第23話
大学の校舎の屋上から花火を見た。赤い閃光が八月の夜空に舞った。大きな音が数秒後に響いた。
私は興奮してそれを見ていた。私はここで初めて花火を見た。
「綺麗だな」と私はつぶやいた。
「ここで花火を見るのは初めてか?」と友人は私に聞いた。
「初めてだよ」
私は校舎の屋上に取り付けられていた小さな丸テーブルの上に、持っていた缶ビールを置いた。簡易の小さな椅子に座り、周りの景色を眺めた。
埼玉のおおよそ真ん中に位置する街は閑静な住宅街で、駅からバスに乗って十分程行くと、そこは山の中の森林になり、その上に私の通う大学はあった。
大学の周りには森林以外には何もない。校舎の屋上からは、周りを覆う木々と、遠くには山が見える。
それはどこか懐かしい、美しい景色だった。
私は家にいるようにそこでくつろいだ。私の周りには友人やここで初めて会った学生がいた。
「佐々木君はここに来たのは初めて?」
私が振り向くと一人の女子学生が私の方を見ていた。
「初めてだよ。君は以前にもここへ来たことがあるのかい?」
「ええ。私は毎年、この時期になるとここへ来て花火を見ているの」
どこかで彼女と会ったことがあるような気がした。私は少しの間、頭の中をめぐらせた。
「君とは以前どこかで会ったような気がする」
「同じ学科でしょ」
「そうだったか」
「私の名前知ってる?」
「確か斉藤だったような」
「失礼ね」
そう言った彼女は笑っていた。
帰り、バスをバス停で待っていると、さっき会った彼女がやって来た。
「あなたも今帰るところなの?」
「そうだよ」
「家はどこにあるの?」
「東京との境目辺りだよ」
「そうなんだ」
彼女は持っていたスマートフォンを片手でいじり、何かをしていた。私はそんな彼女のことを眺めていた。健康的で少し背の高い彼女はどこか私を惹きつける魅力を持っていた。
「そういえば試験はもう終わったの?」と彼女が私に聞いた。
「明日で終わりだよ。でももう勉強はしてあるから、今日は帰ったらすぐ寝るつもりだ」
「もしよかったらだけど」
そう言った彼女は私の目を見つめた。
「この後一緒に食事でもしない?」
「構わないよ」
「そう。じゃあ私の部屋に来て」
「君の部屋に行くのかい?」
「ええ。構わないでしょ?」
「構わないけど」
バスが来たので、私達は一緒に乗った。バスの中は人が少なく、ほとんどの席が空いていたので、私達は一番奥の席へ座った。
「いきなり君の部屋に入ってもいいのかい?」
「ええ。あなたの事は前から知っていたし」
「そうだったのか。授業で一緒になったのかな?」
「ええ」
そう言った彼女は少し元気がなさそうに俯いていた。
バスが駅の側に着くと、彼女は私を彼女の住んでいるマンションの部屋まで案内した。
部屋の扉を彼女が開けると、中から一人の小柄な女性が顔を出した。
「こんばんは」とその女性は小さな声で私に挨拶をした。
「こんばんは」と私は挨拶をした。
「この方は?」とその女性は彼女に聞いた。
「大学の友達よ」と彼女は言った。
私は彼女達の部屋に案内された。部屋の中は綺麗に片付いていて、塵一つ落ちているようには見えなかった。それどころかマンションの外観とは打って変って部屋の中は無機質な印象を感じた。
「君達はここに住んでいるのかい?」
「ええ。私達はここに住み始めてもう二年になるわ」と小柄な女性が言った。
とても人が、特に女性が二人、ここに二年間住んでいたとは思えなかった。モデルルームのような部屋は余計な修飾は一切なく、ただ必要最低限のものが綺麗に並べられていた。
私は部屋に置いてあったソファに座るよう指示された。私が言われた通りそうすると、コップの中に入った飲み物が運ばれてきた。
「そういえば君達の名前をまだ僕は聞いていなかったね」
「私は由里」と彼女が言った。
「私は唯」と小柄な女性が言った。
「僕の名前は祐だ」
「私達どことなく似ているわね」と由里が言った。
「何かの縁かしらね」と唯が言った。
