第2話
南国の強い光に白く輝く波飛沫。順風受けて船は行く。
接岸準備を促すドラ声で一斉に慌ただしくなった船内。筋骨隆々の男達に舳先へと追い立てられたタイラーだが、やっと見えて来た陸地の影に胸撫で下ろした。
常にゆらゆらと安定しない足下というのは、鬱蒼たる樹々に囲まれた山育ちにはどうにも慣れ難かったのだが。船酔いの性質でなかったのがせめてもの船旅も、これでいよいよ終わるのかと思えば、感慨も湧こうというもの。
村を発って3日。十分過ぎた支度金のお陰で野を駆け川下るサバイバルめいた行程を選ぶ必要もなく、大陸南方の内海沿いまで来た。
指定された街へ渡るに一番利便が良いと聞いていた漁師町の人間は、定期便が出たところだと知って頭を抱えたタイラーに、荷物と一緒でいいなら乗っていきなと気さくだった。まさか本当に、喫水線ギリギリに積んだ荷物の中に捨て置かれると思ってはいなかったが。
散々酒を勧められ、断わりに一苦労させられた豪快な連中との別れが迫るにつれ、青い海原に堂々と腰据えた名高い景勝地は近くなってきた。
大小色鮮やかな船が港にひしめき、沿岸を埋め尽くす乳白の家々の背景画は意外にも滴るような緑の山。かつて有翼竜の生息地として名高かった名残だろうか、丸いフォルムの連なりが険しい峰々にも見えたりして、さすがに緊張しているらしいと深呼吸した。
潮と風と、そしてざわめきと。
今やしっかり耳に飛び込んでくる港の活気を一杯に吸った胸が大きくひとつ、鼓動を打った。
船は速度を落とし、先客達の合間を縫って器用に進んでいく。見知った相手がいるのだろう、陽気な挨拶があちこちから投げられる中、軽い衝撃と共に接岸----『コシカ』上陸。
踏みしめた桟橋が甲板のように揺れて感じたのは一瞬だけ。野太い見送りに、タイラーは小さな麻袋を投げ渡して頭を下げた。
ついでの好意に礼はいらんと言われても、酒の一杯奢れない狭量は嫌だった。とはいえ、この先の懐具合を差し引いたあの金額で、縦も横も肉厚な連中の一杯を賄えるのかという不安は、桟橋の袂で聞こえたやんやの喝采に消え去った。
陽気で気安い性質は、海が育む開放感らしい。
いかにも運搬屋や漁師達の仕事場といった感じで忙しい港岸をわずかに離れるだけで、そこはもう喧騒甚だしいバザーの真只中だった。
葦拭きの屋根を乗せた木組みの露店が所狭しと軒を連ね、揚がったばかりの魚はもちろん、極彩色の果物、薄絹の衣装、擦り硝子製の家庭用品、そして鉱石貴金属まで。見栄え簡素な屋台に乗り切らないほどの品々が、飛び交う客引きの声に負けず劣らずタイラーの関心を引き寄せる。
触れただけでも弾けてしまいそうな果実の瑞々しさに咽喉が鳴り、尾びれを打つ生きた魚は塩漬けよりも断然美味そうだとか。
見晴るかすにも人の頭、頭、頭で出口の見えない繁昌ぶりに急かされて、腹ごなしをしても間に合うだろうと意を決した時だった。
「そこのおニイさーん」
雑踏貫く軽快さが、獣肉の焼ける香ばしさに釣られたタイラーを立ち止まらせた。振り向いた先には、これまた林檎を山と積んだ露店。
「一個どう? 美味いよー、これ」
濡れたように艶やかな紅い実を手に笑顔満開の客引きは、声の印象通り少年。だが、露天の店番らしからぬなかなかの美少年。
紫色の双眸に人懐っこい表情を浮かべ、それが却ってタイラーを、この喧騒から一歩引かせてくれた。
「リンゴだけ?」
「見ての通り林檎屋さん」
細い腕を広げて笑顔を崩さない。
今口に入れたいのは滴る肉汁なのだが、まぁいいかと、硬貨を一枚差し出した。
「ついでで悪ぃけどさ、道教えてくれねぇか」
「それで林檎買うの? おニイさんお人よしだねー」
「着いたばっかりで腹減ってんの」
