門をくぐる音がする

桐富

門をくぐる音がする

 

 扉をくぐる前から珈琲の柔らかな香りが鼻をくすぐる。いつの間にかすっかり日課となってしまったその行為に私は少し安堵する。扉を開けばちりんと小さくベルの音が聞こえ、それと同時にマスターの少し掠れた「いらっしゃい」という声がする。まだお客の入っていない数ある席の中で、誘われるように進めた足は、彼の前、カウンター席へと落ち着いた。昔憧れていた「マスター、いつもの」なんていう言葉を口にしなくても、席に座ればミルクと砂糖少し多めの私だけの為の珈琲が出てくる。

「今日はいつもよりもいらっしゃるのが遅かったですね」

 差し出された珈琲に無言で口を付けかけた私にマスターが声をかけた。そして少し躊躇する様子を見せ、「それに少しお疲れのようですし」と言葉を続けた。

 そんなことないですよ、と笑い飛ばそうとした私をマスターが真っすぐに見つめている。それがなんだか悪いことをしようとしている子どもを咎めているもののように感じて、私は言葉を詰まらせた。はぁ、と一つ息を吐き、詰まっていた言葉を押し出すように「実は……」と切り出す。

「最近、誰かにつけられている気がするんです」

 マスターは私の言葉に一瞬グラスを磨く手を止めたが、続けてくれと促すように何事もなかったかのように手元を動かし始めた。

「初めは気のせいかもと思っていたんです。でも、あるとき何の気なしに振り返ったことがあって、そのときさっと物陰に隠れる人影を見たんです。以降、それまでは気にしていなかったんですが、よく耳をすませば私の足音に重なるようにもう一つ足音が混ざっていることがよくあって。いえ、あれ以来人影は見ませんし、夜だから足音が反響しているのかも。私の気にしすぎなのかもしれません。だけど……なんだかその足音、どんどん近づいてきている気がして……」

 そうやって改めて言葉にしてしまうと、急に考えないようにしていたものがやけに現実味を帯び始めた気がした。ぞくりと体の芯の部分を震わせたそれは、余波のように次第に体を震えさせてくる。

「そんなつもりはなかったのですが……」

 マスターの呟くような小さな声が聞こえた。無理に言わせてしまったのだとマスターが心を痛めてしまったのかもしれない。急いでそんなことはないと口に出しかけて、マスターと目が合う。私がハッと息を呑むのに対し、照れくさそうにマスターは柔らかく笑った。たったそれだけのことだ。なのに、なんだか心が揺らいで同時に安らぐ。

「ここは本当にいいところですね。私、ここに来ると色々なことを忘れられます。辛いことも、苦しいことも、悲しいことも……ここに来ると全て何でもないことのように思えるんです。それでまた明日も頑張ろうって、勇気って言うんですかね。心に温かいものが湧いてきて活力になるんです」

 そういうと、マスターは照れくさそうにありがとうございます、とはにかんだ。

 この空間を、マスターが如何に大切にしてきたのか、このお店を、いや、マスターを見ていればよくわかる。そんな真っすぐさが羨ましくもあり、少し切なくもなってくる。きっと私はこのマスターに恋をしているのだ。……そんな野暮なことは決して言わないけれど。

 そうしている間にちりんとベルの音が聞こえ、新たな人の訪れを告げた。いらっしゃい、いつもの少し掠れたあの声でマスターが応える。マスターの視線はもう別のところへと移り、ただの客である私にはもう向かない。私は珈琲に口を付け残りを全て飲み干してしまうと、真っ白なカップを見つめた。幸せな時間というものは、あっという間に過ぎてしまうものだ。飲み干してしまえば、ここに居座る理由もなくなってしまう。

 いつものようにカウンターに代金を置くと、ごちそうさまでしたと軽く声をかける。いつもならそれで「有難うございます」とマスターの返しが聞こえ私は店を出るのだが、今日はいつもと少し違った。

 マスターが私の名を呼び、呼び止めたのだ。

 予期せぬ事態に戸惑ってしまう。動揺を悟られないよう務めて自然に取り繕う。

「どうしました?」

「いえ、先程の話ですが……気を付けてくださいね」

 それから、辺りの様子を窺うようにして顔をグイッと近づけ、更に声を潜めて言葉を続けた。

「実は最近、この辺りでそういった事件が多いようなんです。中には怪我をされたという方もいるようでして。聞くところによると、手口もエスカレートしているようですし」

「だ、大丈夫ですよ。私こう見えても昔、武術をかじったことがありますし、いざとなったら――」

「ダメです!」

 普段の彼からは想像できない強い口調が私の言葉を遮った。

「もし同一犯なら今度はただの怪我だけでは済まないかもしれません」

 その真剣な眼差しから目が離せなくなってしまった。

「私がご自宅までお送り出来ればいいのですが……」

 そこまで言ってマスターはホールへと目を向ける。それだけでもう言いたいことは十分わかる。

「お気遣いありがとうございます。本当に大丈夫ですから。気を付けて帰りますね」

 軽く会釈をして、駆け足で扉へと向かう。背後でマスターの声が聞こえた気がしたが、逃げるように扉を閉めた。ちりんと鳴った鈴の音が、やけに耳に残って数歩先で足が止まる。振り返ってみたけど、その扉が開かれることはなかった。

 何を期待していたんだか。

 自分の幼稚な考えに目頭が痛くなる。

 歩み始めた街灯の少ない帰路。頭に浮かぶのは後悔ばかり。一歩一歩歩みを進める毎にあぁ、どうして、なんで……そればかりが頭の中を駆け巡る。可愛げのない私。見上げた月空が少し揺らいで見える。

 息を吸うような感覚。それはちょっとした違和感だった。少しだけ冷静になった頭が、あっ、と呟く。カツカツと私の足音に近づけてはいるものの、僅かにずれた音が聞こえる。大丈夫。心の中で何度も呟き、なるだけ自然に少しだけ歩調を速める。

 しんと静まり返る夜道にカツカツと足音が響き渡る。それは少しずつズレが生じ、やがて木霊のように響き始める。波紋のように広がったはずのそれは引き寄せられるが如く、明らかに、そして確実に距離を縮め始める。無意識に身体は前へ前へと走り出していた。吐く息は白く天に上り、気づけば息は荒く、喉が酷く乾いていた。足音だけが耳に障る。私のとは明らかに違う息遣いが押し迫ってくる。どこまでも、どこまでも、いつまでも。

 ふと、マスターの顔が頭を過った。

 その瞬間、なんとなく、あぁ、私は終わってしまうのかもしれない、と思った。

 現実味は一切ないのに、とても残酷な最期の結末だけがドラマのように、まるで他人事のように頭にちらつく。

 その瞬間、背後から伸びてきた腕が、長く、しなやかに私の顔の横を通り過ぎた。想像が現実へと変わる音が聞こえた気がした。

 嗚呼、ごめんなさい。誰に対してではなく言葉は紡がれ、悪夢からの解放を願って私はきつく目を閉じた。

 

 ―――きっとこれは、気のせいかもしれない。

 いや、そうであってほしいと、薄れゆく意識の中どこかで願った。


 私の鼻先を嗅ぎ慣れた珈琲の匂いがかすめた気がしたことを――。

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