第5話
アリサはディスプレイから目を離した。自分の周囲を見る。真っ白な壁と天井と床が、自分を囲っている。この小さな小さな部屋で、今までの人生のほとんどを生きてきた。不満は無数に感じてきた。同年代の友だちがほしい、学校に行きたい、遊びたい、動物を飼いたい、植物を愛でたい、太陽を浴びてみたい。言い出したらきりがない。でも、不信を抱いたことはなかった。特に、ルジンスキ先生には。
先生はいつだって、アリサの味方だった。両親と衝突した時も、先生は護ってくれた。悩み事があれば、話は何でも、どんなときでも聞いてくれた。アリサのことを、両親以上に最優先してくれた。これまでそれは、愛情が故のことと思っていた。
アリサの周囲にいる人は、誰もが彼女のことを大切にしてくれる。でもそれは、アリサが護ってやらなければならない弱い存在だからだ。小動物に接しているようなものだ。まともな倫理観を持った人間なら、優しく、注意を払って彼女に接する。そして肉体的のみならず、精神的にも傷つけないよう気をつける。
別にアリサ自身は、自分のことを心の弱い人間だとは思っていなかったのだが、周りの人間は明らかに彼女に気を遣っていた。それは単に、彼女が富豪の家の一人娘だから、というだけではないだろう。皆、こんな生活を送っているアリサのことを、可哀想だと思っているからだ。だから誠心誠意、優しく接しようとする。
けれど、ルジンスキ先生は違う。そうアリサは感じていた。先生は、アリサに対して哀れみは抱いていない。彼女に向き合う時、先生は他の人に接する時と変わらない真摯さを見せてくれた。いい加減に聞き流すことも、重病人という枠に嵌め込むこともせず、アリサという一人の人間として見てくれている、と思っていた。
彼はおかしな人物なのだろうか? 信用してはならない人物なのだろうか? そもそも自分の置かれているこの環境は信じてはならないのだろうか? 外で何が行われているのか? 自分は何に巻き込まれているのか?
自分の見慣れた、いや、唯一無二の部屋、この小さな真っ白な世界が、急に自分を押し潰そうとして迫ってきているような気がした。アリサはリナからのメッセージに、「読みました」とだけ返した。
それから一時間後、SNSを改めて見返すと、すでにリナからのメッセージは、アリサの返信ごと削除されていた。
疑い始めると、何もかもが疑わしく思えてくる。アリサは湯船に静かに浸かりながら考えていた。身体を過度にタオルでこすったりはしない。泡をたっぷり付けた柔らかいスポンジで全身を撫で、特製のシャンプーで髪を軽く洗うだけだ。
以前ルジンスキ先生に、この風呂で使われている水はどんなものなのか尋ねたことを、アリサは思い出した。想像に反し、しっかり殺菌処理されている程度で、市販されている軟水のミネラルウォーターと相違はないらしかった。先生はそのときも、誰よりも優しく接してくれた。誰よりも自分のことを、尊重してくれていた。
アリサが顔を上げると、イライザはにこにこしながら、バスルームの隅に立っていた。バスルームにいる時は、彼女も意味もなく着衣を脱いでいる。彼女は裸体も、アリサより数段美しかった。
「今度は何の用?」
癇に障ったので、アリサはイライザを睨む。イライザは肩を竦めた。
「八つ当たりの相手にするのはやめてよ。珍しく生き生きしてるから、頭を使う対象ができてよかったなと思って。相談相手ぐらいにはなってあげるわよ」
「冗談じゃない。自問自答してるのと変わらないじゃない」
「そんなことないわ。私はあなたの一部だけど、人としてはあなたと別の人格よ。考え方も違う。知識も違う。必ずしもあなたと同じ発想をするとは限らない」
嬉しそうにイライザは言う。確かに、今までもイライザは、アリサに反論、反抗してくるだけでなく、全く思いもよらない返答をすることがままあった。アリサ自身には決して浮かばないような考え方だ。それにこんなこと、相談できる相手は他にいない。独りで考え込んでいるよりは多少はましだろう、とアリサは思った。
「じゃあ訊くけど、あなたはルジンスキ先生がおかしな人だと思うの?」
「おかしなって? リナが書いていたように、金銭目的であなたを抱え込もうとしているっていうこと? まるで大昔、少年のまま即位した王様に執政がついたみたいに。ましてアリサは、大人になってもこの部屋から出られないんだものね。こんな都合のいいターゲットはいないわ」
今、両親の遺産がどうなっているのか、アリサはほとんど何も把握していなかった。興味がないのだ。それも当然で、この「ルーム」から出られない上に外の物品を持ち込むこともできないのだから、金がいくらあったところで使い途はない。リナがいた頃は運用方法を一つ一つ教えてもらっていたが、今の弁護士はろくに説明もせず、ただアリサにサインを要求してくるばかりだった。イライザは微笑む。
「ルジンスキ先生が管理しようとしているのなら、使い込みも自由自在ね」
「うん。でも」
アリサは俯いた。正直言えば、別に構わなかった。先生には生まれてこの方、これだけ世話になっているのだ。むしろ普通以上の謝礼をするのが当然だろう。もちろん、両親の遺産には様々な利権が絡み合っているのだろうし、「外」の人々にとってはそれが誰の手に渡るかが重大な問題に違いない。先生以外にも、手に入れたい人は大勢いるだろう。でも、アリサにとってはどうでもいいことだった。たぶん自分は、金銭というものの価値や意義を虫や動物並みに認識していない人間だろう、とアリサは思う。
「別に先生がほしいのなら、あげたっていい」
「確かにそうね。『私たち』が生きていけるだけの管理をしてくれるのなら、後はどうなろうと知ったことじゃないわ」
イライザは「私たち」という表現を使った。彼女はしばしば、この言葉を使う。それもアリサはあまり好きではなかった。当然アリサが死ねばイライザも消えるのだから、間違いではないのだろうけれど。聞く度、アリサは気持ち悪く感じた。イライザが身体に絡みついてくるような心地がした。そしてイライザは、続けて意地の悪い表情を浮かべた。
「でもね、問題は、彼の目的がお金じゃなかった場合よ。そうじゃない?」
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