牙の夢

上野遊

第1話

「――噛みついても良いですか?」

 もし、そう尋ねたなら、先生は一体どんな答えをしてくださるのでしょう。

 そのようなことを考えるわたくしは、おかしいのかもしれません。しかし、近頃わたくしが考えることは、そのことばかりなのでございます。

 あの人の肌はどんな味なのでしょうか。

 きっと、煙草とチョークの味がすることでしょう。いいえ、意外性も何もない、汗の匂いと塩の味しかしないかもしれません。どちらであるかわからない。そのことこそが、もしかしたら大事なことなのかもしれません。ああ。でも。わたくしはあの方の肌に舌をはわせ、できることなら歯を立てたいと願ってやまないのです。


 もちろん、わたくしには食人嗜好などございません。あの方の命を奪い、肉を食らいたいのではありません。そのような恐ろしいことが、どうしてできましょうか。

 わたくしの欲望――そう、欲望でございます。それがどうして噛みつくことにつながるのか、それは説明しないとわかっていただけないでしょう。それには、わたくしの生い立ちを語る必要がございます。退屈だろうとは思いますけれど、少々お付き合いくだされば幸いと思います。


 わたくしは金網に囲まれた、海に近い土地で生まれました。母は私を産み、間もなく亡くなったと聞いております。極度の栄養失調だったそうです。母の世代ではさして珍しいことではございません。戦争はしばらく前に終わっておりましたが、人々の暮らしはまだ、死と隣り合わせのものでありました。母はその日の食べ物にも困る生活の中、それでもわたくしを産んでくださいました。

 母がわたくしを産み落とした場所は、燃料と異国の匂いが染み付いた場所でございました。

 ええ、どちらも、この国では珍しいものでございます。

 わたくしは生まれてすぐ、飛行機の爆音に驚きました。信じてはいただけないかもしれませんが、わたくしには、それが何の音であるかしっかりとわかったのでございます。そこは、日本の中でただ一ヶ所、食うにも寝るにも困らない場所でありました。在日米軍基地、でございます。母はきっと、己の命が終わるときを悟っていたのでありましょう。それでも危険をおして、基地に忍び込み、わたくしを生んだのでございます。そのおかげで、わたくしは飢えることもなく今日まで生きております。これが感謝できなくて、何を感謝すべきでしょうか。


 さて、そういった理由で、わたくしは己の血筋と一切関係なく、外国のような場所で育ちました。

 筋骨たくましい兵隊たち。剛健さを体現したかのような戦艦。人殺しの為に作られたとは思えないほど優美な造形の戦闘機。そういったものに囲まれて、わたくしは育ちました。

 わたくしを育ててくださいましたのは、キンダー伍長という方でございます。伍長は日本語をまったく話せませんでした。彼の友人たちも同様でしたが、基地に出入りする何人かの日本人がおりましたので、わたくしは言語に種類があることをすぐに知りました。これは幸いなことでした。生まれと育ちによって、同じような表現でも本質に違いがある場合もあると、知ったのです。人の言葉は、「誰が話したか」も含めて受け止めなければならないのです。

 キンだー伍長はやさしい方でした。身寄りのないわたくしを憐れみ、できる限りの援助をしてくださいました。彼にしてみれば、見知らぬ異国の任務の中の、ちょっとした慰みか気まぐれであったかもしれません。伍長はしばしば、本国に残してきた奥様のことを気にかけておりましたから。


 キンダー伍長は兵隊さんではありましたが、銃を持つ役目ではなく、飛行機の整備をするのが任務でございました。その日も、伍長は偵察機のパイロットから、レーダーの具合について長々と文句を言われたそうです。戦闘はなくても、ほとんど毎日飛行機の発着陸がございました。彼らが何と戦うつもりでいたのか、わたくしは存じません。