私はテーブルの上に置かれたコップを手に取り、一口飲んだ。上品な香りと味がした。
「この飲み物は?」
「紅茶よ」
「ティーバッグかい?」
「ええ」
私は生活感のない部屋の中で紅茶を飲んだ。彼女達はそれぞれが持ってきた飲み物を飲んでいた。
「君達は何を飲んでいるんだい?」
「私も唯もあなたと同じ紅茶を飲んでいるわ」
「もしかしてこの紅茶は上質なものかい?」
「コンビニで売っているものよ」と唯が笑って言った。
「ところで君達は僕と同じ学科かい?」
「ええ。私も唯も同学年であなたと同じ学科よ」
「私達のこと知らなかったの?」と唯が言った。
「僕はあまり周りに気が付かないのかもしれないね」
「そうね。ところであなた、明日は何のテストを受けるの?」
「明日は有機化学のテストがあるんだよ。反応がどうこうってやつさ」
「あら、あの講義なら私は二年生の時に既に取っていたわ」
「そうね。私達一緒に取ったものね」
「そうか。既に君達はあの講義を取っていたのか。僕は事情があってあの講義を今期まで取ることが出来なかったんだ。ところで、あの講義のテストは難しかったかい?」
「そんなことないわよ。基本的なところを学習していれば問題なく単位は取れるわ」
私はバッグからその講義の教科書を取り出して見せた。
「君達の頃もこれを使っていたのかい?」
「いえ。初めて見たわ」
「ちょっと見せて」と唯が言った。
彼女達は二人で教科書の中をじっくりと吟味していた。私は彼女達がそうしている間に帰りの電車の時間を調べていた。
「問題ないと思うわ」としばらく教科書を読んだ後、由里が言った。
「ところで、食事はどうしようか?」と私は言った。
彼女達は私をキッチンへ連れて行った。私が冷蔵庫を開けると、中にはたくさんの食材が入っていた。
「これを使うのよ」
由里はそう言うとその中のいくつかを取り出し、銀色のボウルに入れた。ボウルの中は色とりどりの食材で満たされた。
彼女はその中に水を入れて、食材を洗った。彼女は洗った食材を白いまな板の上に置いた。
「手伝って頂戴」
そう言って彼女は私にまな板の上の食材を切るように仕向けた。私は普段あまり料理をしたことがなかったが、出来る限りのことはやろうとし、食材を端から順に切り始めた。
彼女達は私がそうやって食材を切っているところを黙って見ていた。
私が食材を切り終わると、唯が鍋を用意し、その中に油を引いた。
由里はその中に私が切った食材を入れ、炒め始めた。白い煙が舞い、香ばしい香りがした。
炒め終わると唯が鍋の中に水を注いだ。そしてしばらく煮た後、由里がカレー粉を入れた。
「カレーだったのか」
「ええ」
私達は出来上がるまでキッチンで話をしていた。
「あなた、カレーは好き?」と由里が私に聞いた。
「好きだよ。料理の中でも特にね」
「そう。それはよかった」
「祐君は家で料理するの?」と唯が私に聞いた。
「たまにするかな。野菜炒めとオムレツと目玉焼きくらいなら作れるよ」
カレーが出来上がると私達はそれを皿の上によそった。
テーブルの上に三人分の皿を置いて、私達は食べ始めた。
「こうやって人の家で料理をしたのは初めての経験だな」と私は言った。
「そうなんだ。祐君は友達の家に泊まったりしたことはないの?」と唯が言った。
「大学に入ったばかりの頃はあったかな。もうその友達は卒業してしまったけどね」
「祐君は留年したの?」と唯が私に聞いた。
「そうだよ。だから君達のことはよく知らなかったんだ」
「そういえばあなたのことを知ったのは今年からだったわね」と由里が言った。
終電の時間が近づくと私は彼女達の部屋を出て、駅に向かった。由里が改札の前まで私を送ってくれた。
「あなたとまた会うのは夏休みが終わってからかしらね」
「そうだね。僕は明日まだテストがあるけど、君はもう学校には来ないだろ」
「そうだけど、私はこうやって大学の近くに住んでいるから、また暇があったら寄って頂戴」
「わかった」
そう言った私は改札を抜け、彼女に手を振り、ホームへ向かった。
「またね」と彼女が私に言った。
