猫の恩返し



 目の前で小刻みに震える女のいうことには、猫に遇ったのだという。

 それは仕事終わりの軽く買い物をした帰りだった。街灯も少なく薄暗い通りでふと目の前を真っ黒な猫が横切った。いや、横切るという言葉では不釣り合いな程優雅に目の前を歩いていた。その優雅さに思わず見惚れてしまい、女は気がつけば足を止めていた。それに気が付いたように猫はふっと女の方へ顔を向け、立ち止まった。薄暗い中で真っ黒の猫の目だけが異様なまでに黄色く光っていた。

「気を付けて」

 鈴の鳴るような音だと、思った。まるで少女のような幼さの残る女の声は確かにその猫から聞えてきているように感じた。

「気を付けて。明日はいつものバスに乗らないで」

 女が呆けていると、いつの間にかその猫は消えてしまっていた。

 次の日、いつもの女ならすることのない寝坊をしてしまった。仕方なくその日は遠回りになってしまうが電車で仕事へと向かった。職場につくと、仲の良い同僚が真っ青な顔をして女の元に駆け寄ってきた。よくよく話を聞けばバスの事故が起こったとつい先程ニュースで放送されたらしい。バスは映像を見るだけでも分かる程無残な状態で死者も多数出たという。――それは、女が本来乗るはずのバスだった。

 昨日の猫の言葉が頭を過った。意図せず、猫の助言通りの行動を女はとっていたのだ。

 数日後、帰り道のことだった。街灯も少なく薄暗いあの日と同じ通りでふと目の前を真っ黒な猫が横切った。あの時の猫だと女が気付いたように、猫も女に気が付いたようでふっと女の方へ顔を向け、立ち止まった。

「気を付けて」

 また、あの声がする。

「気を付けて。明日は火の傍にいないで」

 気が付くと、いつの間にか猫の姿はなくなっていた。

 次の日、珍しく友人宅に招かれた。料理の苦手なその友人は、いつもは女に料理作りを頼むのだが、どうやら恋人が出来たらしく、練習も兼ねて自分が作ると言い出した。包丁を握るその姿はたどたどしくとても危なかしかったが、それと同時に少し笑えてきた。そんな女の様子が友人はお気に召さなかったようで「料理ができるまで散歩でもして来れば」と女を外へと追い出した。ついでに何かお菓子でも買ってやるかと女は近くのコンビニへと向かった。暫くすると遠くの方から消防車のサイレンの音が近づいてきた。近くで火事でも起こったのだろうと、他人事のように買い物袋を提げ友人宅へ戻った女は、目の前の光景に立ち尽くすしかなかった。

 友人宅は真っ赤な炎に包まれていた。

 運良く、友人は全身に酷い火傷を負いながらもなんとか一命をとりとめた。原因はホースが古くなり亀裂が入ったそこからガスが気づかぬうちに漏れており、そんな折コンロに火をつけ引火したらしい。

 黒猫は不吉というが、不謹慎だが女にとってはluck catだと思った。今度遇うようなことがあれば一言「ありがとう」でも言えればいいなどと考えていた時だった。

件の黒猫がいた。でも、今日はその身体ごと女の方へ向け、道の真ん中にちょこんと姿勢を正して座っていたのだ。

 ちょうどよかった、と思った。女は行儀よく座る猫に笑みを浮かべ言葉を紡いだ。

「黒猫さん。いつもありがとう。貴女の忠告のお蔭で私は何度も救われたわ」

 猫の傍へ寄り、その頭を撫でようと手を伸ばした時だった。「ごめんなさい」、確かにそう聞こえた気がした。

「貴女は死んでしまうの。ごめんなさい」

 猫は何度も謝った。女は真夜中寝静まる頃、運悪く家に押し入った男に遭遇し殺されるらしい。何度も謝る猫のその話をどこか他人事のように聞いていたが、気が付くと猫の姿はどこにもなかった。

 目の前で小刻みに震える女は、恐る恐る顔を上げた。生唾を飲む女の喉が大きく波打つ。

「……貴方なんでしょう?」

 うっすらと涙を浮かべる女の瞳に私の姿が映っていた。その手にある包丁がカーテンの隙間から入り込んだ月の光に照らされとても綺麗に色付いていた。


 もう、問う声も聴く人も、どこにもない。

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