第5話 首都アルカド

「さあさあ、エルフのお坊ちゃま、起きる時間はとうに過ぎてますよ。朝日はすっかり登ってるのに」

 アリュシオールの毛布を引き剥がしながらため息をつくのは、榛色の瞳と髪をした少女だった。上質なモスリンのドレスを着る少女はもちろん、家の給仕をする役割には無い。しかし急に現れ、ベッドを一つ占領することになったエルフには何かにつけて一言いってやりたいという気持ちが強いようだった。

 肌触りのいい毛布を剥がされ、眩しい日差しを体に浴びたアリュシオールは重そうに頭を持ち上げ、起き上がる。人間の街にやってきて一週間。疲れが溜まってきたのか日に日に朝に弱くなるのを感じた。布団も柔らかすぎて、どうも慣れない。

 のそのそと緩慢な動きを見せるエルフに、少女はもう一度ため息をつくと大きな窓に向かい、ガラス戸を開けようと手を伸ばす。それに気づいたアリュシオールは慌てて声をかけた。

「開けないでくれ」

 それを受けて少女は不快半分、不思議半分の顔で振り返った。アリュシオールは両手で顔を擦りながら答える。

「後で自分でやるよ。……ありがとう、アレクシア」

「別に構わないんだけど、あなたじゃ背が届かないんじゃない?」

 アレクシアの嫌味にアリュシオールは黙っていた。天井から床近くまで占める大きな窓だ。届かないわけはないのだが、開ける気は無かったからだ。

 アリュシオール――めでたく『アルフレート・ロイエンタール』の名を拝借した子エルフを悩ませるのは、この街の臭いだった。生活排水、ゴミ、食物、調理の匂い、人々の体臭、工場の油の臭いや煙が混ざり合い、森から出たことのないエルフに襲いかかったのだ。森よりもはるかに暑い気候も不快さに拍車をかけていた。

 耳のいいアルフレートは音に関してはある程度、覚悟はしていたものの、臭いに関しては想定外だった。街の中心地に近い位置にあるこの家では、窓を開ければそれらが容赦なく侵入してくる。しかし、家の中もメイドがせっせと用意する朝食の匂いが充満しているのだった。

「今日もあの塩漬け肉が出るのか?」

「生ハムね。プロシュットよ。そんな船乗りの非常食みたいな言い方したら、ギーゼラが怒るわよ」

 アレクシアはメイドの名前を出して子エルフを窘めながら、彼の寝癖を直してやる。自分より遥かに年上だ、と聞かされたが、本当なんだろうか、と思いながら。

「しかし兄様も『ロイエンタール』だなんて、勝手な名前つけるわね。まるでイメージが結びつかないわ」

 アルフレートを廊下に追い立てながら、アレクシアは兄のアイデアを非難した。

「誰の名なんだ? ここの人間はみんな『シュパン』のようだが」

 アレクシアとエルマーは兄妹である。よって同じファミリーネームを持つのは当たり前であり、アルフレートの言葉はややおかしな物だったが、アレクシアは触れないで答えた。

「兄様の好きな推理小説の探偵よ。頭がよくて相当な切れ者だけど、ワイン樽のような体で獣のように大きな声で喋るの」

「……なるほど」

 確かによく分からないセンスだが、あの妙に浮世離れした学者青年に文句を言ったところで、非難の気持ちは届かなそうである。

 シュパン邸は都市部に構える中では大きな屋敷だった。それでも廊下は人一人が通るギリギリの幅であり、メイド兼コックのギーゼラはいつも尻がつかえて、通るのに苦労していた。先程の寝室の窓から見える景色も、通りを挟んで広がる中央公園の木々で、シュパン邸の庭といえばプランターを二、三置けば埋まってしまうような小さなものしかない。これはシュパン邸の間取りに問題があるわけではなく、アルカドの中心地に建つ家の一般的な造りだったのだ。ただ部屋数は多く、その御蔭でアルフレートも一人部屋を与えてもらっていた。

