歩。身体はドアをすり抜けていく。

 そして頭が通り抜けようとする時、背後からイライザの声が聞こえた。

「幸運を祈るわ」

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