響く
オーライオーライという若い男の声が辺りに響いて、俺は何となくその声のした方へ視線を向けた。何処かで見たことのある制服に身を包み、複数人で大きな冷蔵庫をトラックへ運び入れようとしているところだった。不意に声出しをしている男と目が合って軽く会釈をすると俺は逃げるようにマンションに駆け込んだ。
途中、別の引っ越し業者ともすれ違ってあぁそういえばと思う。
マンションのエントランスで最近引っ越し業者を見ることが多くなった。まぁ、こんなご時世だし、こんな時期だし、田舎に帰るなり進学で上京するなりあるのだろう。近所付き合いもあまりないこんな都会ではその理由を聞く機会もない。他人は他人だ。俺には関係のないことだ。
部屋に入ると仕事用の鞄を投げ出し、ネクタイを緩めるとベッドにダイブする。あぁ、スーツが皺になる、そんなことを頭の片隅に思い浮かべながら微睡みに溶け込む。
……どん、どん、どん。
何処かでそんな音がする。辺りに響いているせいで音の発生源は分からない。でも何かを強く殴る音のような気もする。
嫌な夢だ。
警告音のような気もして重い瞼をゆっくりと開いた。手探りでベッドに置いていたはずの時計を手に取る。見れば2時を回っていてあぁ、と低い声が漏れた。
スーツが皺になる。真っ先にそれが思い浮かんで、まだ片足を微睡みに突っ込んでうまく動かない身体をゆっくりと動かす。脱いだものから順番にハンガーにかけ、軽くシャワーを浴びながらこれからのことを考える。あと数時間もすれば仕事に行かなければいけない。ならばこのまま起きていた方がいいのだろうか。いや。ふら付く身体には、少しでも休息を与えなくてはいけない気がしてベッドに入る自分を想像する。それがいい。
程よく温まった身体でベッドに潜り込み、朝を迎える。仕事に向かい上司に怒号を飛ばされながら蓄積する精神疲労を抱いて帰路に着く。代わり映えのしない日常。マンションのエントランスまで来て───あ、今日もか、と思う。
エントランスで昨日とは違う引っ越し業者のトラックが目に留まった。
「では、また1時間後に」
そう業者と会話している人物には見覚えがあった。確か同じ階の住人だったはずだ。向こうも見覚えがあったのだろう。その女性は俺の方に視線を向けるや否、「こんばんは」と声をかけて来た。
「こんばんは。引っ越しされるんですね」
日も落ちている時間だからだろうか。女性の顔色がやけに悪く見える。
「……そうなんです。こんなところもう長居したくなくて」
女性はそこまでいうとハッとしたように口元を押さえた。気づかぬ振りをして言葉を投げる。
「あぁそういえば、最近このマンション引っ越す人多いですよね」
俺の言葉に何故か女性はビクンと身体を強張らせた。
「皆さんこんなご時世だし都会から離れたいんですかね。不景気なのにこの辺は物価も家賃も高いですから」
そう続けると「気づいてないんですか……?」と消え入りそうな声で女性が呟いた。え?と聞き返すと「いえ、身体にはお気付けて」と引きつった笑顔を見せた。はぁ、どうも、と曖昧に応えると「ご無理はなさらないように」と踵を返していってしまった。
……仕事の疲れがそんなに目に見えているのだろうか。今日くらいはちゃんと早めに寝入った方がいいのだろうか。頭を掻き、自身の部屋へ帰る。
湯船に浸かり、いつもより栄養価の高そうなものを口にしてみる。ベッドに潜り込んだのは22時もそこそこ回った頃だった。自然とベッドに沈むように意識も遠のいていく。
……どん。どん、どん。
あぁ、またあの音だ。何かを殴るような、いや、これは重いドアを勢いよく締めている音のような。
自分は大分疲れているんだなと思う。あの女性が心配してくれていたように自分は相当無理をしてきたのかもしれない。それで無意識に身体が警告音を出してくれているのだろうと思う。
音に意識を持っていけば昨日よりも大きな音のような気がする。それだけ無理をしているのだろう。明日からはもっと気を付けて過ごそう。そう決意し、深い微睡みに戻ろうとしてガタン、となにかの落ちる音にパッと目が開いた。
