第3話

そうして、梅雨の明けたある日、伍長は米国へと帰りました。細君と仲睦まじく過ごして欲しいと、私は願っております。

 一方のわたくしは香宗我部家のごやっかいになることとなりました。香宗我部家は先生の他に、先生の細君である佐代子様。お嬢様である雪子様の三人。それに、数人の使用人が住んでいらっしゃいました。伍長の言っていたとおり、お屋敷はとても広く、母屋には夫妻だけが寝起きしておりました。雪子様は庭に建てられた小さな離れ、使用人には彼ら専用の別棟がございました。この中では母屋が一番新しく、空襲で焼けてしまったものを再建したものなのだそうです。明治のものとはまた少し違う作りの洋館で、二階建ての小奇麗なお屋敷でございます。

 わたくしの住居は雪子様の離れから少し奥に行ったところの、一部屋しかない小屋でございました。わたくしが来る前から、話はそう決まっていたようでした。このようなことは、さして珍しいことではございません。戦争が終わってから、すでに何年もが経過しておりましたが、巷には親類縁者のない人たちがまだ大勢いたようです。たまたま、他人より先に生活を安定させた方々は、そのような者に手を差し伸べ、養う気持ちがあったのです。香宗我部家はまさにそれでした。使用人のうち二人が、雇われたのではなく、拾われた人間でした。庶民の間でも、商売をしている家であれば、身寄りのない職人見習いの一人や二人は普通にいたのです。空襲という共通体験が、人々に互助を思い出させたのでありましょう。

 ですが、わたくしの存在を、奥様は疎んじておられました。これについて、わたくしから申し上げることはございません。人には好みがございますから。わたくしが役に立たない存在であったからかもしれません。


 しばらくの間、先生はわたくしの存在を忘れてしまったかのようでございました。

 わたくしの相手をしてくださったのは、主に雪子様でございます。

 雪子様はわたくしを気に入ってくださったようでございます。勉学に疲れた時など、お菓子を持ってわたくしのところにいらっしゃいます。わたくしが知った香宗我部家の現状などは、雪子様と、使用人の方々からうかがったのでございます。聞き役としては、いくらかの価値があったのでございましょう。

 香宗我部家は名門の家柄、一人娘である雪子様には、相当な期待がかけられておりました。教養を身につけ、一人前のレディとなることを望まれていたのです。雪子様はそれを堅苦しく感じれておられるようでございました。息抜きのお喋りに反論されたのでは、雪子様もたまらないでしょう。

「これからは女の時代である。なので、お花も茶道も必要ない。もっと実務を知るべきだ」

 雪子様はそのように漏らしておりました。学のないわたくしは、あいまいにうなずくばかりです。実を言いますと、これは雪子様の意見ではなく、雪子様のお父上の――つまり、先生の口癖なのです。ですが、先生が女学校で教鞭をとっていらっしゃることとは、直接の関係はございません。それは学園と香宗我部家(の財力)の因果でございます。


 先生は香宗我部家の婿でございますが、その結婚は愛情の帰結ではございませんでした。これに関しては、先生も奥様もお認めになってらっしゃいます。ご結婚はもちろん、太平洋戦争の前の話でございますから、「男の時代」の論理が大きかったのでございます。奥様のご両親(空襲でお亡くなりになられましたが)は、世が不安定になる前に、娘に良い相手をあてがっておきたかったのでしょう。

 先生は、これを申しますと不都合があるやも知れませんが、戦争に行きたくなかったのでありましょう。お国の威信よりも書物が大事という方でございますから。また、香宗我部には、赤紙の一枚くらいはどうにでもなる力がございました。それだけの理由です。


 しかしながら、愛情がなくても、共に寝起きしておればある程度の気持ちは伝わるものでもございます。先に雪子様の言葉として紹介した、先生の展望を、奥様も受け入れてしまったのです。

 それが恐らくは、不幸の始まりだったのでありましょう。

 奥様が古い考え方のままでいられたなら、貞淑な妻と理知的な夫と言う、平和な家庭が続いていたのでしょう。

 ですが、奥様は先生に感化され――悪く言えば「野心」を抱くようになってしまったのであります。「これからは女の時代だ」女であっても、相応の実績を示せば社会参加ができる、とそう思われてしまったのです。奥様は香宗我部家の名前と財力を利用して、学園の経営に乗り出しました。ゆくゆくは、各地で私立校を運営しようと考えておられたようです。


