夏が動き出す。①
大雨と猛暑を繰り返し、徐々に徐々に体に絡みつく様なじっとりとした気候を形成していく。つくづく夏は忌々しい季節だ。
『…『ラインクロス』の幹部、
「全く、近頃の世間は酷い事だらけだなぁ、
盤上のこちら側の駒をつまみ上げ、飛車の駒をスーッとその空白に移動させながら、キントキが言う。テレビでは、最近起きた子供の行方不明事件のニュースがやっていた。
「事故に殺人に行方不明………………毎日世界の何処かで人がこれだけ消えてるってのに、何時まで経っても悲劇は終わらない………………」
「芝居は良いから、ほら、お前の番だ」
敵の駒に自陣に入られてしまい、俺は取り敢えず自分の王様の近くに持ち駒の銀をパチリ、と置いた。少しは黙って、ゆっくり考え事でもしながらやらせてはくれないのか、とうんざりする。
俺の名前は
将棋を始めよう、とキントキは言い出した。ある日、唐突に。
「登大、将棋を始めよう。将棋だ将棋だ」と興奮した様子でまくし立てる様に提案して来るキントキの話をよくよく聞いてみれば、理由はこうだった。
キントキが人伝に聞いた話である。この街のある所に将棋の上手い男が居た。小さな不動産会社の社員として働いており、一人暮らしの我が身にはちょうど良い位の給料を毎月貰って生きていたが、同僚と比べて突出した社員としての才能も無い為、高い地位に昇進出来る事も無く、かと言って転職するのも面倒で、唯一将棋の腕だけは自慢出来たが生憎同僚に将棋好きは見付からず、週に一度、将棋のサロンで暇な年寄り達との勝負に付き合う事だけを楽しみに、ただただ変化の無い毎日を漫然と、ぼーっとしながら過ごしていた。
心に適度な余裕のある、それなりに安定した生活。俺からしたらそのままでも非常に羨ましいのだが。
ある日、男がいつもの様に将棋を指していると、その様子をじろじろと、無遠慮に見つめて来る者が居る。アジアの何処かの外国の出身らしい、パナマ帽を被ったその男は、彼に片言の日本語で話しかけて来た。
「自分と一緒に一儲けしないか?」と。
パナマ帽の男の国の将棋に似たボードゲームは日本の物とはかなりルールが違ったが、それでも将棋好きの彼が完全にマスターするまでそう時間は掛からなかった。
パナマ帽の男の国でも日本と同じ様に賭博は規制されていたが、それも最近の話であり、その国の裏の世界、法律の目の届かぬ身近な暗闇の中ではその国の伝統的な娯楽でもある「カジダーハ」………………つまり賭け将棋が根強く残っていた。
黄金の都に等しいその国に降り立った彼は、異国からやって来た天才賭け将棋士として瞬く間に裏社会にその名を轟かせ、噂を聞きつけてはるばる遠方からやって来る名人達をも悉く返り討ちにして行った。そして相棒のパナマ帽の男が彼が賭けで増やした資金で日本の安い中古車を大量に買い付け、こちらの国で高値で売り捌く。発展途上の状態にある国ではよくある事だが、その国ではその時まさに乗用車が一般市民にも普及し始めて車に乗る国民の数が急激に上昇しており、特に性能の良い日本車の需要が高かったのだ。
やがてパナマ帽の男は増やした金で大会社を設立し、将棋好きの彼の方はパナマ帽の男と共同経営者として億万長者になったらしい。
『らしい?』俺はその話を聞いた直後、キントキに聞いた。
『だから、人伝に聞いた話だと言ってるじゃないか。なあ登大、俺達も将棋のサロンに通おうぜ。今からでも決して遅くは無い筈さ。このつまらん世の中でただ食って寝てを繰り返すだけじゃなく、少しでも未来に夢や希望を持ちながら生きて行こうじゃないか。良いか登大億万長者だぜ。将棋だ、将棋をやろう。始めよう。将棋だ将棋だ将棋だ‼………………』
「何だ、どうしたんだ登大。そんな大きな溜め息なんかついて」
「うるせえな」
全く、今になって思い出しても溜め息位つきたくもなる。その話に出て来る男の様に、自分も将棋を始めれば儲けるチャンスに出会えるとでも思っているのだろうか?いかにも胡散臭い話だし、第一、どう考えても違法行為で稼いだ金で真っ当な会社なんて作れる訳が無い。子供でも分かる事じゃないか。
結局、こいつは刺激が欲しいだけなのだ。さっきもあんな事を言ってはいたが、キントキは人前では紳士の振りをして、そのくせいつも日常に何か変わった事やイベント、激しい変化を求めている。実際、それを味わう為に探偵になった様な所もあるのだ。例えそれが物的・人的被害を伴う、本物の事件であったとしても……本当に、二言目には『刺激』である。
平凡に回ってくれている日常を変えようとなんてせずただ身を任せてさえいれば人間は幸福に生きる事が出来るのに………………。
一体こいつは、いや、この世のどいつもこいつも、こんな理不尽な世界に何をそんなに期待しているんだ?
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