第22話


故作曲家Mは音楽をいいことをしようとする感じにすることに対して反感を持っていたように思われる。


Rは作曲家だ。音大を四年間で卒業した。昔からバイオリンとピアノをやっていた。バイオリニストを目指していたが、実力から挫折した。そして彼は作曲学科の大学院に進学した。

作曲は趣味程度にやっていたが、彼はたまたま応募した国内のコンクールで金賞をとった。

彼の名声は卒業後奇跡的にレコード会社のオーデイションに受かり、映画音楽を担当することになったことから爆発的に広まった。

当時の年収は月十数万といったところだったが、それでもかまわなかった。

爆発的に人気が出て海外の取材まで受けるようになったときから映画を担当した女優と交際し始めた。

秘密の交際。そして得た名声。自分が心から愛した音楽。

全てを手に入れたつもりだった。しかし実際にはあまり変わらない。

街なんか歩けない。女優のEと一緒にいてもすぐに慣れてきてしまう。音楽を作るのは退屈で、そしてすぐにそれにも慣れてきてしまう。

「ねぇ。昔小学校の頃に読書感想文を書いたでしょ。あの時私なんて書いたと思う?」

「オードリー・ヘップバーンみたいな女優になること……とか?」

「実はねパン屋になりたいって書いたの」

「へぇ~。それはまたずいぶんと夢が小さいね。どうせなら世界的な有名なスターになりたって世界にあるきらびやかなもの全てを手に入れて、世界を救って見せるくらいのじゃないと映えないだろう」

「なに言ってるのよ」

 EはRに向かってちょっと苛立ったようにいった。

 きらびやかな彼女も化粧を外せば普通の女の子だった。そしてばれればおそらく彼女は仕事を失うだろうということも。

「あなたは作曲家になって何か変わった?」

「そうだねぇ。あれほど名声を浴びた僕だけれど完全に慢心してしまったね。そして昔の大学の同期なんかが、まぁやつらは普通の会社に就職したわけだが、そいつらが俺に対してなんかへりくだっているのを見ると、さぁーてなんでこいつらは俺に対してこんな風なんだろうとは思うよ」

 Rは何かEに対してまずいことを言った気がした。ダブルベッドに並んでRとEは煙草を吸っていた。ぷかぷかと煙が部屋の中を漂うが、大きな部屋なのであまりこもらない。

「広い部屋に名声に君は欲しいものは全て手に入れたようだ」

 Rはそう言った。

「なんだか子供っぽい。普通ならそんな夢物語なんて消え去ってしまうのに」

「どうしてだろうね。俺はまだ満たされないんだ」

「秘密だけど、業界じゃあなたのこと疎ましく思われているって知ってた?」

 Rは心にぐさっとその言葉が刺さった。

「ただの凡人どもが俺みたいな天才が作る音楽を理解してくれないだけじゃないのか?」

「あなたの他人を内心見下しているところはわかるけど、商売よ? わかる?」

「わかっているよ。でも俺はやつらに勝ちたい。世界の誰よりも有名になって、いつか過去の天才と比類するような音楽を作りたい。モーツァルト、ベートーベン、ブラームス。天才はいつの時代も苦悩の中に素晴らしい音楽を作ってきた。あのロマン・ロランだってベートーベンを称賛している」

「本音を言うけど、彼らの音楽は私には退屈だし、あなたの音楽はただ単にいいなと思う以上のものは感じないの」

「皮肉を言うようだが」

「いっつも皮肉ね」

「そうだよ。俺はいっつも彼ら偉大な作曲家の交響曲の一部を何度も繰り返して聞くだけなんだ。そりゃあ俺のことを無教養だというかもしれない。理解していないというかもしれない。だけれど、本当は彼らの曲を理解するのは難しい。大学時代ずっと学んできた」