ホームで電車を待っていると、携帯電話に着信があった。
「久しぶりだな」と私が電話に出ると、旧友が言った。
彼は昔の大学の友達だった。
「久しぶり」と私は彼に返事をした。
「元気にしていたか?」
「ああ」
「ところでお前はもう夏休みか?」
「あさってからだ」
「そうか。明日空いているか?」
「明日は午前中にテストがある」
「わかった。じゃあ明日の午後また連絡する」
そう言って彼は電話を切った。
私はホームに来た電車に乗り、席の端の方に座った。電車の窓からは住宅街の景色が見えた。マンションが並んでいて、電気のオレンジ色の明かりが見えた。
家に着くと部屋の明かりがついていた。私は部屋を出る時、電気を消し忘れたのだと思った。私はベッドの上に横たわり、仰向けになった。今日一日がとても長く充実していたと思った。
窓から吹き込む風は、昼間とは違い、涼しく心地が良かった。私は少しの間そうしていると眠くなってきたのでシャワーを浴びることにした。
風呂場へ行き、服を脱ぎ、シャワーを浴びた。温かいお湯で体の汗を流した。
リビングへ行くと家族はもう寝ていたので、誰もいなかった。私は冷蔵庫からお茶を出して、コップに入れて飲んだ。冷たいお茶が胃の中に落ちていくのを感じた。
私はコップを手でいじりながら、今日会った由里と唯について考えていた。彼女達は私と同じ学科で一緒に授業を受けたことがあるようだった。しかし、私の記憶には彼女達のことはおぼろげにしかなかった。
部屋に戻り、電気を消した。明日はテストなので、少し早めに起きることができるよう、いつもより早めに目覚まし時計をセットした。
朝起きると、カーテンの隙間から日差しが部屋に射し込んでいた。部屋の中ではクーラーが音を立てていた。今日も暑くなりそうだと思った。
リビングへ行くと、私の分の食事が用意してあった。
私はトーストを手に取り、ブルーベリーのジャムをスプーンで塗った。一口かじると、酸味と甘味がした。
私はキッチンへ行き、コーヒーを入れた。お湯を注ぐと、コーヒーがコップに滴り落ちた。砂糖と牛乳を加え、それを飲んだ。
部屋に戻り学校へ行く準備をした。バッグの中に教科書、ノート、筆記用具を入れた。
玄関へ行き、靴を履いて外に出た。外は日差しが強く、目をつむった。
駅までの道を歩いて行った。人はあまり歩いていなかったが、車の通りは多かった。私は車にぶつからないよう注意して道を渡った。
駅に着くと、昨日私に電話してきた友達と偶然会った。彼の名は田中と言った。
「なんでこんなところにいるんだ?」と私は彼に聞いた。
「お前の家を知っていたから、お前が来るのを待っていたんだ」
「ずっと待っていたのか?」
「ああ」
私は彼と久しぶりに会って話した。電車の中は混んでいたので、二人で手すりに掴まっていた。
「お前は今仕事をしているのか?」と私は彼に聞いた。
「そうだよ。俺が就職したのはお前も知っているだろ?」
「知っているけど、お前が就職した後、話をしたことはなかったからな」
私達は電車を降りて、ホームの向かいに来ていた電車に乗り換えた。
電車の中は先程よりもずっと空いていたので、二人で席に座ることができた。
「そういえば昨日花火を見たんだよ」と私は彼に言った。
「そうだったのか。どこで見たんだ?」
「大学の屋上で」
「そうか。俺も昔、大学の屋上で花火を見たことがあったな」
「そうだったのか。そういえば昨日同じ学科の女子学生に話しかけられたんだ。名前は由里と唯と言っていたんだが、お前は彼女達のことを知っているか?」
「由里と唯か。彼女達の事は昔から知っているよ。確か、花火を見た時に知り合ったんだ」
そう言った彼が少し笑みを浮かべたように見えた。
「どうかしたのか?」
「いや、ただ彼女達と会えたというのは運がいいかもしれないなと思ったんだ」
電車は大学の最寄駅に着いた。私達はそこからバス停まで歩いて行った。
「今日は何のテストを受けるんだ?」
「有機化学だよ」
「そうか。俺はその講義を受けたことがないな」
