呼吸を整えろ:Aパート シーン2

「ただいま」



 誰もいない玄関に向かって、そう言葉を投げかける、それはユウキにとっていつものこと――だったが、その日は違った。



「おっかえりー!」



 居間から、陽気な声が返ってきた。



「姉ちゃん? 早いじゃん今日」


「おー! わが愛しの弟君よ!」



 テレビを見たまま、ビールの缶だけを掲げ、ユウキの姉――飛幡アリサが声を挙げる。



「原稿、締切今日だったんだっけ」


「一昨日だよ! 出したのは今日だけどねー」



 缶のビールを煽りながら、コンビニで買い込んだらしい惣菜をテーブルに並べ、一人で仕事の打ち上げを楽しんでいたらしい。

 いつも取材で家を空けているこの姉が、たまに帰るのはルポの原稿が上がった後、その時はいつもこの調子だった。



「待っててくれたらなにか作ったのに」


「あー、あたしコロッケ食べたいなー」


「まだ喰うの?」


「ユウキのコロッケならね!」



 苦笑いをしながら、ユウキは道着の入ったバッグを降ろし、キッチンでエプロンを身につける。



「今日も道場~? 頑張るよねぇ、弱っちぃくせにぃ」


「……ん、まぁね。でも、先生が」


「……矢賀さん?」


「うん。先生が、弱いなら弱いでいいんだ、って。だから俺、これはこれでいいみたいなんだ」


「……ふふ。あの人、変わってるよね」



 アリサの陽気な表情が、なにかを懐かしむような、噛みしめるような顔に転じた。そのせいか、賑やかだった部屋に沈黙が訪れる。



『……次にご紹介する噂はこちら!』



 沈黙の隙間を縫うように、ででん、という効果音と司会の芸人の声が響いた。


 ユウキはキッチンから顔を覗かせて、テレビの画面を見た。ネット上の噂を取り上げて話題にする、他愛もないバラエティ番組だ。

 芸人が掲げたフリップには「獣の風」と書かれている。



『じゅうのかぜ』


『いや、わざとらしいよ。そこボケなくていいから』



 スタジオからの笑い声。こういうのって録音なんだろうか、と思いながら、ユウキは何気なくテレビを眺めた。



『けもののかぜ、ですか。また胡散臭い話を』


『そういう番組だからね! いや実際これ、ネットでもかなり話題になってて……』


「……これなぁ、なんなんだろうなー」


「ん? 姉ちゃん知ってんの?」


「大衆紙記者を舐めるなよ」



 アリサはビールを煽ろうとしたが、生憎中身は空だったようだ。



「けどねぇ、こういう噂には大概、なにか出元とか、元ネタになった出来事とかがあるわけよ。例えば『くねくね』とかさ」


「あれは2ちゃんねるでの創作なんだっけ」


「そうね。それが噂として独り歩きしたってこと。『口裂け女』なんかにも、元ネタになった人がいるって言われてる。なんだけど、この『獣の風』ってやつはさ……」



 ちょうどテレビでは、噂を元にした再現VTRが流れているところだった。



『……その風が止んだ後、残されたのは、喉を食いちぎられたA氏の遺体だったという……』


「……こんなこと、あり得る? 『人を喰う風』だなんてさ……そうでなくても、これ出所がわからないのよ。一体、どんな出来事からこんな話になったのやら」


「作り話じゃないの? よくある学校の怪談的な……」



 ユウキは冷蔵庫から次のビールを取り出してきて、アリサに手渡す。



「大体さ、こんな話よりも他に、噂にするべきことがあるでしょうよ!」


「なに、まさかまた例の『悪魔』のこと?」


「あ、ユウキあんた、まだ信じてないのね!」


「アハハ、だって、ねぇ……」



それはひと月ほど前に、アリサが出会ったと主張する、怪物同士の戦いの話だった。

紅い瞳に、甲皮を纏った身体、眉間から伸びた角……「悪魔」のような姿のそれが、もう一体の怪物と戦う様を、アリサは目撃したと主張するのだ。



「しかもそれが、武術の技を使ってた、とか流石に、ねぇ……」


「あのねぇ、あたしだって城南派柔拳法の目録なのよ? いくら夜だったとはいえ、そこは見間違えないっての!」


「でも、命がらがら逃げ帰って来たんでしょ?」


「うん、まぁそうなんだけど……」



ユウキはアリサの話をそれ以上肯定も否定もせず、キッチンに戻った。アリサがその後ろで、新しいビールの缶を開けて呟く。



「絶対にもう一度見つけ出して……今度こそ取材してやる」



 その時、ユウキたちは知らなかった。


 同じ時間にその街に訪れた、その男のことを。



「風が吹くのは……明日か、その次か……」



 細くなった月の下、夜に溶けるように、その身を闇へ晒したその細面の白い肌、黒い帽子を目深にかぶった男のその口元が、わずかに笑った。

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