「それは皮肉じゃないわ。あなたがまだ若くて勉強不足なだけよ」

「なんでお前が皮肉を俺に言うんだよ。いっつもそうだ。おそらく何か深刻で深い意味があるんだろう。だけれど俺は自分の才能に自信を持っている」

「なんだかあなたと話しているとずっとそんな権威の話ばかりね」

「俺があれほど憧れた権威だぞ。俺はずっと夢物語を追い続けていた。あれほど追い求めていざもらったら居心地が悪いんだ」

 ベッドの上で彼らは馬鹿みたいに煙草を吸いながら話し合っていた。RとEもこうして話に熱中できることだけが幸せだった。

 普通に話をしているだけ。だけれど彼らはいつの間にか抱き合いセックスをした。


 目覚めると白い雲がベランダの窓越しから見えた。昨日飲んだスパークリングワインをRは飲み干して、Eの横たわった背中を見ていた。

 Rは酔い覚ましに、シンセサイザーで作曲を始めた。ヤマハのシンセサイザーの中にひたすら音を探していく。モチーフとモチーフを生み出しつなぎ合わせて構築していく。

 Eが起きてくる。

「おはよう」

 Rはそう言ってキッチンでハムを炒めて目玉焼きを二つ落とす。パンを焼いて、皿の上に載せる。

「コーヒーは?」Rは聞く。

「うん」

 コーヒーをドリップで淹れて、RはEと共に食卓につく。

 コーヒーの中にゆらゆらとミルクが沈んでいく。Rは一口すすり、Eと共に食事をした。

 パンの香ばしさだったりコーヒーの甘みだったり、ハムエッグだったり。

「昨日はずいぶん話したね」

「そうねぇ」

「いろいろと胸の中で隠していたことをさらけ出した」

「へぇ~」

 朝になるとEはやけに不機嫌に見えた。Rはぼーっとパンをかじっていた。

 自分が悪いのかななんてRは思ったりもした。

 Eは仕事に出ていった。慎重に注意しながら。

 Rは部屋の中で少しじっとした後、仕事に出かけた。

 頭の中で資本主義について考えていた。

 個人が欲の総体ならいったいどれほどの欲を満たせばいいのだろうなんて意味もないことを思いながら、Rは歩く。

 鳩だったり、公園の前のガードレールだったり、おばさんだったり,時折Rのことを知ってると思われる女子高生だったり。

 結局Rはパソコンで受け取った仕事を都内のスタジオでやった。スタジオの一室でRは一人で作曲したデータを楽器の音に変換した。

 時折バイオリンを弾き、時折ピアノを弾いた。

 頭の中に様々な瞑想が突き抜ける。

 前回の曲は何ども作り替えた。思うような曲ではなかった。

 Rはふとロマン・ロランの「ベートーベンの生涯」のページを開く。大学時代にはまりにはまった作品だった。

 ベートーベン。

 Rは何かを探していた。

 その日の午後、Rはおそめの昼食をカフェで食べた。

 コーヒーとともにBLTサンドを食べた。

 食事が終わるとレコード会社に向かった。企画と打ち合わせを夜まで行い、その日家に帰ったのは11時だった。

 彼女の帰宅を待つ。

 手製のフルーツのジュースなんかを作りながら。

 キウイとバナナと苺の入ったジュースを飲みながらRは仕事先でもらった明太子を食べた。

 1時にEが帰ってくる。

 RはEを出迎える。

「遅かったね」

「ちょっと飲んできたのよ」

「はぁ」

 Rはため息をつく。

「どうしたの?」

「いや、なんでもない」

 Rはそう言いながら、ベッドの方へ向かう。

「そこにフルーツのジュースと明太子がある。よかったら食べてよ」

「うん」

 Rは寝室で眠る。EはぼんやりとRの方を見ていた。

「週刊誌がね。私のことを撮ったみたい」

「え?」

「もう私に仕事はないの」 

 翌日、Eは家にいた。

僕は職場によばれた。

「タブーだってわかるだろ?」

「ええ」

 Rは曖昧に返事をする。

「悪いけど当分仕事はないよ」

「そんな……」

 EとRはマンションの一室で茫然としていた。

「どうしよう?」

「仕方がない。もうこれからは普通に生きていくしかない」

