螺旋回路



 こんな話を知っているだろうか。

「崖から恋人と自分の母親が落ちそうになっている。どちらかしか助けることはできない。さて貴方はどうする?」

 まぁ、良くある究極の選択というやつだ。

 またウィットにとんだ笑えるものであれば「うんこ味のカレーとカレー味のうんこ。食べるならどっち?」なんてものを思い浮かべる人もいるだろう。

 さて、究極の選択、というものは意外とたくさん存在しているものである。

 なにせ、私も今、その窮地に立たされている……。

「結婚してくれなきゃ死んでやる!」

 そういって、包丁を自らに突き付け叫んでいる男は友人である。正確にいうならば知人といってもいいだろう。確かにその男とは顔見知りで何度か食事にいくことはあった。だがそれも殆ど複数人と一緒のものであり、二人きりでいったことと言えばたまたま相席になった一度きりである。そんな関係なのに知らない間に彼の中で私は恋人という存在になっていたらしい。

「なんだか、誤解があるようです。少し話し合いませんか?」

 そういっていくら私が宥めようとも男は聞く耳を持たない。ひたすら震えるその手に握られた包丁と男のガチガチと不規則に鳴らされる歯のかち合う音が時間の経過と共に私の視覚と聴覚を脅かす。

 正直なところ、他人といっても過言ではないこの男がどうしようと私の興味のないところである。ただ、ここで死なれても目覚めが悪い……。そうこう考えていると女の声が聞こえてきた。

「なんなの、私というものがありながらやっぱり他に女を作ってたのね!」

 声のする方に目をやれば、包丁を構える女の姿があった。私の目の前で包丁を構えていた男が少したじろいたのがみえた。どうやらこの男の彼女らしい。男同様、自らに刃を向けて

「結婚しようっていってたあの言葉は嘘だったわけ? 結婚してくれないなら死んでやるんだから!」

 そう叫ぶ彼女の向こうから今度は別の男の声がする。

「その男はなんなんだ!」

 そして自らに包丁の刃を向けてさっきの女同様息巻いている。

 そこから怒涛のように次々と怒号し現れては自らに包丁を突き付けていく意味のわからない人間の連鎖が発生する。

 目の前で行われる終わりの見えない理解不能な連鎖に呆気に取られる私の耳元で

「ねぇ、どうする?」

と不意に誰かに囁かれた気がした。




 ジジジジジジというけたたましい目覚ましの音で私の頭は一瞬にしてクリアになる。目の前に広がるのは見知った天井であった。カーテンの隙間から明かりが見える。朝だ。はぁ、と息をつく。身体から力が抜けていくのを感じた。そこでようやくそれまで息を止めていたという事実に気づく。酷く汗をかいたのであろう、背中が気持ち悪い。額の汗を拭おうと手の甲で視界を遮ったその瞬間、突然、布団の上に重みを感じた。

 指の隙間から覗く子どものような無邪気な顔をした男の姿。目が合うのと同時にまるで金縛りにあったように身体は時間を止め、血の気が引いていくのがわかった。

「結婚してくれなきゃ、イタズラしちゃうぞ」

 そういってお菓子を待っている子どものように無邪気に跳び跳ねる。その言動とは裏腹に私の身体はしっかりと固定されており、私にまたがる男は、私の返答など待つことなく包丁を降り下ろした。


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