第4話 バレンタイン1号
1年前、即ち、ゾンビパニックが発生してから3年の後である。経済も社会も甚大な打撃を受けてはいたが、ゾンビの拡大が最小限に抑えられていたこともあり、ゾンビ封鎖線の外では日常生活がそろそろ取り戻されつつあったころである。
健二郎も日常の朝を迎えた。朝は健二郎がもっとも気に入っている時間帯である。ベッドから身を起こし、鏡に向かっておはようのウィンクをすることから健二郎の1日は始まる。バスルームで全身を清めてから、鏡でポージングを念入りに行う。それから登学の用意を整え、玄関の姿見に行ってきますの投げキッスをして出かけるのである。要するに朝は鏡を見る機会が多いのだ。
この日も玄関ドアを開けるまではいつも通りだった。しかしこの日、健二郎は玄関ドアを開けた瞬間、意識を失ったのであった。
「ぼくはどうやら眠っているらしい。いや、眠っている場合ではない。大学へ行かなければ。大学へ? 今日はもう身だしなみを整えて大学へ行くところだったはずだが……? 今は何時だ……? いや、その前に……ぼくは誰だ……?」
健二郎はゆっくりと目を覚ました。自分は寝台に寝かされているようだ。見たことのない天井が健二郎の視界を覆っている。
「所長、彼が目を覚ましたようです」
落ち着いた、威厳のある女の声が健二郎の混濁した意識に響いた。
「おお、目が覚めたかね」
初老と思われるのんびりした男性の声だった。
「貴方たちは? ぼくは……?」
「私の名は山内恵美。こちらの男性はこの研究所の栗田清所長。私たちは生体工学の科学者よ。気分はどう?」
「超悪い」
「すぐによくなるわ。ところで、貴方の名は?」
「ぼくの名前? 名前……名前は……健二郎……三枝健二郎だ。それよりなんのつもりだ……。研究所とはなんのことだ」
「うまくいったようですね。栗田所長」
「うむ、うまくいったようだの。では、わしから順を追って説明しよう。まず君はいわゆるサイボーグになっておる。絶対断られると思ったから勝手に脳移植させてもらったよ。ほっほっほっ」
「は?」
健二郎はこの男の言うことが理解できなかった。いったい今の発言のどこが順を追っているというのか。
「君にはその体でゾンビと戦ってほしい」
「は?」
「わしの開発した、超強化アーティフィシャルボディ・バレンタイン。その第1号に君の脳波が異常に高い同調率を示したのでね。ここまで来てもらった次第なのだよ。バレンタインとは、わしの研究成果の結晶での。超鋼製の強化骨格を人造の強化筋肉が纏いそれを人造の強化皮膚が包んでおる。動力は超小型の核ゆ…」
ようやく意識が鮮明になった健二郎は栗田のご高説を遮った。
「そんなことはどうでもいいから、早くぼくを家に帰せ」
「ほっほっほっ」
「ほっほっほっじゃない。だいたい、サイボーグって何の冗談だ」
「サイボーグと言っても、脳を機械の体に移したのだから厳密にはサイボーグではないかもしれんがの。とにかく、実際に体を動かしてもらった方がよかろう。一度外に出るとしよう」
「あんたなあ」
寝台から身を起こした健二郎は、隣の寝台に横たわっている人物の顔を見て驚愕した。この神々しいまでの美顔は健二郎の顔ではないか。
「これはどういうことだ!」
「だから言ったろうに。今のお前さんはその機械の体に脳移植されたサイボーグだ。その体はちゃんと保存しておくから安心したまえよ。ところで、何をしとるのかね?」
「きれいだ。傍から見ても美しいな。ぼくの顔は」
「あー、もういいかの? それよりこれでわかっただろう。その頭の中に脳は入っておらん」
「それで、今のぼくの顔はどうなっているんだ?」
「えっ、それ気にするのかね?」
「もちろん」
「恵美君、鏡はあるかの?」
「どうぞ」
彼女はポケットからコンパクトを取り出して健二郎に向けた。
「どれどれ……」
鏡に映ったブサイクを見たとたんに健二郎は嘔吐した。恵美はフィギュアスケーターのように鮮やかな体捌きで吐瀉物を避けた。それにしても、サイボーグだというのに嘔吐するとは何事であろう。
「うわあ、わしの研究室がすっぱい匂いで満たされるう」
健二郎は口内に残った吐瀉物を吐き出して栗田を怒鳴りつけた。
「なんだこのバケモノはあ! 今すぐぼくを元に戻せえ!」
「戻すのは簡単だが、そうはいかん。さっきも言ったようにお前さんにはゾンビども、人類の脅威を除いてもらわねばならんからのう」
「なんでぼくが……」
「さっきも言った通り、その鋼の体に適合する脳が君の脳だった。それだけじゃよ」
「ほお、ただそれだけで、人を拉致して無断で脳移植して、あのゾンビどものただ中に飛び込めと?」
「その通り。お前さんが今の体で全力を出せば、ゾンビどもなど物の数ではない。拳であれば岩を砕き、蹴りであれば鉄を破る事も可能であるぞい。その力で人類を解放してはくれんかね」
「いやだ」
「お前さんも知っとるだろう。もはや軍隊だけでゾンビを排除することは難しい。銃撃は効果が薄いし、といって砲爆撃では周囲へのダメージが大きすぎる」
「それがどうした」
「ゾンビを活動停止させるには、接近して首をはねるのがもっとも確実なのだが、並の兵隊にはなかなかそんなことはできんし、させられん。それができるのはサイボーグとなって、超人的パワァを手に入れたお前さんだけなのだ!」
栗田は健二郎をなだめすかし、事後承諾を得ようとするが、彼の返事は氷点下の冷たさであった。
「お断りだ」
「取りつく島もないのう。頼む。この世界を救ってはもらえんか」
人類の存続を賭けた願いのわりには、栗田の頼み方は、コンビニエンスストアへのお使いを頼むかのようである。
「ところで、あんたさっきから詫びの一言もないよね」
「ほっほっほっ」
「おい、ごまかすんじゃない。誰に何と言われようとお断りだぞ。勝手に人体改造されて、しかもゾンビと戦えなんて、こんなふざけた話があるか」
「ふむう、あんまりワガママいうとお前さんの肉体にイタズラしちゃおうかのう」
「なんだと?」
「例えば、両方の乳首に乳毛を生やすとか」
「おい、何を言ってるんだ!」
「それとも、腿の裏毛を濃くしてみようかのう」
「うおわあああああ! ぼくがどれほど体毛処理に気を使っているか、わかってて言っているのか!?」
「承知してくれるかね? ん?」
「おのれ、卑怯者めが」
「ほっほっほっ」
「くっ、わかった。とにかく話を聞こう」
「よしよし、まずは外へ出て軽く体を動かしてみようかの」
健二郎は懇願の衣を着た脅迫に屈したのであった。
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