 廊下と同じく狭い階段を降りると、ダイニングから痩せこけた初老の男が顔を覗かせる。

「おはようございます。朝食の用意は出来ております。お飲み物は? フルーツジュースかお水?」

 白髪が大半を占めた黒髪をきっちり撫で付けた神経質そうな見た目だが、話すと柔らかい声によって印象の変わる男はコンラード。シュパン家に仕える男性使用人であり、ギーゼラの夫だ。アルカド及びアルケイディア各地では、このように夫婦を揃って雇うのが一般的なのだという。

「水が欲しい。あとパンは3つもいらない」

 皿の上を見てアルフレートが言うと、コンラートは丁寧に「かしこまりました」と答える。

 この家に来てすぐのこと、アルフレートが、


「『契約』したわけでもない相手に、使役した精霊よろしく、よく頭を下げられるな」


と聞いたところ、


「坊ちゃまのお友達だからです」


と、コンラートは澄まして答えた。ではなぜシュパン家に仕えたのか、と尋ねると、


「父も祖父も、そのまた祖父もシュパン家の旦那様に仕えていたからです」


との答えだった。いつも不機嫌顔のギーゼラでさえ、主人の話をする時は笑顔だ。ギーゼラが綿棒を振り回せば、あの細腕のエルマーなど一発で伸してしまいそうなのにである。

(階級社会とは実に面白い。このようにうまく回っているのかと思いきや、主従関係によっては不満が爆発する時もあるのだから)

 アルフレートはプロシュットの挟まれた白パンを脇に避けつつ、果物籠から抜き取ったりんごに齧りついた。その林檎も森で食べる物よりも甘く、果肉が柔らかだった。

「やあ、アルフレート、起きたのか」

 扉から明るい声をかけてきたのはエルマーだった。声に似合わず髪は荒れ放題、目の下にはひどいクマだ。チョッキのボタンも開け放ち、シャツの裾を出してひどい様相である。それに片方の眉を上げたのは、炭酸水にサンドイッチの朝食を頬張るアレクシアだ。

「兄様、また徹夜? もう若くないんだから無理はお止しなさいよ」

「ひどいなアレクシア、僕はまだ20代の若造だ。そりゃ十代のお前からみればおじさんかもしれないけど……」

 そこまで言うとエルマーは自分に視線を送るコンラートに気づき、「濃いコーヒーを、角砂糖を添えて」と指示する。その様子を見てアルフレートは目を細めた。

 『しがない学者さ』との自己紹介は、人間らしい謙遜だったわけだ。アルフレートは鼻をならした。シュパン一家が上流階級であることはエルフのアルフレートにもよく分かる。それに単なる駆け出しの学者が、あんな革張りの立派な本を世に出せるわけがないのだ、とアルフレートは今更な思いに一人頷いていた。

 その革張りの本『妖魔の森』を、アルフレートは毎晩少しずつ読んでいる。不思議なことにあの本だけは、アルフレートの脳をひどく疲れさせるのだ。よって数ページずつしか読み進められず、気分転換に他の本を読み漁る、ということを繰り返していた。

 きっと自分の数十年分の経験が、一々蘇ることによって疲労させているのだ、とアルフレートは思う。本の内容自体はとても面白く、エルマーの人となりからは想像出来ないほど鋭かった。今、何とか読了した部分だけでも人間とエルフの違いをまざまざと見せつけられていた。森の概念がまず違う。人の中での森は「資源」であり「恵み」であり、「未知」であり、「畏怖」を感じる場所だった。エルフの中で森は「住処」であり、「全て」と言っていい。

 森での生活を思い出しているアルフレートに、アレクシアの抗議の声が聞こえる。ただし相手はアルフレートではなく、少女とテーブルを挟んで反対側に座り、角砂糖を齧る兄に向けられていた。

「そんなの困るわよ。寝るな、とは言わないけど、お昼前には起きてもらわないと。今日は母様に変わって私が寄付を届けにいくんだから」

「僕が一度寝たら、どれだけ目を覚まさないか知ってるだろう? 宣言するけど、絶対起きられないね」

「威張って言わないで! 今日中に行かなきゃだめなのよ。明日には父様も母様もお戻りになるんだから。行ってないって分かったら、がっかりされるわよ」

「親不孝者は僕だけで十分だからなあ」

 エルマーはしみじみと呟いた後、ふと気づいたようにアルフレートを見る。

「アルフレート、どうか僕の代わりに妹を、カメリエット地区の教会に連れて行ってやってくれないか」

「ちょっと兄様!」

 アレクシアの咎める声を、エルマーは手で制す。

「まあまあ、お聞きよ。そもそも僕が一緒に行く理由は君一人じゃ危ないからだ。護衛役、っていうなら僕よりも彼の方が頼りになる。森でのことを話しただろう? こーんな大きな魔物をバッタバッタと倒していったんだから」

