第3話 脱出

「森の掃除屋、って何ですか?」

 間延びする声だがシンプルで理想的な質問に、エルフ二人は振り返る。二人に見られ、頭をかくエルマーにアリュシオールが答える。

「キュクレイン、浄化を司る精霊だ」

「へえ…」

 彼には聞いたことの無い精霊だった。エルマーは元々、文化的営みを持つ種族を調査する学者であり、魔術師ではない。精霊の種類までは知識にないのだ。知っているのもせいぜいウンディーネやサラマンダーといった四大元素を司る精霊だった。そんな彼にしてみれば『浄化』は汚いものを綺麗にすることであり、フェンディオールの反応が不思議なことに思えるのは無理ない。

「それが何で『物騒なこと』なんです?」

「何?」

 思案中だったのを邪魔されたフェンディオールの眉間には皺が寄っていた。びくりと後ろに下がるエルマーに、アリュシオールがもう一度答える。

「見ればわかる」

 素っ気なく言い終えると、すぐに小屋の扉に手をかける。星鹿団がこちらにまで足を伸ばす前に、全て準備を整えなくてはいけない。子エルフは振り返るとフェンディオールを見た。

「オークの巣が樫の十字路方面に出来てる。そいつらを追い立ててくれないか? 後は星鹿団を先導する動きをしてくれれば、こっちで何とかする」

 オークとは、邪神がこの世に産み落とす、もっとも忌み嫌われる生き物の一つである。その姿は醜く、性格も残忍だ。自分たち以外の全てを攻撃対象とし、エルフも当然含まれる。ここエルフの集落でも、一匹でも見つかれば即刻処分の対象となり、巣を作らせるまで放っておいたのは失態としか言いようがない。それをこの星鹿団にも入っていない子エルフはすでに知っていたのだ。

「オーク共の巣だって? お前、いつの間にそんなことを」

 少々強い語気で尋ねるフェンディオールに、アリュシオールの真っ直ぐな目が向いた。

「この森で、僕の知らないことはない。だからこそ、僕はもうここに飽きてしまった」

 アリュシオールのはっきりとした声にフェンディオールは返す言葉を失う。強い瞳と、強い意思を表す真っ直ぐの唇、そして威圧感。老エルフは感動すら覚えていた。

(改めて思う。アリュシオールをここに留めておくのは間違いだ、と)

 フェンディオールは一人、沈黙の中で噛み締めていた。

「さあ、来い」

 アリュシオールがエルマーの腕を再び取る。人間の男は、自分の腰ほどしかない背丈の生き物に振り回される形で小屋を出た。風が強くなっている。これからの波乱を予兆させるように。

 続けて出てきたフェンディオールの手には、小屋に入ってきた時と同じように長弓が握られていた。

「年寄りが足を引っ張らんよう努力しよう。……ああ、アリュシオール」

 声掛けに振り向くアリュシオールを、老エルフは包むように抱擁すると、空いた手で背中を撫でた。

「……暫くは再会も出来まい」

 アリュシオールはこの言葉によって、初めて別れという概念を実感した。森を出るということは、そういうことなのだ。孫を抱くかのようなシルエットに、フェンディオールの声の響きが続く。

「エルフであろうと心に隙間は出来る。私はそう思う」

 感情を持つこと自体を美徳としないエルフの中で、この老エルフだけは異質だった。フェンディオールのカサついた手のひらが自分のマントに触れる感触に、アリュシオールは胸にじわりと温かいものが湧いてくる。そしてフェンディオールの背中を軽く叩き返した。

 短い別れの挨拶を済ませると、フェンディオールは森の中へ消えていく。それを黙って見守るアリュシオールに、エルマーは尋ねた。

「一緒に行かないのかい?」

「こっちは迎え撃つ。オークは穢れているからな。『不浄』をばら撒いて、キュクレインを喚び出すんだ」

 説明を聞いてもエルマーにはなかなかそれらの点が線で結ばれなかった。が、楽観的な学者は「見ればわかるか」と呟くとそれ以上の質問は止めてしまった。それが間違いだった、と彼が気づくのは、残念なことにこの後すぐのことである。

