じっと見ている



 都心部へ向かう電車の前から四両目。行きは午前六時二十二分、帰りは午後九時五十六分の電車を利用する。それが僕の日課の一部である。その四両目から外を眺めればいつもとなんら変わらないビル、森、線路といった風景が通り過ぎていく。

 

 いつからだろうか。それはふとガラスの反射から車内を覗いたときだった。僕の視線の先に、同じように僕を見る女の姿がそこにあった。僕が背を向けているから気づかないとでも思っているのか、彼女の視線が僕の背中を突き刺している。ただ、じっと僕を見ているのだ。その眼差しは恨みを含んだもののようであり、しかしながら切なげに焦がれを含んだもののようでもある。本当の含みは彼女の無表情からは読み取れない。だが、行きも帰りも彼女は僕と同じ車両に乗り込み、僕をじっと見ているのだ。

 別に彼女の視線があろうが無かろうが、どうということはない。所詮、彼女とは赤の他人であり、僕の生活には何の支障もないのだ。

 

 しかし、その数日後。行きの電車を待っている最中、ふと誰かに声をかけられた。あの、と蚊の鳴くような声が聞こえ振り返れば、そこに立っていたのは件の彼女だった。なんでしょうと返答すれば、さっき同様の蚊の鳴くような声で「ずっと同じ車両であなたを見かけていました。それで、ずっと気になっていたんです」と聞こえてくる。どうやら視線の正体は、僕を好いてくれているものだったようだ。彼女とこうやって対峙するのは初めてだったが、よくよく見れば顔立ちも整っていて一般的でいうところの可愛いの部類に入る女の子だった。男ならこのようなシチュエーションを幸運と受け取り交際が始まったりするのかもしれない。が、僕には丁度彼女なんてものはいないけれども、正直彼女を作ろうという気もない。今の生活にはこれはこれで満足している。今は友達と好きなときにわいわい集まり飲んだり騒いだりするほうが楽しい、というのが率直な気持ちだ。

 あなたの好意は嬉しいですが、僕は今そんな気持ちにはなれないのです。

 そう当たり障りない返答をすれば、ああそうですか、とただ一言。そこにはいつもの無表情が広がっていた。

 そんなことがあったにも関わらず、次の日も、その次の日も都心部へ向かう電車の前から四両目。午前六時二十二分、午後九時五十六分、僕の利用する電車に彼女の姿があった。窓越しに彼女の姿を捉えると、僕の視線には気付かないのかいつものように僕の背中には彼女の視線が突き刺さっている。さすがにここまで想ってくれていると、あんな返答をしたことが多少申し訳なくなって来るが仕方がない。縁がなかったのだと諦めてほしい。


 ――――そう、縁なんてなかったのだ。


 いつもの時間。いつものプラットホーム。僕の日常であるいつもがそこには広がっていた。ただ違ったのは急停車を知らせるブレーキ音と何の音もなく視界を右から左へと駆け抜けた徐々に消えゆく件の彼女の姿だった。それは一瞬の出来事で、しかしとてつもなく長い出来事だった。どこか遠くのほうで誰かの声がする。口々にどうしたと騒ぎ立て、また誰かは女が線路に落ちたと状況を説明する。また何処かでは女の叫び声が響いていた。

 僕の目の前で彼女の体が宙を舞う。その体は腐敗し消えゆく定めのように徐々になくなっていった。それがあの一瞬に僕の見た光景である。……それともう一つ。

 興味本位の野次馬を掻き分け先頭に掛けよれば、うっと思わず胃液が体内から逆流してくるような噂に聞く通りの惨たらしい惨状がそこにはあった。ただ、彼女の首から上だけは綺麗に残り、線路の真ん中でちょこんと居座る彼女と視線があった。その視線は確かに僕に向けられているようだった。

 嗚呼。それを見て僕は妙に納得する。右から左へと彼女が消えゆくあの一瞬、彼女と目があった気がした。いや、確かに彼女は僕をじっと見ていた。あのいつもの無表情で。


 いつもの駅。いつもの時間。都心部へ向かう電車の前から四両目。乗り込む他人。人。そんな僕の日常。窓を覗けば写し鏡越しに彼女が今日も僕をじっと見ている。

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