 もちろん、今はまだ女の時代ではありませんから、奥様が表立って切り盛りするわけには参りませんでした。そこで、奥様は先生にも、経営参加を促し――いえ、強要に近いものだったように、わたくしには見えました。先生としては、己の展望は、雪子様の世代か、それよりも少し先の未来の話だと捉えていたようです。世の中が一気に変わることなど、戦争などの破壊以外にはあり得ないことだと考えておられました。お二人の意見の食い違いはそのまま、奥様の癇癪という形で表面化することとなりました。わたくしが数えていた限りでも、週に五枚の皿が割られておりました。奥様の上げた金切り声は、その十倍以上でございます。

 そんなとき、先生は何も言い返さず、煙草を持って庭に出るのです。母屋から少し離れて、夜空を眺めておられました。そのはかなさは、わたくしの心臓を痛めるのに十分な悲しみを持っておりました。先生は煙草を一本だけ吸い、奥様をなだめる言葉を考えながら母屋へと戻るのです。

 わたくしはそれを、小屋からじっと見ているしかできません。

 先生を励ますことも、愚痴を聞いてあげることも、そばによることさえできず、

 あの、あさましい欲望を募らせながら、先生をじっと見ていたのでございます。もう一つ正直に申しますと、そうやって、先生と奥様の仲が悪くなることを、心のどこかで望んでもいました。夫婦に諍いがあるたびに、先生はお庭に出ていらっしゃいます。わたくしは先生のお姿を見る機会を一つ、得られます。

 ああ、まったく、自分勝手でわがままな感情であります。先生の姿がお屋敷に消えると同時に、わたくしはひどい自己嫌悪に襲われるのです。

 そして、こうも考えてしまいます。

(わたくしであれば、先生を困らせたりはしないのに)

 恐れ多くも、奥様に取って代わることまで夢想しました。そんな自分を恥じながら、わたくしは小屋の奥にうずくまるのです。



 そう言った暮らしに変化が起きましたのは、私がお屋敷に来てから半年ほど経った、よく冷えた雪の日でございました。

 雪子様の誕生日のお祝いと言うことで、ご学友の方々が何人かいらしておりました。また、それに名を借りた、学園の経営に関わる懇談会が、奥様の主導で開かれておりました。わたくしはどちらにも参加しておりません。一人、小屋の中から、雪化粧の完成する様子を眺めておりました。

 わたくしの小屋には暖房などありませんから、あるだけの毛布をかぶっていないと、足の先が痛くなるような気温でございます。しかし、空気は清冽で、わたくしの思考はとても澄み渡っておりました。考えることはいつものとおり、しかし、結論が出たのは初めてでした。

 先生は離婚すべきである。

 わたくしは、そう結論致しました。世論がそれを許さないとは理解しております。しかし、夫婦の溝は飛騨の山々より険しく、渡る風は、東北のやませより冷えていたのです。こうなっては惰性も体面も、雪子様の存在ですら、お二人の間を取り持つ効果は期待できません。

 人はやり直せる生き物でありますから、そうするべきだとわたくしは悟ったのです。そこに、できるものなら先生を独占したい、とするわたくしの願望が含まれていることは否定しません。

 先ほど、雪子様がご学友の方々と、離れに入るのが見えました。ご学友の一人が私を指差し、こう言われました。

「あれがマリアちゃん? 可愛いね」

「でっしょう?」

「アメリカの生まれと言うのは違うものですね」

 わたくしに向こうの血は流れていないのですが、幸子様は勘違いしておりました。これは恐らく、先生がわたくしの出自を端折って説明されたからでありましょう。雪子様たちは舶来の菓子の包みを一つ、わたくしにくださいました。しばらくして、離れからはヴァイオリンの響きが聞こえてきます。雪子様は楽器をたしなみませんから、ご学友の誰かが弾いていたのでしょう。音楽の良し悪しは私にはわかりかねますが、丁寧で、気持ちの良い楽曲でございました。

 わたくしはうっとりと目を閉じ、先生と踊るところを想像しました。それはなんとも甘美な夢でございます。決して叶わない幻でございます。


 わたくしのような卑しいものでも、夢を見るのは自由だと思いたいのです。想像の中でだけなら、わたくしは先生と語り合い、頬を触れさせ、髪の匂いを感じることができるのです。唇に吸い付くことすら、夢の中なら自由です。

