第4話

「佐代子」

 先生が懐から抜いたものは、鈍く光る回転式のピストルでございました。

 灰皿を探している奥様は、それに気付きません。

 なんとかしなければ。わたくしはそう思ったのですが、どうすれば良いか、まったく考えられない状態でありました。

「お妾が欲しいのでしたら、それくらいは容認します。……ああ、あったわ」

 奥様は灰皿を見つけ、葉巻の灰をきれいに折りました。もう一度葉巻をふかし、振り返りながら話を続けます。

「もちろん、雪子の見え…………ひっ」

 浮気をするなら雪子様に気付かれないように。奥様はそういった意味の言葉をおっしゃるつもりだったのでしょう。しかし、黒い筒に射すくめられ、それは言葉になりませんでした。

 わたくしは迷いました。

 奥様の見を案じる気持ちは、これっぽっちもありませんでした。

 ただ、奥様がいなくなる利点と、先生が犯罪者になってしまう危険と、そのどちらを選ぶべきか、わたくしは迷ったのでございます。あさましいことではございますが、わたくしには、先生以外に大事な人など一人もおりません。

 迷いましたが、わたくしは冷静でした。ピストルは伍長からプレゼントされたものだろうと、推測することすらできました。その一瞬だけ、そんなものを寄越した伍長を恨みました。人が人を殺さないのは、その機会がないから、というだけの理由なのです。

 銃器を持つ。それだけの行為で、人間は自制心をなくしてしまうのです。

 先生は人殺しが似合うお方ではありません。たとえそれが、私の勝手な思い込みだったとしても。先生に似合うのは、ピストルよりもチョークでございます。火薬の匂いではなく、あの、不思議な匂いでございます。

 先生を止めるべきだと、わたくしは考えました。

 わたくしは部屋に飛び込みました。その勢いを止めず、先生の足に体当たりをしました。

「マリア!?」

 不意をつかれた先生がよろけます。再度の体当たりで、先生は簡単に転びました。次はピストルを奪わなければなりません。わたくしは先生の体に覆い被さり、足で胸を押さえつけました。しかし、わたくしの軽い体を先生は易々と跳ね飛ばします。

 奥様が悲鳴を上げながら逃げていくのが、ちらりと見えました。先生もそれに気付きました。床に尻をつけたまま、ピストルをそちらに向けたのです。わたくしは先生に飛びつきました。

「うわっ!」

 驚いた声と、銃声。とっさに力を入れてしまったのでしょう。ピストルから弾丸が発射されました。廊下側の壁に、黒い穴が二つ続けて開きました。

 先生は呆然と、壁の穴を見ておられます。

 わたくしは先生の隣に立ちました。お顔を見て、それからピストルを見ました。

 すでに奥様の姿は見えなくなっておりました。その代わり、階下がやにわに騒がしくなって参りました。使用人が銃声を聞きつけたのでありましょう。男性の声が多かったようでございます。お客様はまだ、帰っていなかったようです。途切れ途切れに、銃、警察、人殺し、などという単語が聞こえてきました。雪子様の声も混じっていたように思えます。

 先生は焦点の合わない目で、じっと手の中のピストルを見ておりました。

「……僕は、なんてことを」

 そう言った直後でございます。

 先生は右手を持ち上げ、銃口をこめかみに押し当てました。

 止める間など、どこにもございませんでした。

 意外に軽い音が一つだけ響きました。

 わたくしを見て、一瞬、なにか言おうとしたようでございました。

 いえ、それはわたくしの錯覚でしょう。

 先生は目を閉じて仰向けに倒れました。かすかな後悔と、「解放された」とでも言うような表情を浮かべておられました。

 すぐに、動かなくなりました。

 わたくしの目の前に、先生の右手が投げ出されておりました。ピストルは握ったままでございます。

 わたくしはそれを見ました。

 それを思い出したのは、なぜでしょう? わたくしには、わたくしの考えていることが理解できませんでした。

 ただ、今しかないのだ、と、それだけを思っておりました。

 あの欲望を満たす時は、今をおいて他にない、と。

 先生の手に、顔を近づけます。あるはずの匂い――チョークと煙草の匂い――はどこにもなく、そこにはただ、火薬のおぞましい臭いだけがありました。

 わたくしは目を閉じ、ゆっくりと口をあけ、ピストルを握る先生の、右手の親指の付け根に歯を立てたのでございます。

 そこに、期待していた甘美なものは、なにもありませんでした。

 ただ、肉と血と、それによく似た鉄の味があっただけでございます。


※ ※ ※


「ええ、もうね。とても頭の良い子なのですよ」

 事件の後しばらく、香宗我部佐代子が持ち出す話題は、いつもそれだった。

 婿養子が妻にピストルを向けた――それは確かに醜聞ではあったが、それだけに、他人の興味を引くにはうってつけの話題だった。

「マリアにはきっと、あの人がああいうことをしそうだとわかったのでしょうね。いつもあの人を見ていましたから。とても、素晴らしいわ。あの人が自殺した後も、ピストルを取り上げようとしていたくらいですから。とても賢いでしょう? 今は私の部屋に住まわせてあるのよ。おかげで安心して眠れるわ」

 この話を聞くのが二度目の学園理事は、内心呆れながらも、香宗我部家に睨まれてはたまらないとばかりに、形ばかりの関心と、下心を包み隠す笑みを浮かべるのだった。細かい事情は知らなくても、いや、それだからこそ、香宗我部家で何が起こったのか、この理事は察することが出来た。だからこそ、佐代子の漏らした何気ない一言を聞き返さないのだ。

「いやはや、ご無事で何よりでございます」

 つまりは、どうにかして香宗我部家と関係を深めたい、そういう下心である。彼らにとって大事なのは、学園運営の為の資金提供者の存在であり、それが誰であるか、ではないのだ。

 別の理事が、わざとらしいため息をついた。

「うちのは吠えるばかりでね、客の顔も覚えちゃくれない。うらやましい限りです」

「あらあら。残念ですけどマリアは差し上げられないわ。あの子は私の命の恩人、いえ恩犬なのだから。……失礼、そろそろ戻りますわ」

 佐代子は表面だけの笑顔を浮かべて、その理事を見上げた。


 良平が死んでからのマリアは、ずっと、窓の下で目を閉じている。佐代子の部屋は調度品にしろ手入れ具合にしろ立派なものだが、そんなものは彼女の興味の範囲外だ。こんなところに移されたことも心外ではあったが、気にはならなかった。米軍基地でも屋内で育てられたマリアである。土が恋しいわけでもない。

 マリアはただじっと、主人の帰りを待っている。

 表でエンジンの音がして、マリアは顔を上げた。

 窓枠に体を預けるようにして立つ。

 庭には佐代子と運転手を勤める使用人の姿があった。良平はいない。

 長い毛に覆われた美しい尻尾が、力なく垂れ下がった。

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牙の夢 上野遊 @uenoyou

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