「あなたの音楽は? 私の演技は?」

「そんなものさ」

 貯金は十分にあった。以前より以上に週刊誌と新聞とテレビが彼らを追及し、より一層街を歩くのが困難になった。

 彼らは高層マンションを引き払った。

 貯蓄は二人合わせて数千万あった。

 二人で東京を離れ、神奈川の方に家を借りた。

 家賃二十万の一戸建てに二人で住んだ。

 作曲を相変わらずRは続けていた。Eは活動停止中だった。

 Rは金を稼ぐために偽名を使ってマレーシアのテレビ局に曲を提供していた。

 作風も依然とはがらっと変えた。

 わかりやすく目立ち過ぎない曲を作った。

 以前は相手をとにかく感動させることだけを目標にしていた。

「結局音楽なんて相手を一時的に感動させることが最大の憧れの正体じゃないか」なんてRは雑誌に語ったことがある。

 相手の記者は目を丸くして、だけれど「ああその通りですね」なんてことを言っていた。

 もちろん取材の合間に語ったことでそれ以上の意味はなかった。

 RとEはしばらくの間その神奈川の海の近くで過ごした。

 収入は悪くなかった。月50万円ほど稼げた。

 二人で海沿いで釣りをしていた。

 RはやけにEは冷たくなっていることに気付いた。

「どうしたの?」Rは聞いた。

「ううん。別に」

 最近話をしていても盛り上がらない。

 なんとなくRは一人で歩いていて、EはただRの後についてくるような感じしかしない。

 海の潮風を二人で浴びていた。太陽が僕らとは真逆で馬鹿みたいに綺麗だ。

「今日の晩御飯は何にしようか?」 

 Eは少し不満げにRに聞く。

「どうしよう。麻婆豆腐とか?」

「わかった。買ってくるねー」

 Eはスーパーへ買い物に出かけた。

 Rはなんとなく一人で生きている感じがした。

 数か月後レコード会社から電話がかかってきた。

「お前はクビだ」

 どうやらマレーシアに仕事を持ち掛けられ受けたことがばれてしまったらしい。

 週刊誌はまたRのことを書いた。

 Rは完全に職を失った。

 奇妙なことに彼が27歳の誕生日を迎える前にEは家から出ていった。

 RとEは別れた。

「あなたと一緒に過ごせてよかった」とEは別れ際に言った。

 Rは神奈川の家で一人過ごしていた。

 もう仕事がない。相変わらずRはEを求めていた。

 実家に帰っても仕事がないし、Eは出ていき貯金は減っていった。

 神奈川の別荘で一人で過ごす。

 いったいどうすればいいのかRには検討がつかない。

 今から会社に転職するか、どこかの音楽大学で講師でもするか。

 Rは会社の求人サイトを開き職を探した。

 耳にはイヤホンで自分の作曲した曲を聴いていた。

 昔なら夢のようだったが、今では当たり前になってしまった。

 結局Rは小規模の音楽雑誌を売る出版社に仕事が決まった。

 スーツを着て出社すると数十人の社員が働いていた。

「おはようございます」とRは都内のビルの一室で声を出した。

「おはよう。今日からよろしくね」

 四十代くらいの男性JがRにそういった。

「一通りの仕事はYに聞いてくれ」

「よろしくね」とYは言った。

「よろしくお願いします」

 Yは三十歳の社員で取材を行っていた。僕も音楽業界にはつてがあるが、この会社は主にクラシック音楽を扱っていた。

 その手の分野ではこの会社は有名で、いわば盛り上げ役のようなものだ。

 僕は付き添いでピアニストの取材にいった。

 Yが二十台前半のピアニストにインタビューをする。

 スポットライトが辺り写真撮影が行われる。

 Rはその様子を見ていた。

 取材を終え、車で移動する。

「Yさん。仕事はどうですか?」

「疲れるわねー。今日のあの子見た? 小さいころからずっとあんなんよ」

「ですよねー」

 RはYさんの隣で話に合わせていた。

「今度の取材はどこ行くんですか?」

「あなた免許持ってるわよね?」

「はい」

