第6話
あなただってもう、それぐらいのことは考えているでしょう、とイライザは言った。アリサはあえて、何も返事はしなかった。そして、肌に刺激を与えすぎない温度のぬるま湯に浸かっている、自分の裸体を見た。
アリサも保健医療の講義動画と、インターネットから手に入る情報で、ある程度はそうした知識を身につけていた。与えられているコンピュータのウェブブラウザは規制が掛けられていて、成人向けコンテンツは観られないようになっていたけれど、それでも男女の性愛の話、それから、自分のような年齢の少女に対する性愛が存在しているということも知っていた。
少しの間、アリサはそのことについて考えた。そして、結論を出した。
「関係ないわ」
男性の性的欲望がどんなものかアリサは詳しくなかったので、想像することしかできなかった。でも、それもやはり「ルーム」の外側のものでしかない。言い換えれば、自分と直接関わってくることはあり得ない。仮に先生が「何か」をしたかったとしても、身体的に思いを遂げる方法はないのだ。従って、先生が現在の(あるいは過去の)自分に対してどんな欲望を持っていたところで、多少気味が悪いくらいでどちらでもよいことだった。
「遂げることは不可能ではないでしょう? 大変なことになるだけで」
冷たくイライザは言い放った。
それは確かにそうだ。アリサは首肯する。
「私を殺すつもりなら、可能ね。でもそれ、何の意味があるの? 私を狙う男性が保護衣を脱いで部屋に入ってくるだけで、私は心拍や呼吸がおかしくなる。行為に及んだら、即座に死ぬわ」
「それでもいいと思っているかも知れない」
イライザは訳知り顔で言った。アリサは自分の額を触り、ため息をついた。
「そうね。それならあり得るかも知れないわね。たった一回の性行為、しかもその初めの数秒で相手は死んでしまい、終わった後は十三年にもわたって重ねてきた研究の功績も、二十年近い医師としてのキャリアも消えてなくなる。残るのは死体と、小児性愛者としての汚名だけ。あり得ることだと思うわ」
確かにルジンスキ先生が、サスペンス映画に出てくるような完全な異常者、性格破綻者なら、あり得るかも知れない。表に出している発言や性格と乖離して、何もかも考えずに一瞬の快感に身を委ねてしまう。社会的立場などまともに考えることもできない。ほとんど多重人格の所行だ。
でもだとすると、今度はリナが報告してくれた行動とは矛盾する。わざわざリナを解雇し、テレビ局を遠ざけ、自分の自由にできる弁護士をアリサにあてがう。それは極めて計画的でロジカルな行動だ。そこまでの努力をして、得るのは一瞬の快楽だけ。異常性犯罪者というのはそういうものなのかも知れないけれど、いくらなんでも普段接しているルジンスキ先生の人柄からはあまりにかけ離れていた。
やはり、考えられる目的は両親の遺産ぐらいだろう。
「そうかしら」
イライザは諦めず、わざわざバスタブに一緒に入ってくると、こちらに近づいて言った。
「まだ他の可能性はあると思うわ」
「何?」
「あなたそのものが目的という場合よ」
「……私そのもの?」
「お金なんか、性欲なんか目的じゃない。あなたに手を出そうなんて気は、端からないのよ。あなたを手元に置いて、誰からも邪魔されないことが目的。これでも矛盾しないわ。でしょう? 言ってみれば、標本ね。一人の女の子を、自分の手元の部屋の中にずっと置いておける。見たい時に見られて、会いたい時に会える、自分だけの女の子。大切なお人形」
それがあなた、とイライザは鼻が擦れ合うほどに顔を近づけて、囁いた。彼女の息が鼻に掛かった。アリサは不快そうに眉を顰め、水面に視線を向けた。イライザは映っていなかった。
「そんなことして、何の意味があるの」
「意味なんかないわ。絵を飾っているようなものなんじゃない?」
イライザはこともなげに言った。
「このまま四、五年もしたら、あなたどうなる? 十八になれば大人よ。自分に責任を持てる歳になる。けれど、あなたは独りだけでは何もできない。ここにいるしかない。頼れる、信用できる人は誰? ルジンスキ先生だけ。両親が死んでしまった今、これまで以上に先生を頼るしかない。きっとあなたは、何もかもを先生に任せるようになる。邪魔者は完全に排除された。あなたは標本箱の中で先生に護られ、綺麗なまま一生を終える。それが先生の狙い、なのかも」
イライザは悪魔のように笑った。バスタブの中で、次第にアリサにすり寄ってくる。存在しないイライザの身体の重みを、アリサは感じる。自分以外の人間の皮膚の感触が、不愉快だった。
自分なんかが目的のわけない。アリサはそう思った。
アリサは視線を逸らす。イライザは眼を細めた。
「たとえば、全てが嘘だったらどう?」
「全てが?」
どういう意味、とアリサは眉を顰め、尋ねた。