暗闇に目を凝らしてみる。どうやら椅子に置いていた仕事用の鞄が床に落ちたらしい。書類やらが散らばっているのがぼんやりと見えて、小さく息を吐く。仕方なく電気を付ければ2時を回ったところだった。重い身体を引きずるようにベッドから抜け出し、散らばったものを掻き集める。
どん、どん、どん。
聞き覚えのある音がする。あの警告音だ。覚醒しているのに何故あの音が聞こえてくるのだろう。響いているので出所はよく分からないが左隣の方から聞こえてくる気がする。
あ。もしかしてあの音は左側の誰かの部屋から聞こえてくるものなのだろうか。こんな時間に無思慮過ぎないか、と思ってハッとする。
だから、あの女性は引っ越していったのだろうか。
部屋に帰っても意識を失うように眠りについていた自分は気づいていなかったがずっとそんなことが起こっていたのではないだろうか。だから引っ越す人が最近多かったのか、と納得すると同時になんだか怒りが込み上げてくる。
気づけばいつの間にか音は止み、吸い込まれるような夜の静寂が訪れていた。
明日、管理会社に連絡を入れるか。誰かしらもう既に連絡は入れているだろうが、それでも改善されていない現状となると……。いや、それでも少なくとも状況把握は出来るはずだ。最悪引っ越しも考えた方がいいのだろう。
思考を巡らせベッドに戻り朝を迎えた。
出勤の準備をして部屋を出ると、同じタイミングでお隣さんが部屋から出てきて苦笑気味に頭をちょこんと下げて来た。それに続くように引っ越し業者が出てきて大きな段ボールを軽々運んで行った。
「引っ越し、されるんですか」
「え、ぁあ、はい」
苦笑しつつ曖昧に応える隣人に「もしかしてあの音」と言いかけると、それを遮るようにヒッと小さな悲鳴が聞こえた。隣人の震える呼吸に申し訳なさを感じながら、それでもすみませんと言葉を続ける。
「俺、あの音に最近気づきまして。皆さんが立て続けに引っ越しされてるのってアレが原因なんですか?」
「……え……アレ、に気付かなかった?」
目を見開き、信じられないとでもいうように隣人はこちらを見つめた。
「あ、はい。恥ずかしながら。なので何か知っているのなら教えてくれませんか? このフロアから聞こえていた気がするんです。どなたがあんな近所迷惑なことを───」
「何も、わからないん、ですか」
引きつる言葉に、大きく息を吸い呼吸を整えた隣人は言葉を続けた。「あれは、ひと月前だった」と。
どんどんどんと遠くで勢いよく何かを叩くような音が響いた。意外と壁の薄いマンションだ。誰かが隣人の騒音に激怒して壁でも殴ったのだろうと思った。
しかしそれは連日のように響いた。決まって深夜2時頃。同じ音を聞いたのは自分だけではないようで管理会社に苦情の連絡を入れると音の出どころを探しているという返答が返ってきた。皆迷惑しているのだとわかってほっとした半面、違和感があった。
探している、とはなんだろう。
アレは何かを叩く音だった。壁なりドアなり激しく叩く音だった。ならばその被害を直に受けている当人もいるはずだ。なのに何故まだ〝探している〟のだろう。
ぞくりと、背筋に寒気が走った気がした。
決まって2時頃響く連日のあの音は意識すればする程大きくなるような気がした。大きく、大きく、大きく大きく、大きく大きく大きく大きく大きく大きく───。そして、はたと気づいた。アレは大きくなっているのではない。こちらに近づいているのだと。
気づいてからは早かった。アレはただ響く音だけに止まらず、振動を以って迫ってきた。食器が、家電が、家具が、落ちていく。飛んでいく。零れていく。壊れていく。大きく音を立てて様々なものが崩れていく。
「私はもう、耐えられません」
口角をあげた隣人は、まるで溝のように濁ったその眼をこちらに向けて「貴方はどうでしょうかね」とだけ残して去っていった。
……そんなこと、在り得るのだろうか。
怪奇現象───?
