呼吸を整えろ:Bパート シーン3

 風は窓から吹き込むのみならず、道場の中につむじを巻いて吹き荒れた。


 まるで風そのものが意思を持っているかのように、そして中の人間に襲い掛かるかのように、道場の中を暴れまわる。



「なんだ……これ……ッ!?」



 ユウキは吹き荒れる風から顔をかばいながら、目を凝らす。


 男はまるで、物理的な干渉を受け付けないかのように、暴風の中を真っすぐに立っていた。



「アキラ! ユウキ! 逃げろ、早く!」



 矢賀老人が叫ぶのが聞こえた。



「逃げろったって……!?」



 近くには膝を砕かれたセイスケも倒れている。他の道場生たちも、男にやられたのだろう、身体のどこかを怪我してその場に倒れていた。



「いいから早く!」



 戸惑うユウキに、また矢賀老人の声が飛ぶ。



「……もう遅い」



 男の声がした。


 そして、それと同時に、ユウキは自らに異変を感じていた。



「……ぬぉ……グアアアアアッ!」



 咆哮する声。


 脈打つ身体を抑えながら、ユウキは声のする方を見る。


 声を発していたそれは――道場の入り口で、担いだスポーツバッグを取り落とし、身体をかきむしって苦しむ、アキラ。



「おめでとう……君たちには『資格』がある」



 男が静かに口にした言葉を聞きながら、ユウキはまた、自らの身体と戦っていた。


 ――熱い!


 身体の中から、何かが蠢き、這い上がる。

 まるで灼熱の蛆虫に全身を食われるかのような。



「貴様……!」



 風の中を矢賀老人が、男へ踊りかかった。しかし、男はその打撃を避け、またもやふわりと浮かぶように跳ぶ。



「勘違いするな。彼らのは、私とは無関係だよ」



 板間に降り立った男の背後に、がいた。膨れ上がった身体、全体が爪と化したその手、肩口から突き出る尖った鱗、全身を覆う革の皮膚。そして、爛れて歪んだ顔。


 鋭い牙の生えたその口元から、酸の唾液を撒き散らかしながら、再びそれは咆哮した。



「ひぃぃッ……!」



 近くにいた道場生が、折れた足を引きずりながら逃げようとした。


 それを見たアキラは、耳まで避けたその口を歪ませた。笑ったのかもしれない。

 そして、後ずさるその道場生へと向かい――


 ――ザシュ


 次の瞬間、アキラの爪がその道場生の腹部を貫いた。



「……かっ……はぁぁ……」



 血を吐き出しながら悶える道場生の身体を、アキラはそのまま持ち上げる。そして、その鋭い牙の生えた口を広げ――そのまま、喉元を噛みちぎった。



「ククク……素晴らしいな。いい力だ」



 獣と化したアキラの姿を見て、男は笑い、ユウキの方を見た。



「君も、無理はしないことだ。このような素晴らしい姿に、早くなった方がいい」


「ぐぁ……かはっ……」



 悶えるユウキを一瞥して笑いを残し、男は踵を返した。


 男と入れ替わるように、アキラが道場の奥へと歩を進める。その先には、矢賀老人が立っていた。



「アキラ……それが貴様の、獣性か……」



 矢賀老人は唇をかみしめ、アキラを迎え撃つ。

 アキラは再び咆哮を挙げた。そして、その巨体を躍らせて――


 ズドン!


 アキラの長い腕が、板間を貫いた。

 矢賀老人はその場を跳び退り、それをかわしている。しかし、次の瞬間、床を貫いていたアキラのその腕が、板の床を破壊しながら上へと、跳ね上がった。


 ザシャァッ!


 アキラの爪が、矢賀老人の胸を切り裂いた。


 弾かれるように後方へ吹き飛んだ矢賀老人を、そのまま追うアキラ。逆の腕を振りかぶり、握り込んだ拳が、その小柄な身体を――捉えた。


 アキラの拳は、矢賀老人をその後ろの柱へと押し付け、そしてその衝撃は柱を折る。巨大な拳と柱に挟まれ、矢賀老人の身体は、力を失った。



「……先……生……」



 ユウキは自らと戦いながら、別の衝動と対峙していた。


 なんだ、あれは。

 先生だろうと、顔なじみの道場生だろうと、関係なく暴れまわる、あれは。


 それは拳をおろしてまた咆哮する。矢賀老人の身体が崩れ落ちた。


 あいつは――あれは、自分たちを傷つける悪意は。

 こんな風に、理不尽に蹂躙される自分たちは。


 胸の底から、湧き上がる炎、それは怒りか、憎しみか。

 全身を食い荒らす灼熱の蛆虫の感覚が、いつしか快感へと変じているのを、ユウキは感じた。


 あいつを――殺す。


 はらわたをぶち抜いて、喉を髪切り、背骨を引き抜いてやる。


 そうだ、やつらはいつもそうなんだ。


 だから俺は、この拳を――


 爪へと変じた指先に力を込め、裂け始めた口元から牙をのぞかせ、ユウキは獣の如く変じたその足を、前に――



「呼吸を整えろ」



 脇合いから、声がかかった。


 セイスケが動かない足をかばいながら体を起こし、ユウキへとその言葉を投げかけていた。



「呼吸が乱れてるぞ、ユウキ。それじゃだめだ」



 セイスケは真っすぐにユウキを見ていた。


 ――呼吸。


 ユウキの脳裏に、あるイメージが浮かんだ。


 幼いころの記憶。


 膨れ上がった悪意の影、拳を握る無力な自分。そこへ現れた、一人の小柄な老人。


 姉を犯そうとしたその暴漢を制し、振るえる姉を抱きしめた後、その老人はユウキの元へと歩みより、握りしめた拳を、その大きな手で優しく包んで、言った。



<それではだめだ。力の使い方を、君は知りなさい>



 ――矛を止める、と書いて、武。



「……止めるべき矛は、自らの中にある」



 柱と共に倒れていた矢賀老人が呟いた言葉は、ユウキの耳に入っていたか。



 ユウキは、その場で足を踏みかえた。

 その手を掌へと変え、右の掌を上に、左の掌を下に向ける。



「……そうだ。スイッチを……入れろ」



 セイスケがその様を見ながら言う。


 旋華――ユウキはゆっくりと息を吸いながら、その両の手で円を描き、丹田へと溜めた呼吸を巡らせていく。

 らせん状に巡らせた掌を胸の前へ引き、世界へ巡らせた気を、丹田へと戻すように、交差させた掌を、押し下げ――



「……変身……!」



 見開いたユウキの瞳に、月の光が閃いた。

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