「ちゃんと道覚えておきなさい。帰りはあなたが運転するの」

「わかりました」

 Rは年上のYに少し冷たくされ反感を抱きつつもしっかりと道を覚えた。

 コンサートホールに取材に行く。Rは写真を撮る。

 6時前に会社に戻る。資料をまとめて僕は居酒屋に連れていってもらう。

「あなたあのRでしょ?」

 Yさんは僕に言う。

「はい」

「どうしてこんな仕事してるのよ?」

「もう事務所を首になったんです」

「作曲は?」

「今もしていますよ」

「じゃあなんでうちに来たわけ?」

「だからもう」

「そんなんじゃだめよ」

 Yさんは声を荒げた。

「私はあなたの曲を知っているの。今度現代音楽のコンサートがあるからそこに行ってみるといいわ」

「僕はもう別にいいんですよ。でもまた作曲家としてやれたらなんて思います」

「そう」

 ビールに焼きとりを頬ばった。結構うまい。普段から行っていた高級店なんかより全然こっちのほうがうまい。

「つくねと皮二本ずつ」

 Rは店員に注文してビールを飲み干す。

「あなた結構飲めるのね」

「ですねー」

 なんて会話を繰り返していた。

 RとYは電車で家へと向かう。

「またなんであなたは神奈川になんか住んでるわけ?」

「そこが落ち着くんです」

「こっから何時間かかるのよ?」

「一時間半」

「笑えるわね」

 そんな感じで彼らは駅で別れた。

 Rは電車内で本を読んでいた。

 本が心地がいい。文章が音楽みたいに頭の中に入ってくる。

 さっきYと何を話したのかももう覚えていない。

 電車を乗り換えRは最寄り駅まで着いた。

 そのままふらっとRは駅前のラーメン屋に入る。

 餃子とラーメンを注文する。

 テレビではニュースがやっていた。

 餃子とラーメンを食べながら、さっきの小説を片手に読む。

 店を出て、家までの道を歩く。

 街灯が街を照らす。辺りは寂しく暗い。月が出ていた。雲が流れていく。

 家に着くと、Rはスーツを脱ぎシャワーを浴びる。そしてすぐにベッドにもぐりこむ。

 瞬く間に夢の中に落ちていく。なんだか悪くない日々だ。

 目覚めると小鳥の鳴き声がする。昨日の酒もすぐに消化されたようだ。

 朝の陽光を浴びながら、コーヒーを飲む。

 そしてハムと卵を炒めて、ごはんを一人分焚き、そしてほうれん草でみそ汁を作る。

 簡便な朝食を部屋で食べて、またRは出勤する。

 徐々に仕事を任されるようになった。

 おおよそ家で眠り、会社で朝から夜まで働き、そして通勤するという生活だ。

 悪くない。金も十分手に入った。

 Rの契約していたレコード会社に知り合いの女の子がいて彼女はTというが、その子と今度食事をすることになっていた。

 土曜に仕事を早く切り上げたRはTと都内のカフェで待ち合わせした。

 眼鏡をしていたので中々Rとは気づかれなかった。

「どうしてまたこんな時に呼び出したのよ?」

 TはRにちょっと不満そうに言った。

「なぁ、俺がEと付き合って会社クビになって別れたのは知ってるだろう」

「彼女いま大変みたいよ。今じゃあどこかの劇団で演技をするくらいになって、もう映画には出れないみたい」

「俺だって大変だったんだよ」

 中々本題に持っていけない。

「もしかして私と付き合いたいの?」

 Tはストレートにそういった。

「いいや、別に」

「うそよ。あなたってそういう時以外こんな風に誘わないって業界の女の子が言っていたわ」

「知らないよ」

「ねぇ、付き合いたいんでしょ?」

 アイスコーヒーは空になっていた。Rはお代わりをした。

「まぁちょっと友達になりたいくらいだよ」

「それって彼女じゃ?」

「そうだよ」

 Rは少し大きな声で言った。

「聞こえてるわよ」

「別にいいさ。君はいつも俺のタイプだった」

「へぇー」

「本気だよ」

「じゃあ私と付き合う?」

 Rは気まずさにコーヒーを飲んだ。

「付き合いたいよ」