「でも……」

 言い合う二人を止めたのは、不機嫌なエルフの咳払いだった。

「いいから、理由を話せ。なぜそんな一人では歩けないところにわざわざ行くんだ」

 その問いに二人は顔を見合わせる。一度、顎を撫でる仕草を挟んだ後、エルマーは話し始めた。

「カメリエット地区というのは、ここアルカドの中でも貧しい人々が暮らす地域なんだ。悲しいことに犯罪も多い。それでも地区にあるラシャの教会に寄付をすることは、シュパン家の重要な仕事であり、役割なんだよ。今時期の寄付は両親が郊外の館に行っていることが多いから、アレクシアの仕事になってるわけさ」

「ふうん……、なんで寄付する先が教会なんだ?」

「人々の心の拠り所であるし、孤児院を経営していたりもするからね」

 エルマーの答えにアルフレートは返事をしない。納得していないからだ。エルマーは苦笑するとコーヒーを飲み干した。




 日がすっかり登りきり、気温も上がりきった頃、アルフレートとアレクシアは家を出ることとなった。狭い玄関扉を出ると、コンラートがうやうやしく頭を下げていた。

「お嬢様、こちらが荷物になります。どうかお気をつけて」

 差し出したのは大きな革鞄だ。キャメル色の女性物である。

「……持っては……くれないわよね」

 細腕の小柄なアルフレートと鞄を交互に見、諦めたようにアレクシアはため息ついた。気候も日向のこの場所はうだるように暑い。空気が乾いているのか、日陰に入れば嘘のように涼しいのは救いだが。

「やはり私が同行いたしましょうか」

 コンラートの申し出にはアレクシアは大きく首を振る。

「いいわ、あなたが家にいてくれないと困るもの。それに付近までは馬車なのだし」

 その言葉にアルフレートが通りの方へ振り返ると、黒い車体の立派な箱馬車が止まっていた。御者も街を常時走る乗り合い馬車の労働者とは違い、ぱりっとしたブラウスを身に着けている。その御者に荷物を預けると、二人は馬車に乗り込んだ。

「夕方にはお戻りになりますか?」

 コンラートの質問に、アレクシアは窓から答える。

「ええ、もし戻らなかったら兄様を叩き起こして、こっちに寄越して」

 本気でそこまでの冒険と考えているわけではないだろうが、結局、子エルフに妹を預けていびきをかいている兄が不服ゆえの嫌味なのだ。アルフレートは鼻息荒く座席の背もたれに身を倒す少女を見て、そう考えていた。

 馬に鞭打つ音が一度し、車体がゆっくり動き出した。そしてすぐに軽快な速さで景色が移り変わる。この街ではどこもかしこも、小さな路地裏でさえ、綺麗に舗装された石畳だった。

 しかし奇妙な光景だ、とアルフレートは町並みを見て思っていた。この辺りではどんな金持ちでさえも、鉛筆のように細長い建物に住んでいるのである。二階三階は当たり前。五階六階と積み上げて、ぐらぐらと崩れるのではないかと心配になる建物もある。その「鉛筆」に、あるところでは家族で住み、またあるところでは単身者が一室ごとに詰め込まれて住むのだという。

「欲しいのは『情報』なのよ」

 街を見るアルフレートに、アレクシアが呟く。

「昔はここまで人口の集中も無かったらしいわ。それが今はこうなってる。都市部の中心にいればそれだけ、色んな情報が常時手に入るから。みんな置いていかれないようにぎゅう詰めになってこの街に住み、周りの顔色を見ながら生きてるのよ」

「なるほど」

 アルフレートの返事には深い理解が含まれていた。この少女には兄譲りの鋭さがある、と考えながら、馬車に揺られていた。

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