 しかしそれでも、あの欲望だけは、かなえられないのでございます。幻がそこまで行きついたところで、わたくしの欲望は、貧相な頭からあふれてしまうのです。熱っぽいため息と自己嫌悪だけが残るのでございます。

 ほてった頭を冷やすため、私は小屋から出ることにしました。都合の良いことに、空気は雪の結晶が見えるほどに冷えておりました。離れのヴァイオリンは、曲目を明るいものに変えて続いておりました。静けさが欲しくなったわたくしは、自然、母屋のほうへと足を向けました。

 その時でありました。

「もうたくさんだと言ったのだ!」

 母屋の二階から、先生の声が聞こえました。見上げると、大きな窓のある一室に、先生の後ろ姿がありました。

「そんなこと、僕の知ったことではない!」

 ただごとではない、とすぐに感じました。先生が大声を上げたということが、にわかには信じられなかったのです。やもたてもたまらず、とはこういうときのことを言うのでございましょう。わたくしは母屋の玄関に走りました。幸いにして、ドアは開いておりました。雪子様が閉め忘れていたのでございましょう。一瞬の躊躇の後、わたくしは初めて、母屋に足を踏み入れました。吹き抜けの広い玄関ホール。大きなシャンデリア。肖像画はございませんでした。古いお屋敷にはあったのでしょうが、今は、誰の筆とも知れない風景画がいくつかかかっておりました。ホールの両脇には、ゆるい曲線の階段。二階の廊下はテラスになっており、中央に、奥へと続く廊下がありました。お客様らしい方の声は聞こえません。もうお帰りになったのでしょうか? 表に出て車を数えればわかることでしたが、わたくしにとって重要ではありません。わたくしは右の階段から二階へ登り、そこから、足音を忍ばせて廊下を進みました。いけないことをしている、と小さな罪悪感を覚えました。

「ああ、そうとも」

 先生の声が聞こえます。外から見た部屋のようでした。内側に開かれたドアの、ちょうつがいのあたりに、わたくしは耳を寄せて息を殺しました。

「君のおかげで僕は戦争に行かずに済んだ。教師も続けていられる。そのことについては感謝しているし、なるべく報いたいとは思ってきた」

 先生の声です。大きさは普段に近くなっておりましたが、やはり、声音には感情が色濃く出ておりました。怒りと、失望でございます。

「過去形でいらっしゃるのね?」

「言葉遊びをするつもりはない」

「あなたが始めたのです」

 奥様の声は、先生よりもずっと落ちついておりました。政府や財界のお客様にそうするように、ゆっくりと話しておりました。

「私に報いるのであれば、なぜ、この話を受けてくれないのかしら?」

「僕の専門ではないからだ。経営は教育者の仕事ではない。理事会になど参加したくもない」

 先生の声はどんどん低くなっていきます。まるで、爆発する前の窯を思わせる声でございました。

「君がやれば良かろう。皆、君の能力は疑っていない」

「香宗我部の、ですわ。私の力だとは思っていませんし、女の私にそれがあると認めはしないでしょう。婿であろうがなんだろうが、当主はあなたなのです」

「だから……」

「だから、あなたに表に立っていただけないと困るのですよ」

 マッチを擦る音が聞こえて、甘ったるい臭いが感じられました。それが煙草だとはすぐにわかりましたが、先生が普段お吸いになっている、紙巻のものの匂いではございませんでした。そっと様子をうかがうと、吸っているのは奥様でした。奥様も煙草を吸われるということが、わたくしには驚きでございました。やはり、お客様の姿はありませんでした。もう帰られてしまったのか、さもなくばどこか別の場所に大きなホールがあるのでしょう。

「つまり、君は僕に、君の意見を理事会に伝える伝声器になって欲しいわけだ」

「そこまで卑下なさらなくてもよろしくてよ」

「それは侮辱だと……」

「思いませんわ。この国の役人の半分がやっていることです。残りの半分が、実務担当」

「…………」

「繰り返すけれど、今のあなたは香宗我部の当主なのです。あなたに選択権はありませんよ。……離婚も含めてね。そのような恥ずかしいこと、許しません」

 奥様は葉巻をふかしておられました。灰が長くなってきたところでありましたので、奥様は先生に背を向け、灰皿を探します。

 この時、先生の胸中にいかなるものが流れていたのか、わたくしに知る術はございませんでした。先生は見た目だけはまったくの冷静さを保って、背広のポケットに手を入れたのでございます。自分も煙草を吸って落ち着こうと考えたのでしたらよかったのですが、ああ、なんと言うことか、

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