「じゃあここが上陸一口目なわけだ。スゴイスゴイ」
そう一人喜ぶ店番は、一際大きな林檎を掴み出すと硬貨共々押し付け、口許に指を立てた。
「コシカへようこそ記念」
「いいのかよ」
「これだけ一杯あるんだよ、わっかるわけないじゃん」
あっけらかんと言い切り、ついでに自分も齧りついて笑顔。香辛料混じりの空気にふわりと広がる甘い匂いは爽やかで、タイラーは有難く頂戴することにした。
「それで? 何処行きたいの?」
「ああ……“砦の小道”」
「廃墟だよ、そこ。珍しいとこ行くんだね。もしかして学者さん?」
「んなわけねぇだろ。人に会う用があってさ」
なぁんだと、途端に興味無くした風に腰を戻した少年は、露天の斜め前方を指差した。
「見えないけど、この方角。バザーを抜けて大通りの公舎を左ね、そのまま真直ぐ行けばきっと判るよ」
「おう、ありがとな」
挨拶代わりに林檎を掲げれば、ひらひらと手を振って、またどうぞ、ときた。暇持て余しているにしても随分と愛想の良い店番だ。それにあの顔。結構なやり手かもしれない。
そうして肉汁の誘惑振り切るように、人ごみを掻き分けバザーを抜けたタイラーは、海から見えた白い建物が左右に建ち並ぶ石畳の広い通りを、コシカの街旗掲げた建物目指して歩き出した。人の数こそバザーに劣れども、山の郷里とは比べものにならない賑やかさが強い陽射に照り映える。
またあの林檎屋に寄れるかどうかは、これから向かう指定場所での出来事にかかっているだろう。学者が興味を持つような廃墟には、一体何が待ち受けているのか。
齧りついた林檎の思いの他の冷たさが、渇いた咽喉に心地好い。
誰も彼もが薄色の衣装を軽やかになびかせる中、タイラー一人悶々と、教えられたままに公舎の脇へと続く角を曲がった。
太陽の直射が遮られた路地は風の通り道。その涼しさにほっとする。見通しは十分に効く程度に蛇行した道の奥には、萌える山も見えていた。
あの何処かに廃墟があるはずと勇んだ足が緩んだのは、横道の渡った区画をふたつばかり過ぎた頃だった。
ざっと流れた熱い風の微かな違和感。
反射的に見上げた頭上には、ドラゴンの意匠施したコシカ街旗の代わり、涼しげに路樹の葉が揺れているだけ。住人らしき子供や女性は事も無げに擦れ違う。
首傾げるタイラーは生活地区に迷い込んだ観光客。大きな麻袋を担ぐ男と目が合い、気まずさに会釈残して再開した前進は、山裾の緑を裂いたように忽然と、半分崩れた白い異様が現れたところで小走りになっていた。
田舎育ちの利点は根性と体力と、獣の視力。在学時代そうからかわれもした眼が捉えたのは、緑に埋もれた白茶けた瓦礫の山を昇ったり下りたり、いかにも退屈そうな一人の女性。
約束の時刻までかなりの余裕あったはずが、悠長に構えすぎていたのかもしれない。住人にすれば最早見慣れた遺跡へ続く道をタイラーは一気に駆けた。
白石の砂利が足音上げていたとはいえ、早々にこちらを注視した彼女の姿勢が危惧を決定付けた。
「すいません!」
身軽く地面に降りる足許へ額押しつける勢いで頭を下げ、数秒。タイラーは、不意に漂ってきた異臭に眉を寄せながら、視線を更に地面へ近づけた。
見間違いではなかったようだ。剥き出しの黒土はやはり、もこもこと動いている。モグラでも這っているのか。匂いの元か。
「いっけない」
と一声、革ブーツの爪先が地面をパタすると----消えた。匂いも、気配も。
「今の子、あたしの使役なんです」
興味をそそられた以上の軽快な駄目押し。
方術使いだと公言できるクラスの実力者ならともかく、使い魔の存在を普通明かしたりはしない。根源力を悟られない為と教えられた。
「いつも勝手に出て来ちゃって」