「いいわよ」

 RとTは神奈川の家に向かった。

「あなたとEが借りてた家でしょ?」

「俺が決めたんだ」

 二人で土曜の夜に近所のラーメン屋でご飯を食べた。

「俺はこういうところが好きなんだよ」

「嘘よ」

 Tはそういう。

 ラーメンを二人ですすり餃子一皿を分け合った。それにビールを飲んだ。

「なぁ愛も絆も朽ち果てた枯れ木じゃないか? 所詮俺たちは人間だぜ?」

 酒に酔いながらRはそう言った。

「なによそれ?」

 Tは訊ねる。

 餃子を全部食べて、ビールを飲み干す。

「俺は怖えよ」

 Rは酔い紛れにそんなことをつぶやく。

「何が?」

「ただ過ぎていく時間が。いったい何が正しいんだよ」

「知らないわよ」

 Tはそう言ってビールもラーメンも全部食べ終えた。

「なぁ人生っていったい何だと思う?」

「さぁねー」

 二人は夜道を歩く。きらきらと星が瞬いていた。もう夏の夜だ。もうじき花火だとか祭りとかが行われる。

 悲しいほどかすんでいくのは彼女の横顔だった。

「明日休みだろ?」

「そうだけど……」

「どっかの馬鹿でかいホテルに行かないか?」

「あなたの家がいい」

 彼らは二人で家へと帰った。

 神奈川の大通り沿いの海の側の別荘のような小さな二階建ての一軒屋だった。

 木造の築十年で、下がリビングと寝室で上に二部屋あった。Eが使っていた部屋は綺麗に片づけた。

 きまずいがTにその部屋をあてがった。

「ねぇなんでわざわざEが使ってた部屋なのよ」

「もう片付けたよ」

「寂しくないの?」

「別に。もうあいつは俺のことが好きじゃない」

「知ってるけど」

 Tは笑った。

「あなたって不器用だから」

「そんなことねえよ」

 二人でシャワーを浴びて風呂に入った。

 裸をお互い見るのは初めてだった。

 湯気が舞い上がる。静かに時は過ぎる。水の音しかしない。温かい隔離された空間で僕らは黙ってお互いを見つめ合う。

「寂しかったの?」

「別に」

「うそ」

「お前は?」

「寂しいよ。そりゃあね。いつも実家に帰りたいの。内心ね」

 風呂から出て彼らはベッドの上で抱き合った。

「ねぇ。来年もこうしているかしら?」

「きっと」

「うそつけ」

「本当だよ」

「ねぇ、喉が渇いた」

「水でいい?」

「ワインがいい」

「わかった」

 Rはワインセラーから白ワインをそれも一番高いやつを開けた。

「ねぇいくらのやつ?」

「うーん。数十万かなー? 昔もらったやつだよ」

 ベッドの上で二人でワインを瓶のまま飲む。

 アルコールが体に回る。

 二人で抱き合い、そしてセックスをする。

「好き」

「俺も」

 そんな風にして時間は深夜を回る。

「音楽が……」

「ん?」

「音楽が聴きたい」

 セックスが終わりベッドの上でRはつぶやく。

 RはオーディオにCDを入れてスイッチを入れる。

「まさか自分の曲流す気?」

「そうだよ。この間俺が作った曲を」

「自慢?」

「そうだよ」

 静かなバイオリンの独奏だった。もちろんRが作り弾いた曲だった。

 旋律が部屋に響く。川の流れみたいな曲だろう。

「さすが作曲家ね」

 Tはつぶやく。

「もう寝ない?」

「ベランダでちょっと煙草でも吸おうよ」

「いいけどー」

 RとTは二人で煙草を吸った。風が吹いて夜の中に涼し気な大気が紛れていた。

 彼らは一本吸い、そしてベッドに戻り、眠りについた。

「明日どこへ行く?」Tは言う。

「どこでもいいよ」

 そんな風にして二人は夜、眠りについた。


 朝目覚める。Tが朝食を作っていた。Rは洗面所で顔を洗い、リビングのテーブルに座る。

 ありあわせの食材でTはサラダとトーストを作ってくれた。

 バターをトーストに塗る。

 Tが席に座る。なんだか申し訳なさそうにRのことを見ている。

「何?」とRは言う。

「別に」とTは言った。

 Tはすでに化粧をしていた。