 もう一度、強い風が二人の髪を煽った時だった。

「本が好きなのかい?」

 エルマーの質問にアリュシオールは素直に返答出来なかった。先程会ったばかりの人間に、なぜこの質問をされたのか分からなかったし、素直に答えるのは気恥ずかしい気がしたのだ。

「視線がね、よくここに来てる」

 エルマーは自分の胸元に抱える書物を指差す。『妖魔の森』とシンプルに書かれた革張りの本がある。この男に出会った時から目に留まった、そしてこの男を助ける気を起こさせたタイトルだった。

 森に飽きたアリュシオールは、様々な本を読み漁った。それらはフェンディオールのような変わり者エルフが『気まぐれで』手に入れたものであったり、過去に迷い込んだ人間が置いていったものだった。もちろん数は十分でないし、内容も選択肢があるとはいえない。男の手元の本は、その欲求不満を吹き飛ばす存在感を持って現れたのだ。

 この妖魔の森を、エルフを、人間たちはどのような目で見ているのだろう。世界の中でどのような位置にあり、どのような役割を持っているのだろう。子エルフは全てを知りたかった。

「実は、そうだ」

 アリュシオールからの短い返事を聞き、エルマーはくすりと笑った。

「じゃあ、森を出たら僕の家に寄ると良い。図書館並みとは言わないが、君が一週間は飽きないぐらいなら揃ってる」

 果たされなければならない約束だった。この脱出劇が失敗に終われば、アリュシオールはともかくエルマーの命は確実に無い。アリュシオールも「お仕置き」と「見せしめ」の為に古老達の屋敷に軟禁ぐらいはされるかもしれない。

 森が騒がしくなり始める。鳥が羽ばたき、小動物が散っていく足音、木々がざわめく音がする。次第に響き始める地響きに、二人は身を固くした。

「来るぞ」

 アリュシオールの声はひどく冷静だった。恐怖も持たず、湧き上がる興奮すらも押し込めた声にエルマーは思わず子エルフの顔を見た。その時、がさりと音を立てて飛び出してくる影があった。ススリである。そのすぐ後、棍棒を振り回しながらススリを追いかけてくる生き物に、エルマーは口元を押さえた。凄まじい腐臭のためだ。

 身の丈はエルマーより頭3つ分は大きく、まるで雄牛が立ち上がったかのような体躯である。捕食した後の獲物の血を体に塗りたくる習性のあるオークは、常にこのような腐臭を撒き散らしていた。豚のような鼻、黒く変色した牙、落ち窪んだ目は、忌み嫌われるために生まれてきたかのようであった。

 アリュシオールが駆けてきたススリを抱えるのと同時に、二匹目のオークが現れる。続いて三匹、四匹目が顔を出した時、エルマーが甲高い悲鳴を上げた。その声に触発されたわけではないだろうが、オーク達の棍棒が一斉にエルマーへと向けられた。高々と上げられたそれが地面に影を作った時だった。

「アークボルト」

 呟くよう発せられたアリュシオールの呪文によって、大地に発光する円が現れる。続く轟きにエルマーは腕で顔を覆い、目を瞑った。円から伸びる雷光が天へ上っていき、空を切り裂くよう線を描く。

 円の中にいたオーク二体、そしてその脇にいたオークも体から炎を立ち上がらせ、激しい痙攣を見せた後、硬直して倒れていく。残る一体がそれらの光景にだらり、と腕を下ろした。そこへ、

「ヴァイスダート」

 今度の呪文はエルマーの耳にもはっきりと聞こえた。その『力ある言葉』によって現れた光の矢が、真っ直ぐにオークへと走り、胸に深々と突き刺さる。

 おおお!とけたたましい断末魔が上がる。反撃の隙すら与えられなかったオークは、大量の唾液を撒き散らしながら仰向けに倒れていった。

 あまりの呆気なさにエルマーは繰り広げられた光景が現実のものとは受け入れられなかった。魔術師の呪文を見るのは初めてではない彼だったが、あまりに圧倒的な力に寒気すらする。それを今、やってみせたのはこの幼少のエルフなのだ。姿すら見せないこの種族を、人間が畏怖するようになった理由がわかった気がした。

「ま、まだ来る!」

 木々の合間に見えるオーク数体の姿に気づき、エルマーは叫んだ。仲間の断末魔を聞いたためか、憤怒の悪魔のような形相が並んでいる。震える手でそれらを指差すエルマーに、アリュシオールは軽く頷いてみせただけだった。

