第41話 進展

 3年前、新宿作戦の半年後である。田井中が作戦室に関係者を集めて研究結果の報告を行ったとき、季節は既に秋から春になっていた。明らかにやつれた面持ちの田井中は、スクリーンに健二郎たちが記録したゾンビが苦悶する様子を収めた映像を投影させつつ報告を開始した。

「我々は半年前の新宿作戦の際に確認された、このゾンビの異常行動の原因について結論を下しました。その結論を申し上げますと、ゾンビはある条件下に置かれた状態である周波数の音波を耳にすると、このように我を失って暴れ出すと考えられます」

「その条件と言うのは?」

 小松川の問いかけは一同の最大の関心事を代弁したものであった。一同は戦慄にも似た心持ちで田井中の返答を待った。

「香りです。キンモクセイの」

 一同は肩すかしを食らったように感じた。さぞかし難解で再現困難な条件であろうと奇妙な期待すらあったのだ。

 一同の中でも年長の部類に入る小松川は、キンモクセイの香りと聞いて少年の頃を思い出さざるを得なかった。

「キンモクセイの香りと言うと昔、芳香剤の匂いによく使われていた。あの?」

「そうです」

 岡野が確認のためスクリーンにキンモクセイの写真を呼び出した。スクリーンには濃緑色の葉にオレンジ色の小さな花がちりばめられた、高さ2メートルほどの小高木が投影された。

「キンモクセイ…秋頃にオレンジ色の小さい花がたくさん咲くこれですか? よく民家の庭先に植えてありますが」

「そうです」

 現地にいたサイボーグ2人は首をひねった。

「でも、あのときキンモクセイの匂いなんてしたっけか。サエちゃんよ」

「さあ、記憶にないなあ。記録にはあると思うけど」

 サイボーグ2人の疑念に田井中は明快に答えた。

「三枝さんと郡司さんはヘルメットをかぶっていたし、観測班の皆さんは防護服を着込んでいましたからね。匂いには気付かなかったのでしょう。別に有毒なものでもないですから、センサーもとくにアラートを出さなかったのだと思います」

 恵美が挙手した。

「それにしても、キンモクセイの香りと音波がどういう関係で?」

「その両者を結びつけるのはゾンビ特有の脳内物質です。詳細は省きますが、ゾンビの脳内では人間にはない分泌物がありまして、鼻からの刺激と耳からの刺激によって異常分泌されるようなのです。その結果、ゾンビは恐慌状態に陥るのです」

 恵美はさらに質問を続けた。

「その脳内物質というのは?」

「これがじつは三枝さんが気付いたゾンビのパワーアップの源でもあります。これの分泌量が多いほどゾンビの身体能力と攻撃性が向上することが確認されました」

 田井中は一呼吸置いて報告を続けた。

「正確に言うとゾンビはパワーアップしていったのではありません。パワーダウンしていたのです。都心部から離れるにつれ、その脳内物質の分泌量は減少していました。おそらく感染を重ねるにつれ分泌量も少なくなったのでしょう。それだけゾンビは身体能力を失っていたのです」

 岡野が自嘲気味に呟いた。

「なるほど。ゾンビの拡大を関東だけで食い止められたのはゾンビが弱体化していたからか」

 次に挙手したのは小松川であった。

「その匂いと音を別々にゾンビに振りかけたらどうなるんです?」

「それをしてしまいますと、問題の脳内物質の分泌量が増大し、返ってゾンビの凶暴化を招くことになります。ゾンビは少女の声に引きつけられると言われていましたが、その正体は脳内物質の増加による凶暴化だったのです。キンモクセイの香りだけでも同様です。やはり両者の相乗効果が重要になります」

 健二郎が立ち上がった。

「それで、田井中さん。その研究結果を基にした新兵器とか新戦法とかはないんですか!?」

 田井中は逸る健二郎に苦笑いを漏らした。

「我々の下した結論は政府に報告済みです。そして、既にいくつかの企業からこの研究結果を利用した、対ゾンビ兵器の開発に対する協力を求められています。まだ先の話になるでしょうが、いずれ新しい戦術をとることが可能になるでしょう」

 室内に歓声が起こった。いつ終わるとも知れない、気の遠くなる先行きにかすかながらも終点が見えてきたのである。

 報告を終えた田井中はふらふらと席に戻るや、デスクの引き出しに鍵を差し込み弱々しく捻った。田井中が取り出したのは”信長の覇権・バージョンアップキット”と銘打たれたゲームソフトのパッケージであった。田井中は趣味のゲームを封印してまで研究に没頭していたのである。


 田井中とその研究グループの研究成果を応用した新兵器は健二郎たちが思ったよりも早く登場した。

 キンモクセイの香りを化学的に合成した発香性物質の散布装置と音波発振装置のふたつである。これらは当初、ゾンビへの攻撃兵器として開発されたが、ゾンビの群にむけて装置を使用しても、ゾンビは逃散するばかりで返って非効率であると評価された。そのため、この2つの装置は防御装備として発達していった。小型化した装置を兵士1人1人が装備することにより、ゾンビは兵士に近づくことができなくなり、結果として兵士の安全性が飛躍的に高まったのである。これにより交戦距離が短縮されて、ゾンビへの攻撃命中率が大きく上昇したのである。

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