バス停でバスを待っていると、遠くに昨日会った由里と唯が並んで歩いているのが見えた。
私が彼女達に手を振ると、彼女達は私達の方へ歩いてきた。
「昨日ぶりだね」と私は言った。
「久しぶりです」と彼女達は田中を見て言った。
「久しぶり。元気だったか?」と田中が彼女達に言った。
バスが来たので、私はバスに乗った。
「テスト頑張ってね」と由里が言った。
バスの扉が閉まり、バスはバス停を出発した。埼玉の中心地から離れた場所の住宅街をバスが抜けると、山が遠くに広がっていた。バスが森に囲まれた傾斜を上っていくと、大学の建物が見えた。バスはバス停の側で停車し、扉が開いた。私はバスから降り、テストが行われる教室へと向かった。
教室へ入るとたくさんの学生が席に座っていた。テストが始まるまでまだ時間はあったが、私は自分の座る席を確認し、そこへ行って座った。
テストの開始時間まで席に座り、周りを眺めていた。ほとんどの学生が教科書やノートを見たり、友達と話したりしていた。
私はこの講義を一人で受けていたので話す相手もなく、勉強もすでに十分していたので、いまさら勉強する気にもならなかった。
テスト開始の五分前に教授が教室にやって来た。教授は学生証を机の上に置いておくように指示した。問題用紙が配られ、開始時間になると教授が解答を始めるように言った。
私はまず問題を見渡し、簡単に解けそうなところから解き始めた。すんなりと手は動き、大部分の問題を考えることなく解くことができた。
全ての問題に手を付け終わると解答用紙を裏にし、教室を後にした。おそらく単位は取れるだろうと思った。
私は携帯電話を取り出し、田中に電話を掛けた。
「テストは終わったのか?」と彼は私に聞いた。
「終わったよ。今からバスに乗るところだ」と私は言った。
「今、彼女達と一緒に食事をしていたんだが、お前も来るか?」
「ああ」
私がバス停に行くと、バスが来ていたので私はそれに乗った。バスは森の中の傾斜を下って行った。もう何度も見た景色だった。それでもその景色を見るたび、何か思うことはあった。
バスが駅の側のバス停に着くとそこに田中達が待っていた。
「お前が来るのを待っていたよ」と彼が言った。
「悪いな。待たせて」
「テストはどうだった?」と由里が私に聞いた。
「問題なく出来たよ」
「私達これから行かなくちゃいけないところがあるの」と唯が言った。
「そうか。じゃあ俺達二人でどこかへ行くか?」と田中に私は聞いた。
「構わないよ。今日は空いているから遅くまで一緒にいよう」
私達は改札の前で彼女達と別れ、ホームへ行った。
「どこへ行こうか?」と私は彼に聞いた。
「ここへ来る途中で大きな駅があったからそこで降りよう」と彼は言った。
その駅は埼玉の中の大きな街の一つで駅の辺りには様々な建物があった。
私達は電車に乗り、その駅へ向かった。途中何人かの高校生が電車に乗ってきた。
「高校はもう夏休みだよな」と私は言った。
「おそらく部活の帰りじゃないか」と彼は言った。
「そういえばお前は高校時代、部活はやっていたか?」
「やっていたよ。俺は高校まで水泳をやっていたんだ」
「そうか。俺も水泳を小学生の頃、習っていたよ」
駅と駅の間が短く感じた。彼とこうして話していると、自分が子供だった頃を思い出した。大学に入ってからは、子供の頃のような感覚を味わうことは少なくなっていた。
「この辺りにお前は住んでいるのか?」と私は彼に聞いた。
「いや、俺が住んでいるのは東京の外れの街さ」
「卒業してから引っ越したのか」
「ああ。会社からあまり遠くない場所に住もうと思ってね」
「そこはどんな街なんだ?」
「住宅街だけれど、駅の近くに行けばいろいろな店がある。学校や公共施設も多いな。子供の数が多いと思う。たぶん家族で住むには住みやすいところだと思うよ」
目的の駅まで着くと、私達は電車から降りた。電車に乗っていた他の人達も多くがこの駅で降りた。そして私達が降りた後、たくさんの人が電車に乗った。