「もうじき、もうじきだ。間に合うぞ」

「な、何が?」

 エルマーの疑問に答えるように、倒れたオーク達の骸が黒い霧になり始める。元はこの世ではなく『魔界』と呼ばれる異世界の住民である為に起こる現象だった。この大地に還ることなく、魂も魔界へと戻り、遺体も霧となって散っていくのだ。それは飛び散った血も、唾液すらも同じで、この世界に一切の遺物は許されずに塵となる。

 エルマーとアリュシオールの目の前に漂う黒い霧を目掛けて、第二陣のオーク達が迫る。動こうとしないアリュシオールに、エルマーは疑問をぶつけたかったが、尻もちをつくのが精々だった。オーク達の怒りの声が二人の頬を震わせる。汚く歪な棍棒や拳が振り上げられた。

「来たぞ!」

 アリュシオールが叫ぶ。同時に大地が揺れ、オーク達の脚も止まる。不気味なほど静まり返る森に、振動の音だけが響いた。

 突如、地面より現れた顔にエルマーは「わ!」と悲鳴を上げつつ後ずさる。水中から上がるかのように大地から現れた生き物は、オーク達をも悠々と見下ろす大きな姿をしていた。まるで手足をつけた雪だるまのようだが、肌の色は汚いピンク色で、顔も笑顔のようだが瞳孔が見えない。三日月型の口を開き、にんまりと笑う顔にエルマーは鳥肌の立った腕をさすった。

 オークの知能は低い。辛うじて集団生活を送り、原始的な営みに限られる生き方をする。その彼らが疑問に満ちた顔で、急に現れたピンク色の生物を見上げていた。その刹那、ピンク色の生物――キュクレインの口が、がばりと大きく開かれる。深淵の闇が現れ、オーク数体と元オークであった黒い霧を丸呑みにしてしまった。口を動かすキュクレインと、森に響き渡るバキリバキリという粉砕音。そして咀嚼の動き。

 残された二体のオークが耳障りでヒステリックな雄叫びを上げ、キュクレインに武器を振るう。風が巻き起こるほどの猛烈な勢いで攻撃を加えるが、キュクレインの体はゴムまりのようにぐにゃりぐにゃりと形を変えただけだった。

 二体のオークにもキュクレインの顔が近づき、一切の抵抗を許さずに口に頬張る。エルマーは悲鳴も止まり、動くことも出来なくなっていた。そんな彼の元にアリュシオールは近寄ると声を掛ける。

「これが『森の掃除屋』と言われる所以だ。本来いるはずもない異界の者であり、瘴気を撒き散らす存在を許さない。捕らえて食し、大地を浄化する精霊なんだ」

「せ、精霊?」

 エルマーはこわばった顔から何とか返事を出した。水辺の精霊ウンディーネのような優雅な乙女の姿ばかり頭にあった為、なかなか飲み込めないエルマーだった。

 キュクレインが残りのオークを食らうのを見届けると、アリュシオールはおもむろにエルマーの腕を掴む。そして叫んだ。

「さあ、私を喰らえ」

 澄んだその声にエルマーは息をのみ、目の前の大きな怪物が自分たちを見る気配に硬直した。闇を湛えた双眸が子エルフと人間の男に向かれ、一瞬の間を置いて大きな口が開かれる。

 キュクレインが二人を食らう瞬間、エルマーの意識は飛んだ。そして咀嚼が澄んだすぐ後、この場に飛び出してきたのは星鹿団の若いエルフ達だった。

「……オークの匂いか」

 キュクレインの出現の理由がわかったエルフは納得に頷く。

「人間は?」

「わからん、血痕がない」

「では鉢合わせはしなかったようだな」

 その時、足元にススリがいることに気づいたエルフは眉を寄せる。が、すぐそばに変わり者エルフの小屋があることに気づき、肩をすくめた。

「フェンディオールも耄碌したな。人間ではなくオークだったとは」

「しかしこいつらが片付いて助かったのは事実だ」

 エルフ達は本来の目的を探すために踵を返す。そんな彼らの姿を横目に、浄化の精霊キュクレインはのっそりのっそりと、その巨体を動かし始めた。

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