第2章 夢の向こう

第7話

「どうしたんだい、アリサ。大丈夫?」

 保護衣の向こうで、ルジンスキ先生は心配そうな表情を浮かべた。今日は問診の日である。とはいえ普段から日常的に先生とは体調や気分の話をしているので、取り立てて話すこともない。そうアリサは思っていたのだが、どうやら不安が顔に出ていたらしかった。

 ここ何日か、よく眠れない日が続いていた。隣の部屋の物音だけではなかった。リナからのメッセージは、あの後も断続的に届いていた。数日から一週間に一度、ルジンスキ先生が席を空ける(とされる)午後二時から三時の間、SNSに書き込まれる。

 そう、彼女の言を信じるなら、先生はアリサのコンピュータまで、閲覧内容を逐一チェックしていることになる。こんな環境で暮らしている以上、アリサのコンピュータがスタンドアローンでないのは当然だったが、しかし先生の個人的興味から監視されている、となると、話は違ってくる。

 リナは、学会での最近のルジンスキの評判はあまりよくない、と書いていた。目に見えて研究成果の発表が減っているらしい。そのせいもあって、未だに准教授から正教授に昇進できていない。本来なら病院内でも、アリサを担当するような重要ポストから外されてもおかしくないが、生前のアリサの両親と懇意にしていたこともあって、院内でのポジションを守っているらしい。目の前で無害そうな笑みを浮かべている先生を見る限り、そんな素振りはない。一人の少女を監禁することに生涯を賭しているマッドサイエンティストには思えなかった。

 アリサはとりあえず、正直に眠れない旨を伝えた。途端に先生は、困った表情になる。不眠になったからとはいえ、アリサには薬品を投与することができない。睡眠剤など呑んだ日には、いつ目覚めるかわからない深い眠りにつくか、あるいは即座に発作を起こして終わる。だから、カウンセリング程度のことしかできないのだ。だからといって、すぐに困り顔になるというのも医師としてはどうなのだろう、とアリサは思う。

「ご両親が亡くなったことの影響が、今になって出始めているのかも知れないね」

 先生は両眉を下げて言った。

「そうしたことはしばしばある。間が空くんだ。ショックや悲しみは、少しずつ染み渡るようにして身体に影響を及ぼす。そういうときは、君でなくとも、薬や医学的アプローチが助けてくれるとは限らない」

「どうすればいいんですか」

「時間だ。まずはじっとして、その衝撃を受け止めるしかない。じわじわと染み渡ってくるそれを全身にいったん広げきるんだ。そうして時間が経つと、毒が抜けるように悲しみは、身体から消えている。僕も母が死んだ時、そうだった」

 アリサはまだ若いから、実感しづらいだろうがね、と先生は伏し目がちに言った。アリサは曖昧に頷いた。

 確かに、いずれ衝撃が抜け去るのならば、その方法でもいいだろう。けれど、全身に染み渡ったまま、それが自身と一体になってしまったら、どうするのだろうと思った。

「父と母は、どのようにして死んだのですか?」

 アリサは小さな声でそう、尋ねた。保護衣越しでは聞こえないかも知れないと思ったけれど、明らかに言った瞬間、先生は反応していた。そしてしばらく、沈黙していた。相当迷っている様子だった。

「うん……そうだね。君も、知っておくべきかも知れないね。ただ、辛いことを伝えなければならない。非常に、辛い話だ」

 息をついてから先生は、君のご両親は殺されたんだ、と言った。

 アリサは頷いた。その可能性はすでに考えていた。

「どうやって殺されたんですか。どうして。誰に」

「犯人も、動機も、わかっていない。状況は至ってシンプルだ。ここからの帰り、いつも行っている三番街のロシア料理レストランにご両親は向かった。僕も時々行く店だ。店では至って穏やかにお二人は談笑していたそうだ。そしてその帰り、店を出て運転手付きのリムジンで帰路についた。その後、自宅で使用人たちがどれだけ待っても、ご両親は帰ってこなかった。深夜になり、警察から家に連絡が入った」

 遺体となって街で見つかった、という一報だ、と先生は告げた。

「相当酷い状態だったんですね」

 アリサは先んじて言った。先生の迂遠な言い方から察しはついた。先生は言葉に詰まっていた。けれどアリサは、聞かずに済ませるつもりはなかった。答えてくれるまでずっと待つつもりだった。

 やがて先生は口を開いた。

「お父さんは頭を何度も殴打された上、ロープで両手を縛られて大橋の橋梁から吊り下げられていた。あまりに高所だったので、下ろすために消防隊が出動したそうだ。お母さんは港湾地区で、車に十数回も繰り返し轢かれた状態で放置されていた。二人の乗っていたリムジンは運転手ごと、近くの海に沈んでいた。僕は……遺体の解剖に立ち会ったよ。その責任があると思ったから。君に伝えずに済むなら、伝えたくなかった」

 先生は一息にそう言った。

 アリサは、父と母のそんな姿を思い浮かべてみた。サスペンス映画の見過ぎなのだろうか、ショッキングな金管楽器主体のBGMが鳴る中で浮かび上がる、照明の当てられた遺体の姿しか想像することができなかった。

 でもきっと実物は、そんな程よく娯楽としてソフィスティケートされたものとはまるで違っているのだろう。もっと遠慮なく、汚く、容赦なく、心の隙を突くような姿をしているのだろう、と思った。傷跡だって血だって、不確実で不明瞭で曖昧で、一見してわかりにくく、それでいて悪意だけは強く滲み出ている。きっとそんなものなのだろうと思った。あいにくアリサは、本物の傷跡というものを見たことは、ほとんどないのだけれど。

 アリサは、あくまで静かに続けた。

「そうですか。犯人は」

「警察によれば、恐らく大規模な犯罪組織によるものだそうだ。犯行が大がかりすぎる、と。犯罪組織なんてものが、実在するんだね。僕も初めて知った。マフィアなのか、政治系なのか、金銭が狙いなのか、それとももっと、底知れない信念を持った連中がやったことなのか。それはまだ、これだけ時間が経ってもわかっていない」

 先生はこの話をして、すっかり疲れてしまったようだった。以前と比べて後退した額が、汗で光っていた。

「だから、インターネットでどれだけ調べようとしても、何も出てこなかったんですね」

 アリサは、困っている先生を助けてあげようと思い、話の矛先を変えた。父は大企業の創業者であるし、世に隠さなければならないこともたくさんあるはずだ。ところが先生は、さらに苦い表情になった。

「そう、だね。そう……その、君が見られるウェブサイトというのは、そう、必ずしも、全てのサイトではないんだ。わかるね? 別に、何か規制をかけようとか、間違っても悪意からそういうチェックをしているわけじゃないんだが、やはり、君の将来、君の人生に、僕はある程度以上の責任がある。ご両親が亡くなった今、なおのことそうだ。一方、インターネットというのはどんなものでも野放図にされているわけで、まだ若い君の目には触れない方がいいものというのも、たくさんあるんだ。だから最低限、僕の監修というか、チェックを経た上で、アクセスできる先というのはある程度の制限を」

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