私達は駅の階段を上り改札に行った。改札を通ると、目の前に洋菓子を作っている店があった。駅の出口は、左右に分かれていて、両側に階段がついていたので、どちらにも降りることができた。
「どちらへ行こうか?」と私は彼に聞いた。
「右側の出口の方が使ったことがある。確かそちらの方が店も多いはずだ」
私達は右側の出口から出ることに決めた。確かに彼の言う通り、右側の出口を通ると目の前にはたくさんの大きな建物があり、店の看板があった。
「人の多い街だな」と彼はつぶやいた。
「お前の住んでいる街はこれ程人は多くないのか?」
「そうだな。たぶんこの街の半分くらいしかいないと思う」
「そうか。じゃあ店の数もこの街の半分くらいか?」
「ああ。たぶんな。それにしてもこれだけたくさんの店があると、どの店に入ったらいいのかわからなくなるな」
私達が今歩いている場所の真横には、右側に電気屋、左側に洋服屋があった。電気屋の左側にはそば屋があり、洋服屋の左側には居酒屋があった。もう少し先へ歩いて行くと、今度はラーメン屋が店の半分を占めるほど多い場所に来た。
「せっかくだからラーメンでも食べていくか?」と私は彼に提案した。
「構わないよ。俺は食事の中では何番目かにラーメンが好きだし、ラーメンには少しこだわりがあるんだ」
私達は何店か見て回った後、とても小さな店に入った。そこは店員が一人で、水はセルフサービスだった。私は棚に積み上げられていたコップを二つ取り、水をその中に注いだ。
田中はカウンター席の一番奥に座ったので、自分はその隣に座り、水をテーブルの上に置いた。メニューが店員から渡されたので、私達はその中から何を食べるか決めた。
私達は醤油ラーメンをそれぞれ注文した。店員は注文を聞くと、箱から麺を出し、網に入れて茹で始めた。
「そういえば由里達とはどんな話をしたんだ?」と彼に聞いた。
「昔、花火を見に行った時の思い出話や、今俺がしている仕事の話や、彼女達の大学生活のことを話したよ」
「そうか。彼女達は俺とは元々学年が違うから年も下だと思っていたけど、特に由里は大人びていると思ったよ」
「そうだな。それに唯だって素直な女性じゃないか。俺はどちらかというと唯に好感を持っているんだ」
「そうだったのか。俺はどちらかと言えば由里の方が自分には合っている気がするな」
店員は麺が茹で上がると、スープを入れたどんぶりの中に麺を入れた。その上にいくつかの野菜や肉を添えて、出来上がると店員は私達のテーブルにそれを置いた。上手そうな匂いがした。
私達は割り箸を割って、それを食べ始めた。スープは味に深みがあり、麺は太目だったがスープとよく合っていた。
「上手いな」と私は言った。
「そうだな。中々いい味だと思う」と彼は言った。
「彼女達も連れて来ればよかったな」
「用がなければよかったんだが、どうしてもそこへ行かなくてはいけなかったらしい」
「いったい彼女達はどこへ行ったんだろう?」
「俺にもわからないよ。ただ俺と会った時から、この後用があると言っていたから大事な用なんだろう」
私達は食べ終わると会計をし、店を出た。店の外は店内と違い、蒸し暑く、日差しが強かった。
「この後、どうしようか?」と彼に聞いた。
「ちょっと買いたいものがあるから、それに付き合ってもらっても構わないか?」
「構わないよ。いったい何を買うんだ?」
「調べたいことがあって、それで本を買いたいんだ」
私達はそこから駅の方へ歩いて行った。彼が本屋の場所を知っていると言うので、彼に付いて行った。
通りは人通りが多く、横をたくさんの車が通っていた。その中のいくつかの車に私の注意は向いた。それらの車は外国製のものだった。私はそのデザインに惹かれていた。きっとその会社の車をデザインした人は才能のある人なのだろうと思った。
歩いているうちに目の前に大きなビルが見えた。その建物全体が本屋になっていた。全面はガラス張りで、夏の日差しを反射していた。