「文字通りの意味よ。今までの何もかもが、嘘。あなたの病気も、検査結果も、こんな大げさな部屋も、全部嘘。考えてご覧なさいよ。こんな病気にかかっている人間なんて、世界でもあなたぐらいよ。他に聞いたことがある? 自分の外にある全てのものに触れられない、だなんて。騙されてるの。この部屋から出たら死にます、あなたはこのガラス張りの部屋で一生を過ごしてください、私がずっと面倒を見てあげます。そう嘘を言って、医学的な証拠を捏造して示して、両親も説得して。一度こんな環境を作り上げれば、後は自分のやりたい放題」
自分が万全の健康体で、この十三年間の何もかもが嘘? 何を言っているんだ、この女。アリサはイライザを睨む。
「そんな手間の掛かる嘘をつく意味は?」
「簡単よ。そんな都合のいい女の子なんていないから。合法的に、本人と家族の同意の下で永遠に監禁しておける女の子なんて、運良くそんな欲望を持った人間の目の前に現れるわけないでしょう? いないなら、自分で作り出すしかないわ」
それは確かに、そうかも知れない。アリサは水面に視線を向けた。イライザは水面に映っていなかった。そんな金髪の少女は、話を続ける。
「彼は偶然、それができる立場と、知識があった。もちろん、どこからが嘘だったのかは判断が難しいわ。ひょっとしたら一歳の時、あなたがこの病院に搬送された時には、本当に危険で生命に関わる状況だったのかも知れない。その後しばらくは、他の医師たちもあなたの診察を共同で受け持っていたことでしょうし。何しろあなたの両親からお金を出させて、こんな贅沢な設備を作らせたくらいだから、さすがにそれなりの裏付けがないとできないはずだわ。でも、それがその後、十三年にも渡って継続している、という証拠がどこにあって? 仮にどこかの段階で治っていたとしても、あなたを診察しているのはルジンスキだけだわ。だったら誰にもわからない」
「大勢いる看護師たちは?」
アリサは小声で言った。イライザは首を振る。
「あの人たちだって、どうせルジンスキが出した検査結果を見て判断しているだけだもの。あなたを直接検査する機会なんてほとんどない。先生が黒と言えば、それは黒でしかないわ」
初めは馬鹿馬鹿しいと思っていた話に、アリサは思いの外、揺さぶられていた。イライザの言葉にここまで動揺するのは、初めてのことだった。何もかもが嘘? そんな馬鹿げたこと、もちろんあるわけがない。こんな大きな嘘が十三年間も全ての人を騙し通してまかり通るなんてこと、あり得る?
けれど正直、判断できなかった。アリサはその可否がわかるほど、外の世界のことを知らなかった。アリサが接するのはガラスの向こう、あるいは保護衣の向こうにいる大人たちだけで、彼らは皆、アリサの善良なる守護者であるはずだった。苛立ったり、疎んじたことはあっても、心底から疑ったことはなかった。
いや。それもおそらく、違うのだろう。本当の本当は、どこかで不信を抱いていたのだ。なぜならイライザは、アリサの一部なのだから。
アリサのどこかが思っているからこそ、イライザはこんなことを語る。アリサはふと、以前に本当の母親が教えてくれた東洋の怪談に、人面瘡というものが出てきたのを思い出した。身体の一部にイボのように人間の顔が吹き出て、喋り出すらしい。イライザは、そんなようなものだ。アリサの中から吹き出てきて、自分でも見えないどこかに溜まった膿のような何かを、勝手に吐き出しているのだ。美しい人面瘡は、アリサの目の前で微笑んでいる。
「妄想よ」
やっとのことでアリサは言った。イライザは頷いた。
「そうね。証拠なんてどこにもないわ。でもね、可能性はある、というのは認めるでしょう? ゼロではない。そして、全てが嘘、という可能性がゼロでないのなら。他のありとあらゆる可能性が、あり得るということでもあるのよ」
イライザはそう言うと、バスタブから上がり、濡れた身体のまま、バスルームから出て行った。
独りになった後も、イライザの背中が目から離れなかった。何もせず、湯に浸かったままぼんやりとするうち、アリサはふと思った。
――両親はなぜ、死んだのだろう。
*
その夜、アリサは生活スペース内のベッドに横になっていても、一向に寝付けなかった。珍しいことだった。普段は横になるや、睡眠薬でも飲んだようにたちまち寝入ってしまうのに。
アリサはずっと、真っ白な天井を見つめていた。何も考えていなかった。ただ、静かな部屋の中で、何もせずにいた。
隣の応接スペースから、物音が聞こえた。
アリサはドアを見た。
ドアの向こうから、誰かが歩き回っている音が聞こえた。だがその「誰か」は、何をするでもなく、ただ歩き回っているようだった。立ち止まった気配もない。動き回っていた。もしかすると、這い回っているのかも知れない。かさかさ、という布の擦れるような音だった。
アリサは何もせず、ただじっとその音に耳を澄ませていた。
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