呼吸を整えろ:Bパート シーン2

 道場の方へと回ってきたユウキとセイスケは、その場が異様な雰囲気に包まれていることに気が付いた。


 板の間の稽古場に、倒れている道場生が数人、そしてその真ん中に立っている男が一人――



「……あれは……?」



 白い肌に黒い帽子――その下から、切れ長の眼が覗く。


 昼間大学で見かけ、目を話すことが出来なかった、あの男。

 風を纏い、学生の中をする抜けるように消えていった、あの男――


 男は振り向き、ユウキと目が合った。

 片側の眼は黒く、そしてもう片側の瞳は紅く、禍々しい色を放つその目に射すくめられた瞬間、ユウキは全身の血が逆流するような感覚に襲われた。


 男が、その薄い唇を歪める。



「ほう……外れかと思えば、こんなところにいたか」



 土足のままのその足を、男はユウキの方へ向かって踏み出した。



「なんだお前は! 靴を脱げ!」



 セイスケが声を上げ、男に向かう。



「……うるさいよ」



 男は、向かってくるセイスケに向かい、右手を静かに掲げた。



 ――風が吹いた。


 ユウキにはその時、そのように感じられたのだ。

 そして次の瞬間、セイスケの身体は宙に舞い、板間へと叩きつけられる。



「ぐへっ!」



 セイスケの声が響いた。


 周囲で倒れていた道場生たちも目を見張る。セイスケが地に背をつけるなんていうことは、全くというほど見たことがないのだ。それに、今の技は一体――男がなにをしたのか、把握できたものは誰もいなかった。


 男はそのまま、倒れたセイスケに近寄り、脚を振り上げ――



「……やめろ!」



 男の意図を悟ったユウキが声を上げた時、既に男の踵は、セイスケの膝を踏み潰していた。



「これで邪魔されなくてすむ」



 声にならない悲鳴を挙げるセイスケに背を向け、男はユウキを見た。



「私の要件はね、君だけなんだよ」



 帽子の男はユウキへと迫る。

 ユウキはその様に目を奪われた。

 男のその左目、紅い瞳の光。

 その中に潜むに。

 それは完全なる悪意。絶対的な力。


 ああ、これは――


 ユウキの脳裏に、幼いころの記憶が蘇っていた。 

 悪意で膨れ上がった影。その向こう側で震える姉。それを見て拳を握りしめる自分の姿。


 そして、そこに現れたのは――



「狼藉はそこまでにしていただこう、お客人」



 ユウキの前に立ちはだかるように、矢賀老人がその小柄な身体を現した。



「先生……!」


「下がってなさい、ユウキ」



 男は矢賀老人を見、帽子の鍔に触れて笑った。



「私はこれでも、老人に敬意を払いたいタチでね……特にあなたのような達人にはね」


「これからの世の中は、老いぼれよりも若いものを大事にしてもらいたいものですな」



 そう言いながら矢賀老人は、するすると男へ歩み寄る。男は笑みを浮かべながら、セイスケの時と同じように右手をかざした――が、今度はしかし、何事も起こらない。



「……見事だ。完全な重心移動。さすがにこれではな」



男の口元から笑みが消えていた。

男の目前まで歩み寄った矢賀老人の手が一瞬、ゆらめく。男は飛び退って、そのから逃れた。

予備動作のない、いつの間にか繰り出されていた掌打が、一瞬前まで男がいた空間を弾いていた。



「かっ!」



 次の瞬間、男の紅い目が光る。


 それはユウキたちにもはっきりと見えた。

 男と矢賀老人の間――空間そのものが爆ぜ、衝撃が道場に走る。

 板の間が揺れ、窓ガラスが割れた。周囲の道場生たちにも、その余波が響く。しかし――空間の炸裂を至近距離で受けたはずの矢賀老人その人は、泰然としてその場に立っていた。いつの間にか、旋回させた両の掌を正面に向け、上下に構えている。背後の窓ガラスは左右だけが砕け、真後ろのものは無事だった。



「これもるか……やはり貴様、


「……」



 矢賀老人はその構えのまま、じりじりと前に出る。

 男は無表情にそれを待ちかまえ――



「……なんだ!? なんだよこれ!?」



 突然響いてきた声はアキラのものだった。


 道場の入り口に、スポーツバッグを担いだアキラが姿を見せていた。



「アキラ! 来てはならん!」


「え……先生……?」



 叫ぶ矢賀老人の声にも、状況が把握できないままでいるアキラを振り見て、帽子の男はまた、笑みを浮かべた。



「これはこれは……まさかもう一人いるとはな……」


「くっ……!」



 矢賀老人が踏み込みと共に突きを放つ。いつ踏み込んだか、傍から見ていてもまるでわからないような速度のその突きをしかし、男はふわりとかわした。


 矢賀老人と入れ替わって着地した男が、窓を背に立つ。窓の外には三日月が紅く、輝いていた。



「ちょうど時刻も頃合いだったな……」



 男がそう言うと、割れた窓ガラスから、風が道場の中へと吹き込んだ。


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