私達は本屋の入口の所へ行った。そこから中に入り、エスカレーターで上の階へ昇って行った。エスカレーターは駅にあるようなものよりも横幅は小さかったが、どことなく洒落た作りになっていた。二階へ行くと、そこには旅行関連の本が置いてあった。彼はこの階で本を探すと言った。
その階には様々な県の旅行に関する本が置いてあった。北海道から沖縄までそれぞれの県の観光地が書いてあった。
私達はその中からいくつかの本を手に取り中身を見た。
「いったいお前はどこの県について調べたいんだ?」
彼は昔から歴史があることで知られている県名を告げた。
「どうしてお前はその県について調べようと思ったんだ?」
彼は私の問いに頷いたが、沈黙した。私はそれ以上彼にそのことについて聞くことはできなかった。私の着ていたシャツは汗で滲んでいた。クーラーは強いほどに効いていた。しかし、私は彼の前で緊張した時のような感覚を味わった。どうやら彼がその県について調べていることは、私には打ち明けられないような理由があるらしい。
私は彼から少し離れ、海外の旅行書を見ていた。私はまずアメリカの観光地についての本を読んだ。ロサンゼルスには野球場があること、ニューヨークには劇場があることがわかった。
次に私はイギリスの観光地に関する本を読んだ。先程のアメリカの街並みと比べるとイギリスの街並みはどこか落ち着きがあるように感じた。
その次にスペイン、フランス、ドイツ、イタリアとヨーロッパの国の観光地に関する本を読んでいった。もしかしたらそれらの国では私の住んでいる日本の観光地に関する本があるのかもしれない。そして今どこかで私と同じようにそれらの国の誰かが日本に関する本を読んで、その街並みについて考えているかもしれないと思った。
私が彼のいたところへ戻ると彼はそこにいなかった。私はじきに戻ってくるだろうと思い、別の階へ行って見ることにした。
その上の階には小説が置いてあった。私は海外の小説家の本を手当り次第、手に取って最初の数行を読んだ。そして自分が読めそうな本を探した。
私はその中からロシアの作家が書いたものと、ドイツの作家が書いたものを選んだ。そして今日それを買うことに決めた。
私は先程いた階に戻ると、彼はまだそこにはいなかった。私は携帯電話を取り出し、彼に電話を掛けた。しかし、彼は私の電話には出なかった。
私はその建物の一番上の階に行った。そしてそこから下の階へ順に見て回った。しかし、彼の姿はなかった。彼は私を置いて帰ったのだろうか。
私はもう一度彼に電話を掛けたが、彼は出なかった。私は彼にメールを送り、今どこにいるのか聞いた。三十分待ったが彼からは何の連絡もなかったので、私はその建物から出た。すると店の出口の前に由里がいた。
「こんなところでどうしたんだ?」と私は彼女に聞いた。
「あなたを待っていたのよ」
「用は済んだのか?」
「済んだわよ」
「さっきまで田中と一緒にこの中にいたんだ」
「知っているわ。彼から連絡があったの。急用が出来たから、自分の代わりにあなたを待っていて欲しいって」
「そうだったのか。それにしても僕に一言連絡をしてくれればよかったのに」
「そうね」
そう言った彼女は少し微笑した。
「この後、どうしようか?」と私は彼女に聞いた。
「あなたと食事がしたいわ」
「この街でいいかい?」
「あなたの地元に行ってみたい」
私達はそこから駅へと歩いて行った。
「あなたの地元は確か東京との境目辺りにあるんでしょ?」
「そうだよ。そんなに大きな街ではないけれど、必要なものは大体その辺りで揃うし、閑静で住みやすい街だよ」
「そういう街っていいわね。私も将来はそういうところで生活がしてみたいわ」
「君の住んでいる街は少し閑散としているもんな」
「そうね。大学が近くにあるのに不思議ね」
「それでも僕はあの街の景色が好きだよ。あの街はもちろん通学の時に通るけど、その度に懐かしさを感じるんだ。僕は子供の頃マンションに住んでいたんだけど、どこかその頃に見た景色と被るものがある気がするんだ。特に休日に家族みんなで食事に行って、帰って来た時のようなね」