 Rはそんなことにも気づかない。

 紅茶を二人で飲む。TはRのことを見ている。Rは食事をしていた。

 TはRの目を食事をしながら見つめていた。

「ねぇ。今日海に行きたい」とTは言った。

「いいけど」

 TとRは朝食を食べ終えて、二人で皿を洗った。

 服を着替えて海へ向かう。

 夏の日差しがでていた。やけに大気が暖かい。日の光が眩しい。

 通りには数人の人が歩いていた。

 やけに二人で歩いているのが気まずかった。

 27歳のRと24歳のTだった。

 二人で海を眺めた。そして適当に砂浜の店でビールを買った。

 海水浴場にいつの間にか変わっていた。

 二人は近くの浜でビールを飲み、ただ海を眺めていた。

 隣を歩くTばかり見ていたが、そのうちにRは周りを見渡す。

 そしておおよそ大部分の人間が自分のことを知っているという奇妙さに取りつかれた。

 それはまるで世界が自分だけ切り取られ、隣にいるRですら自分を取り囲む人間たちの中の一人なのではないのかということだ。

 TはRのことを見ていたが、明らかに周りの目を気にしていた。

 そしてRはそのことに気付いていなかったのだ。

 海と空ばかり見ていたのはRだった。

 そしてTはRではなくただ周りが自分たちのことを常に見ているという事実に注目していたのだ。

 それはTにとって耐えがたい事実だった。

 何よりRは一人でいることを好み、Tは複数の人間といることを好む性格だからだ。

「才能だけじゃ生きていけないことを知った」

 Rはふとつぶやいた。

「美しい曲も切ない曲も何もかもは所詮映画音楽の中の曲に過ぎないんじゃないかって」

 Tはただ茫然とRのことを見ていた。

 いま気にすべきはRとTがこの海水浴場でさらしものになっているという事実だ。

 もはやRにはそのことを気に掛ける気力も残されていなかった。

「そうね。あなたの音楽はいつ聴いても素晴らしいから」

 Rは漠然とEも似たようなことを自分に言っていたなと思い出した。

 Rはまたかと思った。

 そうやってEも自分から離れていった。

「帰りましょ」とTは言った。

「うん」

 二人で海岸沿いを歩いて家に帰った。

 家の中は静かだった。そしていまいち盛り上がりにもかけた。

「明日仕事だから帰るね」

 TはRにそういった。

 Tがいない部屋。Eが出ていった家。

 Rは一人でこの楽園の中に佇んでいた。

 十八で大学に入り、地元を離れた。

 両親はRに対して優しく育ててくれた。

 翌朝目覚めたRは会社へ向かった。昨日のTの態度を思い出して嫌になる。

「Yさん」RはYに問いかける。

「この書類全部やっといて」

 かなりの量の仕事をYから与えられた。

 Rはもくもくと仕事をこなした。失礼のないようにメールしたつもりがちゃんとマナーができてなかった。

「ちゃんとやれ」とYに怒られる。

「すみません」

 Rは謝った。

 昼食を課長と食べにいく。Rはしらべた店に課長を連れていった。近くの中華で評判もよかった。

「君は中華が好きなのか?」

「はい」

 そんな感じで彼らは定食を食べて、店を後にした。

 先週とは打って変わって上司は厳しくなった。Rはしっかり仕事をこなさないといけないと再度認識した。

 Rはいつもより根を入れて仕事に打ち込んだ。内心最初は仕事を馬鹿にしていた面もあったが、今は真剣に仕事に取り組まなければならないということを思い知った。

 そしてその日は十二時まで仕事を行なった。

「君はやけに素直だな」と上司から帰り際に言われた。

「はい。それだけが取り柄で生きてきました」

 ネクタイとワイシャツを締めてRは家に帰った。

 家に帰るとすぐにRはシャワーを浴びた。そしてTに電話をかけた。

「この前は悪かった」RはTに謝った。

「何が?」とTは言った。

「もっと真剣になるべきだった」

「別にー」

「本当にありがとう。今週末に食事に行こう」

