night game Chapter2

 満点の夜空の下、銀白色のビルに囲まれた、オパール色の岩が点在する広場で俺は足を止めた。


 口の中に痰が一杯絡みついている。冷たい空気を出し入れし過ぎた所為で喉がいかれて肺も絶賛故障中。さっき走っていた時はウマにでもなった気分だった。


 真実や現実を圧倒的な圧力で押し潰す『夜』が支配するこの街で、もうどれだけの距離を走り回っただろうか。あとどれだけこの中を走り抜けたら終わりになるのか………


 広く距離を取った、それでいて目で見えるギリギリの位置に「きみ」がつっ立っているのが見える。さっきまで追いかけていた間、どう見ても終始歩いている様にしか見えなかったのに、一向に距離が縮まらなかった。それでいて、俺が立ち止まるとその一定の距離を保ってこっちをじっと見ている。

 馬鹿にしやがって、とそんなつもりは無いのに彼女とは別に頭の中で言う者が居る。


てしてとんゃち ろだいしかおまたあ でいなめきらあ つかまえてごらん かーばかーば つかまえてごらん てっるけいだま わいいうも つかまえてごらん。

 

 赤い口紅を塗った白い姿は、深夜の大地で星の光を受けてぼうっと発光している様にも見えた。涼やかで、それでいて力強い視線は、尚も頭の中に意思を送り続ける。


 もう、良いんじゃないか、とまた別の誰かが呟いた。

 もう、走り続けるのにも疲れてしまった。走り続けるのも限界だ。俺はこんなに走る必要なんか無い。理不尽な真実が渦巻く偽りの街で、大量生産の日常を愛しながら生きて行ければ、俺はそれで満足なのだ。もう、ここらでやめてしまったって、別に誰からも何も言われないじゃないか。

 楽になってしまったって良いじゃないか。


 そう、酸素の足りない疲れた頭でぼんやり考えていた俺は、ふと彼女の方に目を向ける。

 「きみ」が視界の端で、一瞬だけ笑顔を見せた気がしたのだ。

つかまえてごらん つかまえてごらん れがやりやにめじま つかまえてごらん

 一直線に飛んで来る思考の奔流に頭がくらっと来るのを堪えて、今一度「きみ」に身体ごと真っ直ぐ向き直る。


 「きみ」の唇が動いた。真っ赤なそれは、勿体を付けてなまめかしく動き、毒々しくさえあった。俺の視神経が目が捉えた映像のそこだけを切り取り、画面一杯にズームアップしてその情報を脳味噌に叩き込まれた感じがした。


 「しろぎくんは、かわらないね」と言った。


 「代木君は変わらないね」と確かにそう言った。声が届かなくったって、口の動きが確かにそう言っていたのが分かる。代木君は変わらないね。ごうっと言う音がする程に流れが速くなる思念のストリーム。つかまえてごらん つかまえてごらん つかまえてごらん つかまえてごらん つかまえてごらん つかまえてごらん。俺は変わらないね。

 頭の中に、何かふっと閃く物がある。静謐せいひつな校舎の中の、ごちゃ混ぜで、ぐちゃぐちゃで、グツグツで、そして他の何処より居心地の良かった一角。誰かと、だれかと、ダレかと、ダレカと、誰か。ありふれた物だった午後と会話。

 笑う者が居る。ころころと嗤う者が居る。ふふふふと言う声を立てて哂う者が居る。時に寂しそうに嗤う者が居る。笑う顔が、誰より素敵な人が居る。


 ああ、そうか、と気付く。

 俺は、まだ楽になんてなる訳にはいかない。楽をしようなんてまだ思ってはいけなかったんだっけ。思えば生まれてから今まで、俺は楽な道ばかり選んで生き永らえて来た。でも、何時までもそんな風では、きっと駄目なんだ。楽をすることばかり、自分の事ばかり考えていてはきっといけない。


 その弱さで、また誰かを踏みにじってしまわない為にも。

 その重さを抱えて、俺はまだまだ走り続けるのだ。


よえそお げそいげそい ぞすばとっぶ つかまえてごらん つかまえてごらん。

「はーっ………はーっ………今………行き………行きます………よ」

 伝わっているとも思えないのに、俺は「きみ」が居る方に向かって声を掛けると、彼方のその姿をまた追いかけ始めた。

 少し休んだら、大分息が落ち着いた。今度は馬鹿みたいに突っ走ってすぐに息を切らさない様にしよう。大丈夫、いつか終わる日が来るさ。気長に続けようじゃないか、この楽しい夜の街の中でのゲームを。鬼ごっこを。


 暫く走り続けていると、ゴロゴロと雷が鳴る音が聞こえたような気がした。

 走るのをやめたら、またさっきの様にそのまま動けなくなってしまいそうだ。

 ちょっと失礼して一旦進むのだけやめつつ、その場で足踏みは続ける事にした。


 やはり、さっきまでは星がよく見えていたのに、後方で暗雲が立ち込めている。

 ゴロゴロと言う雷の音が、さっきより近くに聞こえる。ザアーッと言う雨が降る音も、段々近づいて来ている様だ。それに、ガチャンガチャンガチャンガチャンと、何かが割れる音も。


 遠くの暗雲が降らせている雨に、じっと目を凝らしてみる。中学生の時の理科の実験を思い出した。

「……………噓だろ?おい」

 雲の中から降って来ている物は、雨の様に見えたが、雨ではなかった。

 実験で薬品をかき混ぜるのに使う、細長い実験道具。

 ガラス棒だった。


 ガラス棒の雨は、地面にぶつかって、ガチャンガチャンガチャンと音を立てている。

 雨雲が少しずつこちらに近づいて来る。 

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