「私も子供の頃、見た景色をたまに思い出すことがあるわ。特にこの前、旅行に行ったところなんて前世にそこに住んでいたような気すらしたのよ」
私は彼女に昔から歴史がある県ではないかと聞いた。すると彼女は頷いた。その県名を告げると、よくわかったわねと彼女が言った。その県は先程田中が本屋で調べていた県だった。私はその県には子供の頃行ったことがあった。しかしその時の記憶はおぼろげでどんな印象を感じたのか思い出すことはできなかった。
「そういえば今日、田中と食事をしたんだろ?」
「そうよ。大学の近くのレストランで食事をしたわ。私と唯はトマトスパゲティを田中君はピザを食べたの。彼、ピザを食べるのがとても上手いのよ。まるで建築家が製図をするようにピザを切るの。それで全く同じ大きさに切られたピザを片手で器用に食べるのよ」
「そうだったのか。ところで田中とはどんな話をしたんだ?」
「花火を一緒に見た時の思い出話や、彼の仕事のことや、私達の大学のことを話したわ」
私は駅に着くと、階段を上り、改札まで行ってそこを抜けた。
「あなたの地元へ行くのは楽しみだわ」と彼女は言った。
私達はホームで電車を待っていた。向かいのホームにはすでに電車が来ていて、たくさんの人が乗り降りしていた。
「僕の家から少し歩いたところに昔から行きつけのレストランがあるんだ。そこは夫婦が経営していて小さな店だけど味は一流だと思うよ」
「楽しみだわ。あなたが昔から行っていたところに行くなんて。そういえばあなたは子供の頃どんな子供だったの?」
「僕は子供の頃、短気だったんだ。上手くいかないことがあるとすぐ物に当たってね」
「何か意外だわ。あなたって何が起きても冷静に対処していそうな雰囲気を持っているから」
私達は電車が来たので、それに乗った。電車の中は先程この駅に来た時よりも人が少なかった。
私は電車の中の席に、彼女の隣に座った。窓の外の景色はいつも通学の時に見る景色と同じだった。遠くには太陽が見えた。そして太陽の光に照らされた街が見えた。私は彼女と過ごしていると、懐かしい気持ちになった。
「君の地元はどこにあるんだ?」
「日本の上の方よ」と彼女は漠然と答えた。
彼女も私も電車に揺られながら、ただ時間が過ぎて行った。私は彼女に何かを話そうと思った。だから何について話そうか考えていた。話題はいくらでもあった。それなのに、今は何も話さなくてもいいような気がしていた。
「あなたって不思議な人ね」と彼女は言った。
「どうして?」
「何となくそう思っただけよ」
私はもう一度、窓の外の景色を見た。東京に近づくにつれて、街も大きな建物が増えていくように感じた。何度か東京の都心までこの電車に乗って行ったことがあった。その時は大きなビルしかないと思っていたが、実は普通の住宅があったり、自然が多かったりした。
「君は街の雰囲気について考えたことはあるかい?」
「あるわよ。住む場所を選ぶときはいつもそこへ行って、自分にとって住みやすそうか考えているわ」
「君はどうしてあの大学に行くことにしたんだ?」
「自然の多い場所だったから」
「僕もそれであの大学に行くことにしたんだ」
私があの大学を選んだのは高校三年生の冬のことだった。受験まであまり時間がなかった私は、ようやくどこの大学を受験するか決めていた。私は東京、千葉、埼玉にある大学を見て回った。それぞれの大学がそれぞれの雰囲気を持っていた。そして自然とどこの大学に行きたいかがわかった。私はその中から自分が行きたい大学を決め、そこを受験した。候補はいくつかあったが、その中で受かったのが、今通っている大学だった。
私達は私の地元の駅に着くと、そこで降りた。そこから改札まで行って、そこを通り抜けた。目の前には商店街があった。
「買い物をしてもいいかな?」と私は言った。
「構わないわよ」
私達はその駅の周辺で一番大きなスーパーマーケットに入り、オレンジジュースと牛乳とコーヒーの粉を買った。
「最近は暑いからコーヒーとオレンジジュースばかり飲んでいるんだ」