困ったようにそう続けば、タイラーは不審に頭を上げてしまった。
だが改めて見れば感嘆してしまう。
黒髪の女性だと遠目からも判ってはいたけれど。
頭半分高いタイラーを映す戸惑った瞳もまた、漆黒。最も魔力を高め研ぎ澄ますとされる至上の色。
生粋の黒は稀少だと聞いている。全土から人の集まる学院だけに黒髪の人間も居るには居たが、わざわざ染めた連中ばかりだった。生徒だけでなく、教授まで。
「生粋ですか、それ」
「あ、はい。内陸生活長いけど、極東出身です」
物珍しさが言わせた不躾にも、彼女は自分の黒髪をひと束抓んで笑った。
慣れもあるだろうが、さすがGMは違う。同じ年頃にしか見えない若さで素晴らしい胆力だと感じ入り、はてと疑問が湧いてきた。
確か噂によると、光の導師は男ではなかったろうか。至高の黒を纏うなどと聞いた記憶もない。
なれば目の前に佇む、黒髪の女性は何者か。
そういえば、先刻からずっと、2歩の距離を置いての値踏みするような視線が注がれている気もする。
「あの、」
互いの疑念は重なり、不審がますます募ってきた。
それは彼女も同様か。右足を半歩下げ、いわゆる臨戦態勢。
「仲良くしなくちゃ駄目だよ」
いきなり声が降って来た。少し遅れて本体と。
タイミングの悪さとは正にこれ。
緊張を突かれた恰好になり、タイラーは反射的に腰差の剣に手をやり、右手の人差し指と中指を虚空へ伸ばして施術に入ろうとした彼女。 不運の横入りが小さな人影----少年だと看破できても、止めるには瞬きの時間ほど足りなかった。
「危ない!」
ただ叫ぶしかない二人から無情に飛び出す、剣尖、先の使役だろう霧状の黒いもの。
覚悟するのは最悪の事態。ちらりと過ぎった無念など、刀身が見事に細い胴を薙いでしまえば後悔の手応えしか残らない。
彼女もまた、投じた黒いやつが躊躇いもせず頭からガブリといっての呆然たる表情。
倒れる無惨を焼き付けるのがせめてもの最後だと、しっかと上げた眼が限界まで見開かれるのを意識した。
哀れなる犠牲者は霞みと消えていたのだ。
あるべき惨劇の代わりは二枚の紙切れ。悄然の空気に暢気に舞っている。
「う……そぉ! これ黒法!?」
素っ頓狂な声上げて、彼女が紙片に飛びつこうとした瞬間だ。
それは、触れられるのを拒むように光の粒と化してしまった。
陽射に紛れていく煌きが聞こてきそうな美しい光景。
「反応良いね、お二人さん」
と、またぞろ降ってきた声と拍手に彼女は噛み付くような誰何を放ち、タイラーは無言で頭上を見上げた。
崩れかけたバルコニーから平然と身を乗り出して、それはひらひらと手を振っていた。軽妙は仕草に見覚えがある。
「……林檎屋?」
「え? バザーの?」
「そうそう。林檎屋さんじゃないんだけどね、ほんとは」
「じゃあ何よ、」
いつの間にか肩を並べた彼女は、ひどく不機嫌な声を投げつける。
「今の黒法は君の仕業だったわけ?」
「ちょっと邪道だったかな」
「当り前でしょ! 呪符は黒力を触媒するために創られた技なのよ! 元素を等価する4大と相性合うわけ……」
いきなり言葉が切れた。
見遣れば、血の気引く音が聞こえるほどに彼女は青褪め、そこでタイラーもようやく勘付いた。
「あのさ、そっち降りていい?」
首振り人形になった二人が揃って後退ると、よっと掛け声ひとつ、空いた場所へと、羽根のようにふわりと降りてきた。
「時間ぴったり」
紫水晶の双眸に映る自分達は、さぞや項垂れているに違いなく。
「じゃあ、ちゃんと名乗っとくよ。----オレはアルシア。楽しくやろうね」
林檎片手の満足そうな笑顔を直視できなかった。
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