 その日もキンダー伍長は夜遅くまで作業し、その帰りに、格納庫の裏手に隠れていたわたくしの母――既に息絶えていたそうです――と、産み落とされたばかりのわたくしに気づいたのでございます。

 産まれた直後に母親を失い、そのままでは死ぬよりなかったはずのわたくしを見つけたのが伍長であったことは幸いでした。これが少尉殿であったなら、わたくしはその場で撃ち殺されていたやも知れません。(この時はそこまでわかりはしませんでしたが、後に、少尉殿がフェンスを乗り越えようとした日本人の子供を蹴って、大怪我させるところをわたくしは見ることになりました。)いくつかの、幸運という名前の偶然が重なり合って、わたくしは生を許されたのです。


 伍長はわたくしを見つけ、ひどく驚いたそうでございます。ただの格納庫でも、一応は機密のある場所でございますから、警備兵もしっかりと配置されておりました。わたくしの母がそれをくぐり抜けたことも、暗がりに母の亡骸と生まれたばかりのわたくしがいたことも、まず信じられないできごとであったのでありましょう。しかしながら、伍長はおやさしゅうございました。わたくしを油をふき取るためのぼろ布に包み、ひっそりと宿舎へと連れて帰ってくださいました。その後、少尉殿に母の亡骸の存在を報告したのです。

 その翌日、母は知らない日本人に運ばれて行きました。どこへ葬られたのかは存知ません。わたくしは、一度も母の姿を見ることができませんでした。

 わたくしは赤子でありましたが、伍長にも仕事がございましたので、四六時中見てもらっていたわけではございません。それが理由の一つでしょうか、わたくしは今になっても、人前でうまく声を出すことができません。しかし、伍長が私を大事にしてくださったのはわかります。どんなに忙しくても日に三度は様子を見に戻ってくださいましたし、食事がもらえない日はありませんでした。それは、この時代のこの国ではとても幸運なことなのでございます。日本が高度な経済的発展を遂げるのは、わたくしが老いてからのお話となるのですが、本筋とは関係ありませんね。


 そうして私は少しずつ成長しました。体が大きくなってくると、狭い宿舎に閉じ込められているのが苦痛と感じられるようになりました。わたくしは毎日のように、外に連れていってくれとせがみました。伍長もその必要を感じていたのでしょう。ある日の早朝、わたくしは伍長に連れられて散歩に出ました。高いフェンスに沿って歩きました。正直に申せば、そこが基地である、と理解したのは、その朝でございます。フェンスの向こうにいるのが、日本語を話す「日本人」であると認識したのも、その朝でございました。

「あっちに行ってみたいのかい?」

 わたくしがフェンスの向こうを見ていることに気付いたのでしょう。伍長はそう言いました。わたくしは静かに首を振り、伍長を促して宿舎に戻りました。フェンスの向こうにいた日本人たちは、いずれも荒み、ぎらついた目をしておりましたから、まだ幼かったわたくしは、単純に、向こうは危険な世界なのだと思ったのであります。


 さて、長い前置きも、そろそろおしまいでございます。

 わたくしは伍長に育てられて、年頃の娘に成長しました。自分で言うのも鼻持ちならないのですが、十人が見たら九人までが、わたくしのことを「可愛い」と言うでしょう。その頃には、フェンスの向こうこそが、わたくしのルーツである国だと、理解しておりました。しかし、わたくしがそちらに行くことになるとは、露ほども思わなかったのです。

 空が鉛色に染まる六月のある日のことでした。

 伍長が米国に帰ることになったのです。つまり、わたくしも、彼の宿舎を出なくてはならなくなりました。伍長はしばらく悩んだようですが、わたくしを米国に連れていくのはあきらめました。無理もない判断だったと思います。捨てられる、ともいくらかは思いましたが、それ以上に、伍長がいなかったらわたくしは死んでいたのでありますから、これまでのことを感謝する気持ちが大きかったのであります。


 その日、わたくしは初めて、「先生」にお会いしました。


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