いや、まさか。
しかしあの音は。
なんなのだろうか。
気づいたら早かったといっていた隣人のあの言葉が何となく頭から離れず、早めに潜り込んだはずのベッドでひたすらに寝返りを打つ。一向に寝付ける気配もなく、暗がりで仕方なく枕元に置いていた携帯に手を伸ばす。画面が明るくなり、少しだけその眩しさに目を細めた。その瞬間ディスプレイで時間を告げていた時計が、2時を示した。
どん、ドン、ドン。
昨日よりも近くであの音が聞こえてくる。
響く余韻に呼応するように窓ガラスが揺れる。譜面をなぞるように規則正しい音が響く。大きく、大きく木霊する。
呼吸が浅くなるのが自分でもよくわかる。
先程よりも近くで音がする。
音がするのにはきっと理由があるはずなんだ。そんなこと在り得るはずはないんだ。
耳を傍立てる。
ドン、ドン、ドン。
闇の奥にうっすらと玄関のドアが震えているのが見えた気がした。
その瞬間、息が正しく吸えた気がした。音がするのには原因がある。そう、───誰かが故意にやるしかないんだ。ドアを、誰かが、叩いている。
ベッドから這い出すように抜け出し、息を潜めてそのまま玄関に向かう。未だ規則正しく鳴り響く音は扉を揺らしている。犯人は今この扉の向こうにいる。飲み込む唾液がやけに音を立てて下っていく。
小さく息を吐き、意を決して音の間を縫ってドアスコープをそっと覗いた。
………誰も、いない。
ぇ、と思わず小さく声が漏れると、ドンともっと大きな音が部屋に響き渡った。
ドン、ドン、ドン。繰り返される力強く殴り付けるような大きな音。ドサッと音を立てて椅子から鞄が落ちた。
あ。
そのときになって漸く気付いた。ずっと触れていたはずのソレ───扉は少しも揺れていないじゃないか。
瞬間、縦とも横とも分からない揺れが部屋を襲う。書類が、食器が、家電が、家具が、落ちていく。飛んでいく。零れていく。滲んでいく。壊れていく。大きく音を立てて様々なものが崩れていく。部屋中に散乱していく。音を立てて、広がっていく。
やめ、止めてくれ───。
眼前の焦点すら合わぬ視界で縋りつくようにベッドに向かっていた右足がなにかに引っ掛かり縺れて、物の散乱した床に強く体を打ち付ける。痛いと零しかけて、起こした身体の視線の先にこちらに倒れかけてくる冷蔵庫の姿を捉えて激しい衝撃と共に俺は意識を失った。
どう、なったのだろうか。
覚めぬ闇の中、指先に少し力を入れる。───よかった、動く。続いて反対の手、足と確かめるように身体を動かす。そうして漸くおずおずと瞼を開いてみた。
部屋に差し込む光が眩しくて目を細める。
ゆっくりと身体を起こして辺りを見まわした。
なにも、ない。
そう、なにもなかった。
あんなに散乱していたはずの書類も、食器も、家電も、家具も、何もかも元通りになっていた。ベッドに潜ったあの時と何ら変わらない。あのときのままだ。
夢でも、見ていたのだろうか。
……ははっ。
乾いた笑いが漏れた。
とんだ夢だ。質の悪い夢だ。
俺はどれだけ疲れて追い込まれていたんだ。そうだ、何日か有給をとろう。旅行にでも行ってみようか、いや久々に家で何をするでもなくゴロゴロするのもいいかもしれない。それがいい。
寝ぼけてずっと床に倒れていたらしい身体は少しだけ痺れていて、軋んだ。起き上がるため身体を支えるように右の足元についた手の方にちらりと目線を向けて、身体が凍り付いた。
俺の右の足首にはくっきりと、誰かに掴まれたように紫色に手の痕がついていた───。
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