「何急に?」

 Tは笑い出した。

「いや、本当に俺は反省したんだよ。今までの生き方を」

「そんな風に考えるのがちょっといらっとするのかな?」

「そう?」

 そんな風にしてRは電話を切った。

 Rはすぐにフルーツのジュースを飲んだ。時刻は深夜3時を回っていた。

 明日は7時に起きないといけない。

 翌朝眠い目をこすり7時ぴったりに起きた。そして会社に向かい、昨日と同じようにRは深夜まで仕事をした。

 帰りの電車で神奈川の家から会社のすぐ近くのマンションに引っ越すことを決めた。

 週末にTと二人でこれから一緒に住む家を探した。

 都心の会社から四駅のところに部屋を借りた。

 帰りTと共に神奈川の家を訪れた。

 電車内で人目に触れないように眼鏡をかけたTとRは二人で家に帰った。

 相変わらず音楽が好きだった。頭の中には音楽のことしかなかった。

「やっぱり二人で住むのやめない?」

「どうして?」Rはうすうす気づいていた。

「気持ちはわかるよ」

「そうだね」

 次の駅でTは降りた。

 懐かしい空気も今はどうでもよかった。ただTの横顔ばかりを自分の目は追い続けていた。

 Tの去り際にRは泣いた。

 もどかしいくらいに自分のことを責め続ける子供の顔をしたRの亡霊がそこにいるのを見つけた。

 亡霊はRのことを呪っていたのだった。

「そんな顔で俺のことを見ないでくれ。俺は俺なりにちゃんと生きてきたんだ」

 亡霊は相変わらずRのことを許してくれない。

 神奈川の家を引き払い、Rは会社近くのマンションに引っ越すことを決めた。そして後になってRがこの町へ来たことを近隣の人が嫉妬していたことを知った。

 Rは会社で一生懸命働いた。その分給料は増えた。

 Rは少しずつなんで自分がここにいるのか考え始めた。

「R君」職場の女の上司に呼ばれた。

「話があるの」

「なんですか?」

「あなたの曲をこの交響楽団で演奏したいって」

「そんなチャンスがあるんですか! そりゃあいくらだって書きますよ。もう本腰を入れて作っていた曲があるんです」

「序曲で演奏されるだけよ。それにこれプロだけど無名だし」

「本当にそれだけでいいんです」

 Rははりきって仕事を行った。いったい何のためにやっているのかもわからない。ただとにかく仕事にだけ熱中したかった。とにかく上に行きたい。それが渇望していた何かだ。

―嗚呼。ただ嫌われているだけなら好かれないのなら俺はただ欲しいものを手に入れる。

 Rは内心そんなことをつぶやいた。

 夕暮れの中にカラスが飛んでいた。そのカラスは真っ黒な体表をまとっていた。

 Rはその日の仕事を9時に終わらせ、すぐに近くのマンションに徒歩で帰った。

 徒歩二十分のところに1LDKのマンションがあった。

 Rは今までこの日のために書いてきた交響曲の作品集を眺めた。そしてそれを教えてもらった構成に書き換える作業を12時まで行いシャワーに入り、ベッドで眠った。

 朝毛布の暖かさと共に目覚める。毛布の暖かさに包まれて眠りたい。夏の暑さもクーラーの風で吹き飛ばす。

 穏やかな夏の夕暮れだった。いつの間にか時間は移動していた。地表からこみ上げる熱は綺麗になくなっていた。時間が揺れる。時計みたいに時間がまきもどる。

 気付くとRは昨日の夜にいた。思わずベランダに出ると星空から銀色の星屑が降り注いだ。雲の切れ間から流星が音速で地面へと降りてくる。

 まるでパチンコ玉みたいだ。だけれど地面と衝突した銀河の星屑は地上で張り裂ける。Rは瞬間の奇妙な出来事に目を奪われた。

 そして最期の瞬間に流星群が地球を覆いつくし、あまりの威力にタイムシフトしたことを彼は瞬時に悟った。

 気が付くと、朝だった。しかも遅刻しそうな時間だ。夢を見ていた。それは自分が作曲家になったという夢だった。

 


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