第2話

 先生――香宗我部良平様は女学校の教員をなさっておられると言うことで、英語も堪能でございました。お二人の英語の会話は、もちろんわたくしにも理解できました。人との会話は苦手でしたが、耳の方は人並み以上に良かったのございます。

 先生は宿舎の散らかりように顔をしかめておられました。伍長は先生を見て、ばつが悪そうにうなじを掻きました。

「悪いね、引越しで大忙しさ」

 伍長は英語でそう言いましたが、半分は嘘でありました。彼の部屋は普段から散らかり放題です。

「良い。めでたいことだ」先生はおっしゃいました。「ちと急ではあるけどね」

「帰るしかない。あんな手紙を寄越されちまったら」

「どんな内容だったのですか?」

 伍長は荷造りが途中の木箱に腰掛け、大げさに両手を広げました。

「イート・ミー・プリーズ」

 伍長はゆっくりと、一語ずつ区切ってそう言いました。先生には、意味が通じなかったようでした。ごく単純な、それこそ教科書に出てきそうな構文ですけど。わたくしなりに意訳すれば「食べられたいくらい愛している」でございましょうか。伍長は細君のことをしばしば「マイ・スウィーツ」と言っておりましたから、わたくしにはすぐ意味がわかりました。

 とても素敵な言葉だと思いません? 

 私が先生に「噛みつきたい」と思うのも、この伍長の言葉があったからなのです。


 さて、伍長と先生はお互いの近況やその後の連絡先、日本と米国の関係などについて、意見を交し合いました。いくつか政治的な見解と、お互いの国家の先行きに間するものもございましたが、二人は持論を譲りませんでした。雑談を雑談として流さない習性を、二人とも持っていらしたのです。それが一段落した所で、伍長は言いにくそうに先生を見上げました。背は伍長の方がずっと高いのですが、その時伍長は木箱に腰掛け、先生は立ったまま窓の外を見ておられました。

「リョーヘイ。日本を離れるにあたって、一つ頼みがあるんだ。もちろんそれなりの礼はする」 

「うん?」先生は振り向きませんでした。ちょうど、偵察機が離陸したところでありました。「お礼?」

「そっちから聞くか」

「本題は言いにくそうだからね」

 伍長は少し頬をゆがめてから、木箱の陰にあった、厚手の本のようなものを、先生に渡しました。それは本ではありませんでしたが、黒い皮表紙のような蓋がついておりました。中身は、わたくしからは見えませんでしたが、先生はそれを見て、顔をしかめました。

「物騒だね」

「必要になるかも知れないだろ? リョーヘイの近況を聞いた限りだと」

「まさか。佐代子はそこまでしないよ」

「一見まともなやつほど、いざって時の行動はすげえもんだよ。それにな、よっぽどのところに当てない限り、大事には至らない。持ってれば牽制にはなる」

 伍長の物言いはよくわかりませんでした。わたくしが先生を見たのはこの時が始めてでしたので、もちろん、先生の置かれている状況も、知りません。

 結果だけを申しますと、先生はその黒い箱のふたを閉じて、脇に抱えたのでございます。伍長はそれを確認して、両手の指を組みました。

「で、頼みの方は?」

「……マリアを引きとってくれないか? 俺は船で戻るんだが、それにはどうしても乗せられないんだ」

「マリア?」

「出ておいで」

 説明するより見せた方が速いと、伍長は判断したようでございました。わたくしが耳をそばだてていたことも、承知だったのでしょう。わたくしは隣の部屋のドアの陰から、這い出しました。


「これが? ……うん。可愛いね」

 先生はわたくしを見て、にっこりと微笑み、手を差し出してくださいました。

 その時でありました。私の胸の奥に「噛みつきたい」という気持ちが湧きあがったのです。

 理由はうまく申せません。簡単に「一目惚れ」と言うこともできなくはないのでございますが、心の動きを言葉で完全に表すことは不可能でしょう。先生がまとっていた知らない匂いや、穏やかでいて、しかし何もかも閉じ込めてしまいそうなな黒く深い瞳や、短く切りそろえられた爪や、うまく言えない、不安定なたたずまいなどに引き込まれてしまったのでございます。サイケデリックな内面を隠すナチュラルな偽装――申し訳ありません。わたくしにはうまく言えません。ただ、確かなことは、そこにいたのが、わたくしがこれまで一度も見ることのなかった人間の姿であった、ということでございます。

「どうだ? お前なら気に入ると思っていた」

 伍長がにやりとした。

「まだ、なんとも言っていないのだけど」

「可愛いと言ったじゃないか」

「それは、まあ……そうだな。それは認める」

「なら問題ない。慈善事業だと思って。お前の家、広いんだろ?」

「広いことは広いけどね……」

 先生は言葉を濁しました。

 後になってわかったことでございますが、先生は香宗我部家の婿養子でありました。家族に関わる問題を、一人で勝手に決めるわけには行かなかったのでしょう。

「なら決まりだ。こいつも役に立つかもしれないだろ?」

 この時、わたくしはすでに、先生のところへ行きたいと思っておりました。ですから、即座に行動にうつっておりました。具体的には、先生の足に擦り寄っていたのでございます。はしたないとは自覚しておりましたが、わたくしには、己の気持ちを言葉で伝える方法がなかったのでお許しください。わたくしにとっては、体こそが、言葉の代わりなのでございます。

 先生はわたくしの頭に手を置き、

「しょうがないな」とおっしゃいました。

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