やさしいゆうれい
子どもの頃、早く家を出ることだけを望んでいた。家の中はいつも誰かの喧嘩の声が響いていて、そうじゃないときは、大抵私が怒られていた。なんでこれができないのか、この程度しかできないのか。いつだったかは「育て方を間違えた」なんていわれたこともある。
両親ともあまり好きではなかったが、特に父が好きではなかった。いつも理屈詰めで、反論したくても父の言い分は酷く真っ当で、間違ったことは1つもなかったから私は最後まで言い返すことができなかった。
大学進学と共に家を出てからは、実家とは自然と連絡を取ることはなくなった。母から荷物が送られてくる度、荷物が届いたと用件だけ伝える。それ以上は何も話をしなかった。世間体を気にする程度には長期の休みは帰省した。それでも、そこはもう私の家ではなく、誰か知らない人の家に足を踏み入れたような気がしていた。社会人になる頃には帰省すらしなくなった。
ある日、珍しく母から電話がかかってきた。
「お父さんが、死んだよ」
それは事後報告だった。何の前触れもなく、ただ、それだけ口にした母の声は、暗く、少し鼻にかかっていた。その後は通夜や葬式の話をしていたと思うが「私、帰らないから」そういって真っ白な頭で電話を切った。酷く現実味のない、笑えない冗談のようだった。病気だったとか、怪我をしたとか、そういった連絡は一切なかった。殺しても死にそうになかったあの父がこうも簡単に死ぬなんて信じられなかった。
その日の夜、電気を消した真っ暗な部屋に、人の気配がした。息を殺し、あえて足音を立てないよう歩いている、そんな感じを受けた。玄関には確かに鍵をかけていたはず。私は音を立てないように、その誰かに気づかれないよう、深く布団を被った。
朝が来たと気づいたのは、携帯のアラームが鳴ったからだった。知らないうちに眠っていたものの、ちゃんと眠れたような気はしなかった。だるさを感じる体を無理に動かしてベッドから降りようと片足を下した時だった。
……机の上に、見知らぬ、オレンジの花が1輪、置いてあった。息が詰まりそうな感覚、身体が固まってしまったような気がした。目だけで辺りの様子を窺う。夜の奴が、まだいるのかもしれない。なんで、大丈夫だと思ったのだろう。鈍く動く頭を可能な限り働かせ、耳を澄ませた。でも、私以外の気配はどこにもなかった。念の為、扉のある部屋、モノ、全てを確認し、玄関の施錠も確認した。鍵置き場に置かれた鍵は、昨日の夜、置いたままの状態でそこにあった。
机の上の花だけが、この空間で違和感を醸し出していた。
その異質さが、気持ち悪くてごみ箱に捨てようとしたが、なんだか捨てる気になれず、空いていたペットボトルに水を入れて活けておいた。
その日は眠れていなかったこともあり、仕事で散々ヘマをしてしまった。そのせいもあってか、買って帰った酎ハイ2本を空ける頃には意識はなくなっていた。
時間はどれ程経ったのだろうか。床で眠っていた身体が微かに悲鳴を上げていた。ふと、なんとなく、誰かがいる気配がした。薄ぼんやりとした意識の中、考える。昨日の奴だろうか。私が主であるこの空間。私以外、誰もいないはずのこの場所にまた、昨日と同じ気配がする。どうにかしなければいけない、そう思いながらも、力の抜けきった身体はどうにもならず、私は意識を手放した。
翌朝、目覚めると、また、昨日と同じオレンジ色の花が机の上に1輪、置いてあった。花を拾い上げ、よく観察してみる。どこにでもあるような名前も良く知らない雑草だ。私自身には何の被害もない。一体、この花の主は何がしたいのだろうか。
昨日と同じ様に、水を替えたペットボトルに2輪目の花を挿して仕事へ向かった。
それから毎日、目覚めれば花が1輪、机の上に置いてあった。3本4本と増え続ける花は、気がつけば、手持ちの花瓶では賄えない量になったので、少し大きめの花瓶を買ってきてそこへ移し替えた。
初めは警戒していたが、この花を置く誰かは、私に危害を加えることは決してなかった。ただ、毎朝目を覚ませば花が机の上に置かれているだけ。いつしかこの見えない同居人に対しての警戒も薄れ、寧ろ、朝目覚めて見つける机の花を見ることにささやかな幸せさえ感じていた。
そんな日々のある夜、携帯に留守電が1件、入っていた。それは母からのもので、四十九日くらい帰ってこいというものだった。通夜にも葬儀にも出ず、線香すらあげに戻らない薄情な娘に、それでも連絡してくれるのか、と思った。オレンジ色で埋め尽くされた花瓶に目をやる。
―――まぁ、行ってもいいかもしれない。
あんなに好きでもなく、何処か知らない空間となっていた実家に戻ってもいい気がした。線香の一つでもあげてすぐに帰ればいいんだ、そう考えて眠りについた。
その日、夢を見た。それは記憶もまだ定かではない子どもの頃の夢だった。
「本当にお前はこの花が好きだな」
「うん、おひさまの色しててきれいだから大好きなの」
オレンジの花を抱きしめるように抱え、そうはしゃぐ私の頭に、大きな手がのせられる。そして優しく撫でてくるその手が私はとても大好きで、嬉しくて、その大きな手を離したくなくて、私の小さな手が大きな手をぎゅっと握る。そうすれば、もっと温かいものが心を満たしていく。
大きなその手の主を探すように、私の頭へと伸びる腕の先を見上げればそこにいたのは、―――あぁ、お父さんだ。優しく微笑む父がいた。
その顔を見ていると、なんだか胸が熱くなって、まるで、漫画のような大粒の涙を私はこぼしてしまった。
「泣くなんて変な子だな」
そういって今度は私を優しく抱き上げる。父の大きな胸はとても温かく、余計私は泣いてしまった。ごめんね、ごめんねと胸の中で泣く小さな私を、父は優しく頭を撫で、
「愛してるよ」
と、愛おしそうに、とても幸せそうに微笑んだ。
目が覚めると、泣いていた自分がいた。寝ている間に泣いていたのだろうか。
ふと、机に目をやれば、もうそこにはオレンジ色の花はなかった。
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