「確かにこう暑いと甘い飲み物が飲みたくなるわね」
「君は喉が渇いていないかい?」
「何か飲みたいわ」
私達は商店街の奥の方にあったカフェに入った。そこで私達は店内のテーブルに座り、アイスコーヒーを注文した。
「そういえばさっき田中があの県について調べていたんだ」と私は言った。
「実はねあの県は唯の地元なのよ」と彼女は言った。
「そうだったのか。それにしてもどうして田中はあの県の旅行書を見ていたんだろう」
「きっとそこには理由があるのよ」
私達はそれ以上そのことに関しては話さなかった。彼女は期末試験で危なかった科目があり、その単位が取れているかどうか心配していた。
「君は毎回授業に出席していたのかい?」
「半分くらいは出席していたわ」
「そうだったのか」
私達の元にアイスコーヒーが運ばれてきたので、私達はそれを飲んだ。コーヒーの苦みが口の中に広がっていった。私はコーヒーを飲むたびにどうしてこの味がおいしいと感じるのか不思議に思っていた。
「そういえばあなた留年したんでしょ」と彼女は言った。
「そうだよ。僕は事情があって大学を休学していた時期があったんだ」
「そうだったの。今年は進級できそう?」
「問題ないよ。君と違って授業には毎回出席していたし、テスト勉強もしっかりとしていたからね」
彼女はアイスコーヒーをストローで飲みながら私のことを見ていた。
夜になると街は街灯の明かりに照らされていた。私達は私が昔から行っていたレストランに向った。夜は昼間とは違い風が涼しかった。このくらいの気温に日中もなればいいと思った。
夏休みのせいか自転車で中学生くらいの少年達が目の前を通り過ぎて行った。自分もそれくらいの年の頃はあのように友達と一緒に遊んでいたことを思い出した。
店に着くと私は扉を開けた。店内はオレンジ色の光に包まれていた。小さな店だが落ち着きがあり、温かさがあった。
私達は店の隅のテーブルに座った。メニューが渡されたので、その中から何を食べるか選んだ。彼女は鶏肉のソテーを私は牛肉のステーキを頼んだ。
料理が来るまでの間、私達は話をしていた。話の内容は私達が専攻している科目の話から恋愛の話まで幅広く話した。
こうして話しているといつか彼女とまたこんな風に食事をするような気がしていた。それは来月かもしれないし、何年後かもしれなかった。
料理が運ばれてくると私達はそれを食べた。肉は柔らかく、口の中に入れると溶けるようだった。彼女も料理を食べ、おいしいと言った。
食事が終わると食後のデザートとコーヒーが運ばれてきた。私はそれを少しずつ食べた。
「ここの店、私はとても気に入ったわ」と彼女が言った。
「僕も気に入っているんだ。いい雰囲気だし、食事はおいしいし」
私達は会計を済ませ、店の外に出た。店の外は暗く、空を見上げると月が見えた。
「夏はどこか懐かしい気がするんだ」と私は言った。
「私もそう思うわ。暑くて嫌になる日もあるけど、そんな日ですら子供の頃を思い出すの」
「君と一緒にいるから懐かしいのかもしれない」
「私もそんな気がするわ」
「今度、また一緒にどこかへ行こうか」
「いいわよ。その時は私が案内するわ」
遠くから花火の音が聞こえた。その音はしだいに大きくなっているようだった。私達はどこかで花火を見ることができるかもしれないと思い、辺りを回った。大きな公園に私達が辿り着いた時、遠くに半円の花火が見えた。半分は建物に覆われていた。もう半分は空に広がっていった。
「綺麗ね」と彼女が言った。
「綺麗だね」と私は言った。
私達はそうして花火をそこで見ていた。周りには何人かの人が私達と同じように花火を見ていた。
「また来年も君と一緒に花火が見たい」
「私もあなたと一緒に花火が見たいわ」
花火が終わると街は静けさに包まれた。周りにいた人はいなくなっていた。
私の耳の奥ではまだ花火の音が鳴っているようだった。
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